Refugee Camp Report その1

学生の目線で注意深く観察して感じたことを、なるだけ多くの人に伝え、彼らの抱える問題について皆さんと一緒に考える機会を持つ事が出来ればと考えています。
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私は現在、週1・2のペースでベルリンの難民キャンプにて食べ物の配膳をしています。ずっと内部の様子を見たいと思っていた矢先、難民キャンプのボランティアをネットで募集していたので、これしかないと思って飛びつきました。

私は今まで、紛争に苦しんだ経験を持つ人と深くパーソナルに関わったことがなかったので、現場百遍の意気込みで彼らから何かを学び取りたいと思ってます。もちろんメインの仕事は食べ物の配膳なのですが、せっかくの機会、学生の目線で注意深く観察して感じたことを、なるだけ多くの人に伝え、彼らの抱える問題について皆さんと一緒に考える機会を持つ事が出来ればと考えています。

1日目(11/5)

キャンプはベルリン中央駅北口から歩いて15分ほどの公園の敷地内に位置します。私は場所程度しか調べていなかったので、てっきり小さなテントの集まりを想像していたのですが、広大なテントが佇んでいました。中の気圧が異様に高く、ドアを開けるのに結構な力が必要でジタバタして、ガードマンに怪しまれてしまいました。

中は思ったよりも暖かいなぁ、というのが最初の印象です。卓球台や子どものプレイスペースなどがあり、小さなコミュニティに息づく活気が感じられました。想像に反し、現実のヒューマンパワーのギャップに立ちつくしてしまうほど。大丈夫だと思うけど、感染症伝染の恐れがあるからサインしてね、という説明を受ける傍ら隣を元気に走り回る子どもたちに圧倒されました。

私はキッチンに案内されました。中で活動されていたボランティアの方々は当然ドイツ語を話されていましたが、私が英語しか話せない旨を伝えると、快く英語で指示をしてくださいました。配膳の準備のあと、キッチン内部のカーテンをオープンすると、長蛇の列が有りました。

メニューはミートソースのパスタにバナナとパンでした。一緒に私の配膳を伝ってくれた気のいいのおばちゃんは「美味しいモノではないけど、まぁ一応食べるものではあるからね」と仰っていました。栄養バランスの観点から、決して望ましい晩ごはんではありませんでした。

シリアやイラク・アフガニスタンから数十日かけてドイツまでやって来た人々を想定していたので、彼らの疲労の色も濃いものかと思っていました。ところが希望するパンの数をにこやかに告げてくれる同年代の青年たちは逞しい。大人たちの間を縫ってバナナを狙う育ち盛りの子どもたちの強く訴えかける姿に、「列に並んでね」の一言を言う事さえ躊躇しそうになります。

一方でこれは私の主観ですが、赤ちゃんを抱えるお母さんは傾向的に憔悴気味の人が多かったので、彼女たちにとっては本当に厳しい環境なのかな、ということが伺えました。一見、乳児を抱える人に特別な支援をしているのかなぁ。

ムッと口を結んだ強面のお父さんに難民申請カードを見せられ、赤ちゃんが居ることを理由に他の人よりも多くの分量を頼むとすごい形相で言われるとバイトの新人のように戸惑ってしまいます。しかし、決められた分量以上のものをあげるわけには当然いきません。

脆さを露呈したかもしれない私に優しく微笑みかけてくれる子どもやお母さんが沢山居ました。優しい眼差しに救われ、気を引き締めます。渡辺和子さん著『置かれた場所で咲きなさい』( 幻冬舎, 2012) に登場する、マザーの修道院で空腹の人に向けて行っていた炊き出し食料の配膳を行っていたシスターに向けて問いかけた言葉を思い出しました。

あなたたちは、受け取る一人ひとりにほほえみかけたでしょうね。ちょっと手に触れて、ぬくもりを伝えましたか。短い言葉がけを忘れなかったでしょうね。

もちろん僕はマザーになんかなれないけど、これぐらいはしないと。

夜7時から始まったシフトも夜11時頃、終わりに近づき、キャンプ内も消灯の時間。すると、少し困惑気味のような笑みを浮かべる男性に話しかけられました。おそらくアラビックを話していて、なんとか意図を汲み取りたいけど、全く分からない。両手を上下させてるのを見て、ピンと来た。メッカや!

