「新聞って、いる?」

偏向しているのはメディアばかりでなく、我々も同様なのだ。
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Shota Maeda

先日、『働かざる者たち』(サレンダー橋本著・小学館)という漫画を読んだ。斜陽産業と言われて久しい新聞社の中にいる、さまざまなタイプの働かないおっさんたちを描いた哀しくて笑えるものだった。

電通に勤めていた頃の何人かの顔を思い出したし、新聞社に限らず、サラリーマンなら誰でも、「うちにもいるいる、こういうおっさん」と思えるだろうから、人に勧めたくなる。

さて、ヨソさまの心配などしても仕方ないのだが、新聞というものをいったい誰が読んでいるのか不安になることがある。毎朝電車に乗ると、誰も新聞紙など広げていない。そもそも満員電車の時間帯に利用せざるをえない人たちは、そんなことは物理的に不可能だし、いや、比較的すいている時間であっても、みーんなスマホに目を落としているだけで、新聞を読んでいる人などほぼいない。

僕は新聞の熱心な読者であることを自負している。

電通時代には、先輩から、

「今朝、地下鉄でショータのこと見かけたけど、ものすごい真剣に新聞読んでたから、話しかけるのやめたわ」

と言われたくらい、読み込んでいる。

そんな一読者として、新聞に大きなお世話の提言をしたいと思う。

ご存知の通り、新聞各社には論調というものがあって、朝日新聞と毎日新聞はいわゆる「左系」で、現在でいえば安倍政権に対しては批判的な立場から報道をすることが多い。読売新聞と産経新聞はこれに対して「右系」と呼ぶことができ、たとえば憲法改正にも賛意を示している。

新聞の役割には、報道・意見・娯楽の三つがあり、中でも意見については各社、独自の個性をもって読者にアピールしようとはじまったものだと想像できる。しかし、僕にはこれが不思議なのである。新聞社も組織であるからには、いろいろな違う意見の人たちがいるはずだ。上層部や論説委員にだって、考えに差異はあるだろう。まさか入社試験で思想テストでも行なっているわけでもあるまいに。

なのに、なぜ朝日新聞は判でついたように朝日的主張をして、産経新聞は常に産経的論考を披露するのだろう。

僕は内部を知る知人に、それについて訊いてみたことがある。彼の答えはこうだった。

「空手の『型』みたいなものだよ。朝日ならこう、毎日ならこう、と、『こう書いときゃいいだろ』みたいに、それぞれが社風に従っているだけでは」

まぁ、記者もサラリーマンであるから、それはわからなくもない......。

古いものだが、ここに『体験的新聞論』(潮新書12・1967年)という本がある。昭和の「伝説的」新聞記者と言われた藤田信勝が書いたものだ。

彼は、"ニュース"というものは、"事実"の"コピー"であり、「事実のコピーが常に必ずしも真実を伝えるとは限らない」と論じた上で、「正確なコピーをつくるのは、できるだけ多くの面から一つの事実を切り取って考えてみることだと思う」と述べる。

「一つの事実を、かりに一つの円だと考えると、円そのもののコピーをつくることは、なかなか困難な仕事であっても、円に内接する多角形の数を増やすことによって円に近いものを描き出すことができる。AよりBのほうが、より円(事実)に近いといえよう」

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『体験的新聞論』潮出版社、1967、P53

この著作から五〇年が経って、現在の新聞社が「より円に近いもの」を読者に提供できているかと言えば、疑わしいのではないか。

商売的に言えば、円ではなく、三角の方が「尖っている」だけ人には刺さりやすい。扇情的とまで言わなくても、誘導的な見出し、一面的な報道、感情的な言葉、プロがこれらを用いれば、人の心をとらえることは容易いだろう。

スマホとあらゆるものが、限られた時間を奪い合う高度な情報社会の中にあって、競争の原理によってそのようなトガッた意見が突き抜けやすいのは仕方ないとも思える。

しかし、それによって起こるのは分断である。

アメリカで起こることは数年遅れて必ず日本でも起こるものだが、分断について言えば、その兆候はすでにはじまっている。

ネットメディアに顕著だが、左系メディアと右系メディアがはっきりと分かれ、片方の視聴者や読者は、もう片方には見向きもしないものだ。HuffPostは左系ということになるので、僕がたまにブログをあげると「ハフポらしくもない」などという意見を目にすることがある。そんなことはどうでもいいじゃねえか。

