【閲覧注意】この記事には、射殺場面の動画が多数含まれています。
アメリカ・ノースカロライナ州シャーロットで9月20日に発生した黒人男性キース・ラモント・スコットさんが警察官に殺害された事件をめぐり、「スコットさんが銃を持っていたから発砲した」と主張する警察と、「彼は本を持っていた」とする遺族の言い分が真っ向から対立している。23日に遺族が、翌日に警察がそれぞれ殺害現場の動画を公開したが、スコットさんが銃を持っていたかどうかは判別できない。
近年、携帯やスマホでの撮影、そして警察のボディカメラ着用の義務付けによって、警察による暴力の現場の様子が生々しく伝わってくる。
シャーロットの射殺事件現場で、妻のレイキア・スコットさんは、夫のキース・スコットさんを囲んでいる警官たちを見たとき、すぐに夫は撃たれたのではないかと心配になった。彼女は携帯電話のカメラを取り出した。
撮影された動画は、何百万回も再生された。この動画には、痛ましい瞬間も収められている。
警察官たちが死にかけている彼女の夫の周りに集まっているとき、彼女は叫んだ。「警察を呼んだ?」
警察を呼ぶ。それが通常やることだ。または、そうすることになっている。犯罪が起きたとき、人が緊急を要するとき、そうするだろう。警察は市民を守り、保護するものというイメージがあまりにも強いため、彼女が目撃した現実を受け入れるのは困難だ――警察が彼女の夫を射殺したのだ。
彼女はすぐに間違いに気づいた。「いや、救急車を呼んだ?」
何気ない間違いだが、警察官は裏切った。キースさんは血を出して道に倒れている。彼女は答えを待つまでもなく、自分で救急車を呼んだ。
シャーロットの警察官が足元に倒れている男性に対してとった反応は、特に珍しいものではなかった。携帯電話やドライブレコーダー、監視カメラがどこにでもあるため、警察の暴力に対する市民の考えが変わってきている。手ぶれと粗い画面の動画が何度も公表されるたびに、暴力とは別の要素が注目され始めている――撃たれた人は致命傷を負うが、警察官は自分が銃で撃った人間に対し、何の関心も示さないようだ。
負傷して死にかけている人間に対し無関心なのは、それ自体驚きだ。
特殊な状況下での発砲が法的、または道徳的に正当化されるかといった問題は別にしよう。おそらく正当化されるだろう。警察官はそうするしかなかった。緊迫した状況で、警官は最も恐ろしい権力を行使する。それは人間に対し殺傷力のある武器を使用することだ。そして、傷ついた人間には、何の手当てもしない。
【参考記事】
警官による発砲事件を捉えた動画は他にもある。 フロリダ州ノースマイアミの黒人行動療法士チャールズ・キンゼイさんが銃撃された事件だ。彼は生き延びた。キンゼイさんは道路上に座り込んだ自閉症の男性を保護しようとした。携帯電話が捉えた動画には、キンゼイさんが両手を上にあげて地面に伏している姿が映し出されている。彼は自閉症の男性が持っているのは銃でなく、おもちゃのトラックだと警察に説明しようとした。それは、警察に通報された内容とは全く違っていた。
警察官の一人がキンゼイさんの脚に銃弾を3発放った。その後、救急車が到着するまで、手錠をかけられて出血したままの状態で20分間路上に放置されたと、彼は語った。
この事件は、警察官が撃った人物が罪のない被害者であることは明らかだ。
警察官が発砲したら、撃たれて倒れ込んだ体をその場所に、そのままにしておく。これは警察が暴力を振るう現場で多く見られる。7月5日にルイジアナ州のバトンルージュで、警察官が37歳の黒人男性アルトン・スターリングさんを射殺した事件でも、警察官たちは出頭したが、目撃者によると、警察官は撃たれて横たわるスターリングさんを「そのままにしておけ」と言ったという。
ミズーリ州ファーガソンでは、警察官がマイケル・ブラウンさんの遺体を4時間放置し、抗議行動に参加した多くの人がその屈辱を語った。
セドリック・チャットマンさんは、シカゴ南部で警察官の前から逃げ出したことで、10秒間のうちに4発の銃弾を受けた。その後、警察官はその瀕死の若者に手錠をかけ、そのうちの一人が彼の上に片方のブーツを載せた。
2014年11月、オハイオ州クリーブランドで警察官が12歳のタミール・ライス君に発砲したが、そのとき彼はまだ息をしていた。発砲した相手がおもちゃの銃を持った幼い少年だったことに警察官が気づいても、応急処置をすることはなかった(後に、警察官たちはおもちゃの銃が本物であると思い、自分たちの命が危険にさらされていたと語った)。
