私の本当の名前は鈴木綾ではない。
かっこいいペンネームを考えようと思ったけど、ごく普通のありふれた名前にした。
22歳の上京、シェアハウス暮らし、彼氏との関係、働く女性の話、この連載小説で紹介する話はすべて実話に基づいている。
もしかしたら、あなたも同じような経験を目の当たりにしたかもしれない。
ありふれた女の子の、ちょっと変わった人生経験を書いてみた。
◇◇◇
太郎を含めて、東京に引っ越してから何人もの男性と付き合った。 付き合った多くの男性(すべてではないけど)には一つ共通点があった。それを私は「プリンの砂漠」と呼んでいる。
「プリンの砂漠」は付き合ってから時間が少し経ったときに起こる現象である。二人が仲良くなって、二人で過ごす時間が増える。お互いに心地よく感じはじめて、相手の心への扉を開くと、
プリンの砂漠が地平線まで広がっている。
前に歩こうとすると、足がじょぼっ、とプリンの中に沈み込んでなかなか前に進められない。キャラメルソースか生クリームのオアシスがないかとまわりを眺め渡すけど、限りなくぷにょぷにょなプリンしかない。
要するに、男性が甘え始めちゃう。それまで強がっていた彼がフニャフニャしたプリン状態になる。他の人の前で絶対に見せない「プリン」な彼が二人きりになると出てくる。仕事でストレスと戦っているとき、少しでもフラストレーションが溜まったとき、彼は甘えてくる。そんな彼を励ましてあげないといけない。プリンの砂漠をてくてくと渡らないといけなくなるのだ。
太郎の中にあるプリンの砂漠と出会ったのは、初めて喧嘩したときだった。
私は大学時代からクラブが大好きだった。あげぽよぱりぴ!みたいなギャルが行くようなクラブではなくて、真面目なクラブ音楽、ハウスミュージックが流れる東京のクラブのことだ。サウンドシステムは、アジアで最も優れていると思う。
ある金曜日の夜、モンド・グロッソの大沢伸一のライブにフランス人の元彼のフランソワと一緒に行った。フランソワが珍しく友達をたくさん連れてきてみんなで大いに盛り上がった。楽しい人達と10代から憧れていた世界のトップクラスのDJのライブに行けて東京に引っ越してよかったと思った。こういう大きな街でこそ、夢は実現する。
朝4時に家に着いたけど、私はまだビートの余韻に浸っていた。クラブに入ってから初めて携帯をカバンから出して確認した。太郎から20回も不在着信があった。何かあったのかな。電話に出なければたいしたことないから心配しなくていいよと伝えたくて書け直した。太郎がすぐ出た。
「綾、どうした?今どこ?大丈夫?」
「大丈夫よ。今家に帰ってきた。」
「こんな遅くまでいったい何をしてた?」
「友達とクラブに行っていた。クラブの中で電波が通じなくてごめん」
「なんだよー電話が繋がらなくて心配したよー。しかもクラブ?危なくない?綾なんでそういう危ないとこに行くんだよ」
「別に危なくないよ。友達と一緒だったし。」
「いやいやいや日本のクラブは危ないよ。誰がクラブを経営しているか、知ってる?やくざだよやくざ。覚せい剤とか配ってさ、めっちゃ危ないよ」
クラブの楽しい後味が私の口の中から消えていて、眠くなっていた。
「説教はもういいよ。寝るから。太郎は何もわかってないね。おやすみ。」
と電話を切った。
朝起きたら、太郎が5時半に送ったすごい怒っているメールが届いていた。返事をするのが面倒くさかったので「コーヒーを飲みに行かない?」と返した。・・・・・
太郎が大学時代によく行っていた渋谷の茶亭羽當で待ち合わせした。カウンター席と二人用のテーブルが全部埋まっていたので奥の木製テーブルに座った。
「昨日はなんで電話切ったの?すごい心配したんだよ。綾のことが本当に心配だった」と太郎がタバコに火をつけて言った。
「なにも悪いことしてなかったよ」と疲れてたので、てきとうに反論した。
「誰と一緒に行った?」
「フランソワ。留学時代の元彼。今こっちで大使館でインターンやってる」と正直に答えた。
「元彼?信じられない」と太郎の声が大きくなった。「元彼とクラブに行った?それって普通デートっていうけど」