お祈り?と彼に聞くと弾けんばかりの笑顔で頷いてくれる。そこで、方角が知りたいの?と聞いてもどうやら違うみたい。携帯にコンパス付いてるもんね。相手の求めることを理解するのは本当に難しい。一人では彼の助けになれそうにないので、キッチンで働いてる男性に事情を説明し、来てもらう。

どうやら、話を2人で聞いているとお祈りのために跪くマットレスが要るらしい。キッチンをくまなく探して、用意出来たのはゴミ袋くらいのものでしたが、彼は頗る嬉しそうに跳ねてキャンプの角に座り、信心が篤い姿に魅せられてボーッとしていると、なんだかそれがその日一番の仕事だった気がしました。

2日目(11/12)

キャンプでの仕事内容は前回とあまり変わらず。コーヒーや紅茶の準備が加わっただけで、基本的には慣れると難しくない仕事です。ようやくスコープが広がって周りが少しずつ見えてきたかも。前回は、スタッフの方とはある程度会話を交わしたけれど、難民の方とまともな会話できなかったことがすごく心残りだったので、休憩時間に彼らと一杯話してみようと思いました。難民という言葉を無為に使っていいのかも分からないけれど、彼らとの距離を縮めることが出来れば、と思いました。

メンバーは責任者のドイツ人の女の子(法科系の大学生)と最年長のおばちゃん以外、替わっていました。ポーランド出身の男性とイギリス人女の子と同時間のシフトに。翌々日にアウシュビッツに行くことになっていたので、宿泊先のクラカウですべきことなんかを聞きながら、準備にカツレツをザックザック切る作業でした。

メニューはパン・野菜のスープ(ミネストローネ風)・バナナ・カツレツ半切れ。スープは鼻をつくパクチーのような特徴的な匂いを放っていたので、重々しい気分になってしまいました。500人程の列が出来た前回に比べて明らかに人数が少なかったと思います。フシギなもので彼らの多くの顔を覚えてしまっていました。ぎこちない笑顔だったのだとは思うけれど、とにかく一人ひとりと目を合わせることを忘れずにやってみました。

この食糧がどこから来たのか、想像力が及ばないうちに嫌な予感が当たったといったらバチが当たるし、どうしようもないことだけれど私が注いだスープの味は不評で、顔をくしゃっとしてハッキリと拒否のサインを込めた苦笑いする子どもたちがたくさん。そうだよなぁ。配膳はすぐに終わり、休憩時間はあっという間にやってきました。

早速メモとペンを片手に、早速コモンスペースへ。さっきまで元気にバナナを頬張っていた少女と目が合い、ニンマリと笑みを浮かべてくれたので、話しかけてみました。すると、いっぱい子どもたちが集まってくる。何処から来たの?皆にと聞くとシリアとイラクの大合唱。しばらく彼らの話を聞こうと頑張ったのだけど、たくさんの元気な声の集中砲火に遭い、どうにも敵いそうにありませんでした。各々の出身地ほどの情報しか得ることが出来ず、膠着状態に陥ります。

すると、どこからか「私の夫、英語喋れるからおいで」との声が。クリーム色のヒジャブを身につけたご婦人が手を差し伸べて下さったので、子どもたちには申し訳ないけれど、後ろ髪を引かれつつ彼らのテーブルを立ち去りました。私の目的はココに来た人の経緯やここでの生活について詳しく聞くことにありました。でも、子どもたちの顔が脳裏に焼き付いてしまいました。言葉なんか気にしないで彼らと粘り強く話せたハズなのに、どこからか彼らとのコミュニケーションを諦めたのは良くなかったかもしれないです。

彼女の夫は、イラクでエンジニアをされていたそうです。厚みのある黒のカシミアのターバンは彼の風格をより際出せていて、徳のある方なんだろうな、という第一印象を持ちました。個人的な事情もたくさんお伺いしましたが、日本の人々に彼の経験を伝えてもいいと承諾を頂きました。既に同じようなことをされている方をネットで散見したので、これに大きなバリューがあるのか甚だ疑問ですが、貴重なお話の内容をここに記したいと思います。