一方で、14歳の姉T. R.さんが「タミール。弟が警察官に殺された」と叫びながら彼の方へ駆け寄っていくと、警察官の1人が彼女に体当たりした。彼女は立ち上がろうとし、瀕死の弟に向かって這って行こうとしたが、その瞬間に警察官が彼女の足を引っ張った。彼女は手錠をかけられ、警察車両の後部座席へと押し込まれた。姉はその状態で出血が止まらない弟を見つめていたが、その間、警察官は何もしなかった。
「タミール君の母サマリア・ライスさんが発砲の話を聞いて公園まで急いで駆けつけましたが、警察官はT. R.さんを母の元へ解放することを拒み、瀕死の重傷を負った12歳の息子に付き添って病院へ行くか、それとも息子を撃った警察官と一緒に警察車両の後部座席に座り、手錠をかけられた14歳の娘と一緒にその場に残るかと、マリアさんに対して選択を迫ったのです」と、ライス家の弁護士は述べている。
12月28日にオハイオ州大陪審は、タミール君を射殺した警察官を不起訴とした。
2015年4月2日、オクラホマ州タルサで保安官代理が、44歳のエリック・ハリスさんに誤って発砲したときには、すでに別の警察官が彼を制圧していた。「くそっ、撃たれた。息ができない!」と、ハリスさんは動画の中で言っていた。
「お前の息なんてクソ食らえだ」と、一人の警察官がそれに対して耳を疑うような言葉を放った。
黒人の命が本当に大切であったなら、警察官は瀕死の人たちを救おうとしただろう。黒人の命が本当に大切であったなら、亡くなった人たちにはもっと尊厳が与えられたであろう。暴力それ自体よりも、最期の瞬間を迎えている同じ人間に対する思いやりが欠けているから、「黒人の命なんて大切ではない」という考えを助長していると言える。
【参考記事】
17歳のラカン・マクドナルドさんに16発も撃ち込んで死亡させたシカゴ警察のジェイソン・ヴァン・ダイク警官は動画の中で、犯罪現場についてブツブツ話しているのが見える。サウスカロライナ州ノース・チャールストンで、警官のマイケル・スラガー警官がウォルター・スコットさんを射殺したとき、平然とした様子で遺体に歩み寄った。多くの警官がスコットさんを取り囲んだが、しばらくの間、誰ひとりとして脈をチェックしようとしなかった。
この1年間、ネット上などで公開された警察官の銃撃動画を調べてみると、警官が射撃された人を助けようとしている痕跡を見つけるのは不可能に近い。
2015年4月、メリーランド州ボルティモアで25歳のフレディ・グレイさんが銃撃され、拘束された時の動画には、彼が警察の車の後部座席にいる間、恐らく痛みのせいで叫んでいる場面がある。車の中で何が起こったのは、くわしくはわからない。しかし検察官はこの件について、意図的だったかどうかは関係なく、止血などの応急処置をしなかったのは過失であり、それがグレイさんの致命傷につながったことから、現場にいた6人の警官のうち、数人がグレイさんの死について罪を問われると主張している。陪審で無評決審理となったウィリアム・ポーター警官は、グレイさんが助けを求めた際、すぐに医療的処置の手配をしなかった件でも起訴されている。
そうした冷徹な反応が、倒れているグレイさんに乱暴に乗っかったのと同じく、彼の命を奪ったのかもしれない。
警官の多くが一般市民の保護につとめる公務員というより、まるで法を執行する戦闘員のようだという批判が絶えないのは、警察官が撃たれた人にまるで無関心な態度をとっているからだ。こうした無関心と、自分が銃撃した人が死亡したことについて公にはいかなる道徳上の責任も負いたくないという警察官たちの態度があいまって、警察は自分たちの暴力で死に至った人たちは自業自得だった、と考えているとしか思えない。
国歌斉唱を拒否し続けるNFLのコリン・キャパニックのような人が黒人に対する警察の暴力に抗議をすると、「黒人による黒人への犯罪率だって高いではないか」という批判がある。しかしレイキア・スコットさんの動画を見れば、これまで事情を知らなかった人たちも分かるはずだ。そんな批判は射殺された人たちへの侮辱であること、そして、警察の暴力が反響を呼び起こすことを。警察は、人が助けを求める存在であるべきだ。彼らが逆に暴力の加害者だと知ってしまったら、すべてがひっくり返ってしまう。
黒人の命を他の命と同様に重く考えていると世間に納得させたいなら、警察官は奪ったばかりの命が自分たちにとって重要なのだと行動で示す必要がある。警察官が警察を呼ばないといけない。
ハフポストUS版より翻訳・加筆しました。