子育ては助け合い。だから保育園も公園も同じく必要だ〜9.23久我山東原公園で保育園建設工事がはじまる〜

保育園が急きょ必要だという時に、公園が候補に挙がること事態が大きな誤りだと私は思う。

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杉並区で公園が転用される問題がついに終盤へ

私はこのブログで、杉並区の公園を保育園に転用する問題を書いてきた。5月末に説明会の模様がテレビでも報じられ、「保育園に反対するエゴな住民たち」という取りあげられ方をしてきた。私は、公園を簡単に潰してはいけないという考えで取材し記事を書いてきた。

この問題についてひょっとして多くの人びとは「反対運動が起こり保育園の建設が止まっている」と誤解しているようだが、実際にはどんなに公園を守ってと住民たちが声を上げても計画は着々と進んでいる。すでに更地化は完了し、9月23日から保育園の建設がはじまるそうだ。どう意見を言っても何も通らないのだという無力感にさいなまれてしまう。

この問題について、あらためて訴えたいことが2つある。できればじっくり最後まで読んで欲しい。

都市公園法第16条「みだりに都市公園を廃止してはならない」

公園は法律上どうなっているのだろうか。公園を規定する法律として「都市公園法」がある。その第16条には、こう書いてあるのだ。

「公園管理者は、次に掲げる場合のほか、みだりに都市公園の区域の全部又は一部について都市公園を廃止してはならない。」これは「都市公園の保存」とタイトルがついており、公園は基本的に守られるべきものだとはっきり書いてあるということだ。公園は基本的に、転用してはならないのだ。

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ところが、「次に掲げる場合のほか」とあり、例外事項が示されている。そのひとつにこうある。「一  都市公園の区域内において都市計画法 の規定により公園及び緑地以外の施設に係る都市計画事業が施行される場合その他公益上特別の必要がある場合」これは、一見はっきりしている項目のようでまったく曖昧なことしか書いていない。

前半はともかく、最後に「その他公益上特別の必要がある場合」となっている。このひとことで、前半の文章の意味もなくなっている。「公益上特別の必要」があるなら、都市計画事業でなくても廃止していい、ということになってしまうのだ。

結果的に、いい加減な法律に思えてしまう。「都市公園の保存」とあるが、どうとでも解釈できる抜け道を用意してしまっているのだ。これだと、どれだけ多くの人が大事に使っている公園でも、行政が「公益上必要なので」といつでも廃止できてしまうではないか。

それを気にしたのか、過去に問題が発生したからか、国土交通省はこんな補足文書を出している。

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ひとつは国交省の「都市公園法運用指針」だ。そこには、公益上必要がある場合とは何か、客観性を確保しつつ慎重に行う必要がある、と書かれている。これまたわかりにくいのだが、さらにそれを解説する文書もあった。

「都市公園法解説」によると「あらかじめ公聴会を開く」ことが好ましい、とある。公園の転用は関係者でちゃんと話し合うべきだとはっきり言っている。言っているが、「好ましい」で終わっている。

国交省が、法律だけでは心配だと用意した文書なのだろうが、いかんせん、何の拘束力もない。ここまで文書を作ったのならいっそ法律を改定すればすっきりするのに、なぜかこうした補足文書があるだけだ。でも二重三重に存在している。

法的拘束力がなくても、杉並区も行政であるからにはこの文書は配慮すべきだし、本来は議会で議論すべきだろう。だがこのあたりの事実が実際どうだったのかは、過去に住民説明会で質問に出たり私も取材の際に聞いたりしたのだが、いつも曖昧な答で終わる。ただ少なくとも、国交省とやりとりしたのはまちがいない。

いずれにせよ、結果として国交省がわざわざ文書を用意して「公聴会を開くのが好ましいですよ」とアドバイスしているのに、杉並区はそうしなかった。そこだけはまちがいないし、私企業ならまだしも地方自治体としては大いに疑問だ。

一方で、法律のほうが曖昧になっているので、法的には杉並区が正しい、ということになってしまう。国交省の補足文書は法の前では何の役にも立たない。杉並区は国交省に問い合せたと言っていたが「進めてもいいですよね?」と言われたら国交省に止める権限もないので何も言わないだろう。だったら問い合せたのは何のためだったのか?疑問だけが残るし、強引に進めたと言えると思う。

法的に問題がないとは言え、この曖昧な都市公園法をもとに、ある意味すり抜けた形で進めたことが、まず訴えておきたい点だ。

子育ては地域で助け合うもの。そのためには保育園も公園も欠かせない

杉並区の問題を話していると、「公園を守りたいのはエゴだ」という人が多い。それを聞くと私は驚く。私の認識では、都市部での子育てに公園は必須の設備であり、保育園とどちらが優先されるべきかは答えのない命題でしかない。保育園が急きょ必要だという時に、公園が候補に挙がること事態が大きな誤りだと私は思う。

その説明の前に、もうひとつイビツに感じていることを書いておきたい。いま、あまりにも認可保育園がフィーチャーされすぎている。それが問題を複雑にし、長引かせていると思う。