以下 、彼との会話の内容です。ご本人の希望により、お名前は伏せます。

(a; 私 b; エンジニア)

a. こんにちは。僕は日本から来ているんですけど、もし良かったらお話を聞いてもいいですか。

b. もちろんいいよ。

a. ご出身はどこですか。

b. イラクのバグダッドです。

a. お仕事は何をされていましたか。

b. 東芝のエンジニアの研修生として働いていました。ほら、日本の。エアコンとか作ってたよ。

a. ホントですか?ここへ来られた原因はやはりISの勢力拡大による治安悪化ですか。

b. そうだよ。私は19歳の息子を喪いました。彼の写真があります。

a. それは本当にお気の毒です。拝見してもいいですか。

b. 妻が持っています。

彼のご子息はISに誘拐され、最終的に命を落としました。1枚目の写真は彼が暴力を受けたのち、ISから奥さんに送られた写真でした。目に痛ましいあざがありました。2枚目は彼が火炙りにあい、背中に大きなやけどを負った写真で、奥さんに身代金の要求とともにISが送付してきたものでした。ご夫妻は莫大な身代金を彼らに払いましたが、結局彼は帰って来ることはなく、彼の死亡の知らせを受け取ったとのことでした。数えられないほどの似たような例をニュースを通して見た一方、顔を通じたショックをよりリアルなものとして受け取らざるを得ませんでした。

a. ここへはどのようなルートで来られましたか。

b. イラク・シリア・トルコを経て、(密輸業者に)家族一人あたり$2500(家族は奥さんとまだ幼い女の子で合計3人)を払って地中海を渡り、ギリシャに上陸しました。その後、マケドニア・セルビア・クロアチア等を経てベルリンに辿り着きました。イラクを出発してから合計27日かかりました。

a. そうですか。フセイン後、徐々に国内の状況が悪くなっていくのを感じられましたか。

b. もちろん。アメリカのプロパガンダさ。シーアとスンニの対立の構図は必要以上に取り上げられて、西側諸国がわかりやすいように単純化しているだけだよ。実際、ここのキャンプではシーアもスンニも関係なく助けあっているし、ココまで来れば兄弟のようなものさ。日本はどうなの?

a. 日本は難民申請をほとんど受け付けていません。去年は5,000人ぐらいの申請があったけど、受け入れたのはたったの11人でした。選挙にも響くイシューでもあるからなのか、9月の国連総会でも安倍首相は難民に関する質問をかわしています。ネットの掲示板を見ても過激で排他的なコメントはすごい多い。まずは皆で関心を持って議論しないといけないんだけど、なかなか話せる雰囲気は出来てかもしれないね。

b. 多分、日本人は僕達のことを一般的に貧しいと思っているんだろうけど、全然そんなことはない。むしろ、インテリジェンスがあってお金もある人は多いよ。

a. そうですか。僕も漠然と人々は一般的に貧しいイメージを持っていたと思います。ごめんなさい。そもそも、日本が難民申請するにあたって魅力的な環境にあるかどうかっていうのも疑問ですね。日本語では180日間、日本語の習得のための支援を受けられるけど、とにかく習得するのにめちゃくちゃ難しい言語ですね。フォーマルな表現がなってないってよくこの歳でも叱られるんですよ。

b.そうだね。私はいまドイツがベストな場所だと思います。

a. ドイツ語も難しいですけどね (笑)。今はこの先の生活に希望を持たれていますか。

b. うん。戦争が終わってもイラクには戻らないだろうね。エンジニアの職を探すよ。3ヶ月ごとに滞在延期のインタビューがある。

a. 改めて、すべてを投げ出してベルリンに来られた覚悟の大きさが伝わりました。ありがとうございました。また来週会いましょう。

以上が会話の内容です。

私の興味本位なところもあり、どこまで彼のプライベートな部分にまで踏み込んでいいのか分かりませんでしたが、本当に快く、淡々とご自身から状況を淡々と話してして下さいました。

ニュースを見ていると、ドイツの寛容な移民受け入れを賞賛する記事が減り、国境検査の実施を求める有力政治家の発言、経済格差を心配した国民の感情の揺れにフォーカスする雰囲気になりつつと感じます。翌日(13日)に複数箇所で起こったパリのテロのうち、サッカードイツ代表対フランス代表の試合が行わていたスタジアムが標的になりました。

オランド首相とドイツの外相が観戦していたこともあり、主にムスリム圏からの移民を受け入れるドイツを筆頭としたへ欧州社会への挑戦・フランスをはじめとする社会の分断を狙う目的も推測されています。本当に不安な思いが募ります。しかし、引き続きキャンプで彼らに寄り添うことを目指しながら、現場の目線を忘れずにこの問題を捉え続けていきたいと考えています。

【著者からの訂正】当ブログ内の記述で「トンカツ」と書いてあった料理名を「カツレツ」と訂正します。提供した食品について不明瞭な記述があり、読者の皆様に誤解を与えてしまいましたことをお詫び申し上げます。(2015/11/29 10:56)