ミネアポリスの住人にとって、プリンスを失ったということは言葉で表現できないものがある。
彼の音楽は世界中の人たちに数え切れないほどの喜びを与えてくれた。しかしミネアポリスでは少し話は違ってくる。この街では、プリンスというのは特別な存在なのだ。プリンスは子供の時からこのミネアポリスに住んでおり、彼の楽曲の多くには、彼の故郷への愛があふれている。また私たちのミネアポリスへの愛には、プリンスの功績に対する私たちの誇りがあふれているのだ。
市内の公立学校に通っていた幼少期から、セントラル高校を卒業し、市が誇る施設・カプリシアターでパフォーマンスを行って注目され、世界的な成功を収めるまで、プリンスはいつも私たちの一部だった。彼は他の誰よりも、私たち市民に彼の音楽を聴く機会を与えてくれたのだ。何と幸福なことだろうか。しかし私たちがどれだけラッキーだったかを真に知ったのは、彼が亡くなった今のことだった。
ファーストアルバム「フォー・ユー」(1978年)の頃からプリンスは様々な楽器を演奏していたが、私たちは当時は、彼がここまで驚異的な多作のコンポーザーになるとは全く考えていなかった。
プリンスは毎年のように新しいアルバムを発表して自らの才能と楽曲を示しながら、他のアーティストへの楽曲提供までも行っていた。プリンスはザ・タイム、シーラ・E、ザ・ファミリー、マッドハウス、ジル・ジョーンズなど、多くのアーティストのプロデュースを行った。彼らは共に「ミネアポリス・サウンド」を生みだし、1980年代の音楽シーンの流れを大きく変えることとなった。
私たち市民の多くはプリンスの音楽と共に成長してきた。彼の音楽は私たちの青春時代や成長と切り離せないものとなっている。もうだいぶ昔のことだが、私はアルバム「パープル・レイン」を初めて聴いた時の衝撃を絶対に忘れることはないだろう。
プリンスは、自らが人と違った存在であることを堂々と示していたし、また自分のファンにも「人と違うこと、個性を尊重することは美しい」と伝えてきた。彼が持っていた社会に対する意識は、私たちにも「周りの人の肌の色よりもその人の内面を見るように」と訴えてきた。「ボルチモア」や1987年の「サイン・オブ・ザ・タイムズ」は、そのことを特に強く問いかけてくる作品だ。彼の声はエネルギーにあふれている。この声がもう聴けないと思うと非常に寂しい。
プリンスは私たちの元を離れず、私たちもプリンスから離れなかった。私たちは「ダイアモンズ・アンド・パールズ」、「ザ・ゴールド・エクスペリエンス」、「3121」、「アート・オフィシャル・エイジ」、それ以外にも多くの作品を聴き続けてきた。どうしたら一人の人間がこれほどの美しさを生み出せるのか?おそらく彼の最後の作品となる最新アルバム「ヒット・アンド・ラン フェーズ・ツー」を聴けば、彼が私たちと過ごすはずだった多くの時間を思い出させてくれることだろう。
プリンスは私たちの元を離れず、私たちもプリンスから離れなかった。これから私たちはプリンスを偲び、彼の音楽業界への貢献を称えることになるだろう。そうしている間にも、私たちは彼の音楽を聴き続ける。プリンスはずっと私たちと一緒なのだ。
この記事の初出はホッジス市長のブログです。ハフポストUS版に掲載された記事を転載しました。