プーチン大統領がピアノリサイタルを開いても、ちっとも「ソフト」にはならない

芸術的才能は人格の埋め合わせになるのだろうか?
Open Image Modal
BEIJING, CHINA - MAY 14, 2017: Russias President Vladimir Putin plays the grand piano ahead of a meeting with China's President Xi Jinping at the Diaoyutai State Guesthouse. Alexei Nikolsky/Russian Presidential Press and Information Office/TASS (Photo by Alexei Nikolsky\TASS via Getty Images)
Alexei Nikolsky via Getty Images

ウラジミール・プーチン氏は独裁的な大統領で、ロシア国内の人権侵害に取り組むよりも、国内で自身の権力を強化することに夢中だ。そのプーチン氏はピアノを演奏できる。

そう、自由な報道の根幹を脅かし、ひそかに西欧型の民主主義を非合法化しようとする世界最大の面積を持つ国家のリーダーは、音楽の才能があるように振る舞っている。

15日の朝、このような才能があることを証明する動画がネット上にアップされた。プーチン氏が北京でヴァシリー・ソロヴィヨフ=セドイ作曲「フリーネバ川の街」と、ティホン・フレンニコフ作曲「モスクワの窓々」を演奏している動画だ。こんなリサイタルは大した問題ではないと思うかもしれないが、そう思わない人たちもいる。

「このリサイタルはおそらく、1999年の大統領就任以降、独裁的なリーダーとして君臨し、男らしさを誇示するプーチン氏のソフトな一面を垣間見せただろう」と、イワン・ネチェプレンコ氏はニューヨーク・タイムズの寄稿文で綴っている。この記事は(ハフポストを含む)多くのメディアで取り上げられ、他の記事と同じく、プーチン氏のピアノ演奏は大統領の「よりソフトな」スキルを証明したとわざわざ強調して報道された。

他国に侵攻したり、世界中から非難を浴びる独裁者を支援する才能と比べれば、ピアノ演奏は「ソフトな」スキルと言えるかもしれない。しかし、そうした勝手な比較は愚かなフレーミング効果(問題や質問の提示のされ方によって、意思決定が変わることをいう)を露呈している。プーチン氏のピアノ演奏の能力があるかといって、彼は少しもソフトにならないし、「よりソフト」と考えられている一面が引き出されることもない。

多くの人がSNSで指摘しているように、凶悪な行為ができる男たちが芸術の才能を示すことがある。それが何だというんだろう?

ヒトラーは芸術家だった。(アメリカの連続殺人犯)ジョン・ウェイン・ゲイシーも。プーチンがピアノを弾いたことに何の意味があるのか。

5月14日、北京のフォーラムで晩餐会に出席するために現れた中国の習近平国家首席(右)とロシアのウラジーミル・プーチン大統領。

北京でプーチン大統領は自身の子供時代の曲をピアノで2曲演奏。ロシア大統領が、習近平国家主席を待つ間に1950年代の曲を2曲演奏した。1950年代の曲を2曲演奏した。

次は金正恩がお気に入りのクッキーのレシピをシェアするだろう! 今後も有益な報道を頼むよ、ニューヨーク・タイムズ。

ニューヨークタイムズ:「北京でのピアノリサイタルはウラジーミル・プーチン大統領のソフトな一面を垣間見せたようだ」

プーチン大統領の行動は突発的にも見えるが、実は常にそばにいるカメラマンが撮影し、ニュースにしている。狩りをするプーチン大統領、釣りをするプーチン大統領、上半身裸で乗馬をするプーチン大統領。ピアノ演奏も、汚職にまみれた政権の大統領として人間らしさを強調し、権力を拡大するためのパフォーマンスに過ぎない 。しかし、ここで挙げたような非道な行為をするプーチン大統領に“ソフトな一面“があることは、重要だろうか?

芸術的才能は人格の埋め合わせになるのだろうか?

もちろん芸術家は内面的に優れていたりソフトであったりしない (”ハード”な人や”邪悪”な人も芸術を創作できる。歴史的に特に有名な例を挙げれば、ヒトラーは高い評価を受ける画家だった)。芸術自体もそうだ。芸術は不快なもの、邪悪なもの、挑発的なもの、吐き気を催すものにもなり得る。ヘルマン・ニッチュを見てみればいい。『芸術は人間にとって良いもので、いわば魂のビタミンCのようなもの』という考え方は、軟弱で非常にアメリカ的だ」と批評家のクリストファー・ナイトは1992年に記している。

元アメリカ大統領のジョージ・W・ブッシュが絵を描くのが趣味だと言った時、ネット上の人々はすぐ、意外に感じのいい引退後のブッシュの趣味をほめ称えた。元大統領が画集「勇気のポートレート:最高司令官からアメリカの戦士たちへのトリビュート 」を出した時も称賛された。「芸術の変革の力」が重要視されすぎているかもしれないという、芸術情報サイト「Hyperallergic」の記事が出るまで、その称賛は続いた。ブッシュはしょせん、「アメリカをイラク戦争へと向かわせた」と考えられている元大統領と同一人物なのだ。

「独裁主義者のプーチン大統領が、ピアノ演奏を披露した繊細な人物だ」と示唆する記事で特に気に障るのは、彼の才能が、狩りや釣り、上半身裸での乗馬といった男らしさとは正反対だという論調だ。こうしたあからさまな「男らしさ」は、驚くほど時代遅れで性差別的だ。なぜなら、男らしい男性だってピアノを弾けるし、女らしい女性だって狩りはできる。

プーチンのピアノ演奏は、彼や彼の政権が望むほどには私たちにとって意味を持たない。前にも演奏をしたことがあるかも、もしくは演奏が下手だったという意見も、関係ない。

ヒトラーの絵画展のキュレーターを務めたデボラ・ロスチャイルドはかつてこう語った。「悪意と美が結びつくことは起こり得る。私たちはその破壊的な力に対して常に用心しなくてはならない」。しかし「ニューヨーカー」の批評家ピーター・シェルダールの言葉がより的確だろう。

「私たちは悪意に対して警戒を続けなければならない。美は根源的に善悪を超越したものだと考える必要がある」

そう、関係ないのだ。

ハフポストUS版より翻訳・加筆しました。

▼画像集が開きます

(スライドショーが見られない方はこちらへ)

Open Image Modal

Open Image Modal