例えば、久我山とは別にもうひとつ廃止になってしまう向井公園には無認可保育園の子どもたちが遊びに来ていた。あの子たちはもう遊び場がなくなるのだ。代わりに用意された代替地は、保育園児が遊ぶにはあまりにひどい場所でとてもじゃないが使えないだろう。

また、久我山東原公園が来年できるので、閉園を予定している無認可保育園があるそうだ。本末転倒ではないだろうか。保育園が足りないから増やすのに、新たにできると閉園してしまうのだ。

それは、認可保育園があまりにも有利な保育園だからだ。施設もいいし、料金も安い。認可保育園ができればできるほど、無認可はなくなっていくのだ。

それでいいのだろうか。それはおかしくないだろうか。

私は前に、様々な保育活動を取材し、ブログに書いた。このブログで探してもらえればいくらでも出てくる。自主保育、共同保育、預けあいサービスなどなど。保育のやり方を自分たちなりに模索し続けているグループはたくさんある。それらは、やろうと思えば自分たちでもできるのだ。共同保育は中でもはじめやすいと思う。一緒に子育てしたい親たちが集まって、保育士を雇うのだ。ただ、ふさわしい場所を探すのが大変なのと、料金の問題が出てくる。

多様に存在する保育のやり方を先輩のママとパパたちが模索し確立しているのに、それが知られていないことのほうがもったいないと思う。共同保育にともに取り組んだ人びとは、そのことを宝物のように語る。なにしろ、疑似的な大きな家族になるので、卒業したあともずっと関係が続くのだ。親戚がいなかった東京で、親類ができるのだから楽しいだろう。しかも信頼しあっている。

杉並区でいちばん感じたのは、この点だ。田中区長ははりきって保育園を増やそうとしている。そのこと自体は素晴らしい。だが、それだけが解決なのだろうか。認可保育園のシステムは、全員が入れるようになるまで、ずーっと不公平が続くのだ。入れなかった人は高い料金で認証や無認可に通わせることになる。無認可の経営者は補助金がないうえに、認可が増えると閉園に追い込まれる。

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いまの現状を図にしてみた。いま世論が目覚めて、何かあると「保育園が足りない! つくれ!」と叫ぶ。そしてそれは、公園などより優先事項になってしまっている。話題にならなかったころに比べるとずっといいとは思う。だがいま、極端に走ってもいる。認可保育園だけが必要性を言われて、その影で無認可がなくなることに誰も興味を持っていない。公園なんか要らないのだと決めつけて、公園を守りたい久我山の人びとは世間から総攻撃を受けている。

そうなのだろうか。いまの空気は100%正しいだろうか。

私は、こう考えている。

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基本的な考え方は、保育園建設を行政に求めるのではなく、地域社会みんなで子どもを育てる環境とはどんなものか、にある。

認可だけでなく、認証も無認可も、あっていいはずだ。また、小規模保育、自主保育や共同保育も選択肢にあればいい。(そうなるとバウチャー制度が必要になるが、ここでは詳しくふれない)もちろん幼稚園も今後も必要だろう(子ども園になるべきかもしれないが)学童だってちゃんと整備しないと、これから都内各地で今度は「学童が足りない!」となりかねない。(実はすでに起こっているが表面化してないだけだ)

こうした子育ての多様なあり方、考え方があり、それらをベースから支えるのが実は公園だ。児童館も入るだろう。公園は、子育て環境のターミナルなのだ。公園があってはじめて、子育てがその地域のものになる。

久我山東原公園でも、運動を起こすお年寄りたちは保育園ができるとうるさいから声をあげているのではない。公園で遊ぶ子どもたちのほうがずっと騒がしいのだ。あのお年寄りたちは、公園で元気に遊ぶ子どもたちがいとおしいから声を上げたのだ。それは、ニュース映像から伝わってこないだろう。

私がこういう図を描くのは、まさに私自身が子どもたちを二十年ほど育ててきて、地域の人びとの交流があって救われたからだ。子育てに積極的に参加してたとは言えないが、公園に連れて行き、他の親たちやお年寄りとちょっとした交流が大きな精神的支えになった。

何より、私の妻は私の知らない地元ネットワークをしっかり持っており、そのおかげで健やかに子育てができたのだと思う。若い親たちが子どもをないがしろにする事件が起こると、それは彼ら自身が悪いにせよ、彼らが地域とつながっていたらまたちがったんじゃないかと想像する。

子育てにはコミュニティが必要。それはどれくらい感じているかはそれぞれだろうが、人類の営みとして必然のことなのだ。そのコミュニティの核になるのが、公園だ。都市部でよそ者同士がたがいに助け合いながら子育てをする、ターミナルなのだ。

杉並区の姿勢には、こうした視点がないように思える。それどころか、児童館や学童を廃止して新しい施設に再編することも発表したそうだ。それは、上の図のような多様性を確保するのと逆に、統合に統合を重ねる発想に私には見える。杉並区の行く末は、どうなるのだろうか。

ここで何を書こうとも、9月23日、久我山東原公園では保育園建設がはじまってしまう。そのことをどう受けとめればいいのか、いま私にはわからない。

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コピーライター/メディアコンサルタント

境 治

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