しまった。余計なこと言っちゃった。元彼だなんて、、、
「他の人もいたよ。しかも大学時代、彼にフラれたよ。もう私のこと好きじゃないよ、彼は」
「そういう問題じゃないさ。普通みんな元彼、元彼女とクラブなんか行かないんだよ」
私は飲んでいたオールドビーンズをボンッとソーサーに荒っぽく置いた。
「私を信用してないの?」
「綾を信用してないんじゃなくて、綾によってくる男性たちを信用してないんだ」
「嫉妬する人の気持ち、本当に理解できない。太郎は世の中の男性たちより100億倍もかっこいいし、100億倍も魅力的だと思ってるよ。他の男性に全く興味がないというか、見てないよ。だってさ私は、太郎が女友達と遊びに行っても、全く気にしない。どうしてかというとね、自分が世の中の女性達より100億倍も魅力的だと思っているから。太郎にとって私は最高の彼女になれると自信を持っているから。もし太郎がこんな綾よりほかの女性を選択したら、綾が他の女性より100億倍魅力的だということわかってないということになるからすぐ別れちゃうと思う」
「そんなロジックなんかおかしいよ。綾が素敵な女性かどうかという問題じゃないからさ。男性、特に元彼と夜遊びをするのは非常識だ」
2人は周りに聞こえないように、でも力強く話した。
「だけど、フランソワは私の大事な友達」
「大事な友達?それを僕に向かって言う?綾はやっぱりわかってないね。僕を全然大事にしてないね」
太郎のきつい言葉にショックを受けて泣き始めた。いつも無言でカウンター越しでコーヒーを入れているマスターと周りのお客さんに見られるのが恥ずかしくてお店を出た。
渋谷一丁目の奥の方に向かって歩いた。太郎はなんで理解してくれなかっただろう。フランソワと私の間にそういう気持ちはもうないこと、そういう関係にならずにずっと友達でいた男友達がたくさんいたこと。ショックだった。子供のときから他人に対して理解があると言われてきたけど、初めて自分の理解力にも限界があった、超えられない線があったことを知った。
今まで付き合った人と全く喧嘩したことがないのにどうして太郎と喧嘩になったのかな...。さっきウソをつけばよかった。昨日ウソをつけばよかった。
数分後に太郎の声が聞こえた。
「綾ちゃん、本当にごめんなさい。泣かせてしまって、本当にごめんなさい。全部僕が悪い。ちゃんと謝りたい。」
太郎が私に抱きついた。
「本当にごめんなさい。悪かった。あんなきついこと言ってしまって本当にごめんなさい。昨日の夜綾のことを心配してただけ。心配してただけ。綾のことが大好きだから。泣かせてしまって本当にごめんね。許してくれる?」
太郎が私により強く抱きついた。
「ちょっとベンチに座ってもいい?言いたいことがある」と太郎がようやく私を離して目をあわせて言った。
私は頷いて、近くのベンチまでついて隣に座った。顔を上げずに太郎が私の手を握っていた私の膝の上を見た。
「綾、昨日の夜、連絡が取れなかったときに本当に心配してたんだ。すごい怖かった」と太郎声が上ずって泣き始めた。
びっくりして見上げた。さっきまで怒っていたのに涙?
「綾と離れたくない。一生離れたくない。だから今の妻と別れたいと思ってる。一生綾と過ごしたい。だから、他の男性と夜遊びしないでくれる?クラブに行かないでくれる?綾が心配だから。もし誰かが僕の綾を傷つけたら...」
一瞬戸惑った 。私はクラブが好きだ。フランソワと一緒にクラブに行くのも好きだ。そして、太郎が大好きだ。全部を好きでいることはできないのか。
もしかして太郎の目を盗んで今までどおりクラブに行ったり、フランソワと遊んだりできるかもしれない、と思った。
そう。太郎は残業してたから、残業してた日にクラブに行けばいい。携帯を常にチェックして、メールがあったらすぐ返事する。そんな難しくない。ウソをつけばいい。
「うん、わかった」
太郎がまだ泣きながら私に抱きついた。
普段は強がってるけど本当は弱くてふにゃふにゃ。
自信がないから相手の立場に立って考えられない。
自信がないから相手を独占しようとする...。
これがプリンの砂漠なんだ。