そうやって、メディアが「型」通りの主張を載せつづけたり、決まりきった報道ばかりしていると、同じような顧客ばかりが集まってきて、集団が凝り固まってくる。

スマホで記事を読む人は、聞きたい意見ばかり選択的に読むから、ますます偏向していく。そういうサイクルで分断の溝は深く、広くなっていく。

自省を込めて書くが、偏向しているのはメディアばかりでなく、我々も同様なのだ。

新聞が目指すべきは、トガッた三角ではなく、円ではないかと思う。

今、円を描くことを目指したメディアはほとんどない。

円だからといって、みんな仲良く、丸く収まるように話し合えと言っているのではない。

僕は、円の中での「穏やかで理性的なバトルロイヤル」は、充分に読者を惹きつける魅力があるのではないかと思っている。そう、右は右同士、左は左同士で、「そうだよね。そうだよね」と讃え合うのではなく、右と左が意見をちゃんと交わせば、これはおもしろいだろうと思う。

かつての『朝まで生テレビ』がそれを目指したのだろうが、結局、声のデカいものばかりが一方的に主張を押し通す、視聴に堪えない番組であった。それに輪をかけて醜いのが今のネットだ。

「武力ではなく対話」と言ってる連中が、対立意見を持つ人間と対話できないんだからなにをかいわんやだ。

そうじゃない。たとえば新聞社内で意見の分かれるグループがそれぞれ取材をして、違う視点から交互に特集記事を出し合うなり、ちゃんと両論併記で記事化するなりした方が、読んでいる方は知的娯楽として楽しめるということだ。

論説委員のご高説ではなく、普通の中堅社員がやったらいいと思う。政治家を含め、有名人のパフォーマンスはたくさんだ。

なんなら朝日新聞の人間と産経新聞の人間が一緒になって横断的にやったらいい。飲み屋では行なっているのだろうから、それをちゃんと紙面でやったらいいのだ。瀕死の新聞は一丸となってそれくらいやっていいではないか。

ひとつひとつのテーマに答えなんか出るはずはない。しかし、「答えなどない」ということを、一般の読者が理解しないと思考の停滞はつづく。

これを食べれば健康になる。これをすれば仕事ができるようになる。アベが辞めれば世の中よくなる。こういう考えを少なくとも子供に見せたくは、ないな。

僕自身の旗印を鮮明にするならば、死刑には賛成だし、移民反対だし、日韓関係に未来などないと思っている。しかし、反対意見の、まともな人間となら話してみたいという好奇心はある。ヒステリックなのと、恫喝的、暴力的なのはかなわん。

意見だってなにがなんでも変えないという意思はない。

新聞がちゃんとこの世の複雑さと困難さを、ただの単純化ではなく、整理して見せてくれるなら読みたい。

その過程で、「この記者は鋭い」「この人の書き方は響く」というように、記者にスターが生まれていくことも想定できよう。そうやって、顔と名前が見えるかたちで個人を「スター」にしていった方が、社としてもいいように思う。なぜなら、少なくとも僕は、誰だかわからない新聞「社」の考えなど求めていないからだ。

まぁ、スターから辞めていっちゃうだろうから、そこはゴメンやけど。

前出の藤田信勝には『敗戦以後』という、一介の記者の目で戦争末期からの混沌とした時代を見つめた、日記をベースとした著作もある。その中で、まさに戦争に敗れた八月十五日に新聞記者としての身の振り方に悩んだ、次のような記述がある。

「しかし、いまわれわれ全部が新聞社を去ったらどうなるだろうか。国民は杖を失った盲人同然だろう」

これをもって現代の視点から批判するのは容易いが、新聞社に勤めるというのは当時、かほど傲慢にも近い特権的立場であった。今はそんな時代ではないものの、やはり記者クラブをはじめとして特権的地位にあることは間違いない。

僕は、記者クラブは措いて、誇り高い職業であってほしいと、敬意を込めて思う。

藤田信勝は僕の祖父でもあるしね。

普段カネを払って新聞を読んでいる僕が、なんで一日使ってこんなことを考えなくてはならないのかわからんのだが、個人的には新聞は社会に重要な仕事だと考えているので、社会の分断を憂えて、休日を使って書いた。