"場のエネルギー"というものはやはりあると思う。

 以前からパワースポットブームが続いているが、私自身にそういうことを特別に感じとる能力があるわけではない。

しかし"場のエネルギー"というものはやはりあると思う。

 例えばスポーツの試合での、ホームとアウェイ。言うまでもなく、ホームでの場のエネルギーは絶大だ。

また、ある人と一緒にいるだけでとても幸せに感じること。それはおそらく、その場のエネルギーが安定しているのであろう。

 私の場合、手術室でよくそれを感じることがある。その一つの閉ざされた空間を、自分の"リズム"でコントロールしたいと強く思う。その中で、誰かが自分のリズム以外の音や動きを発すると、求めていたリズムが著しく乱されるのがよくわかる。誰かが何かを落とした音や、私語や、咳払い、歩く動きや足音でさえ、私の意識がそちらに引っ張られていくことがよくわかる。

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photo by shimo

 それはオーケストラの指揮者のような感覚であると思う。その場のリズムが乱されると良い演奏があり得ないように、スムーズな手術は難しくなる。リズムの乱れはミスを誘発する。

 私が本当に最高の状態にあるときというのは、術野に意識が縮小固定された状態ではない。術野には他より高い密度の意識が投下されつつ、その他も十分に意識下に置かれた状態、すなわち手術室の全体を見渡すような意識を意味する。

 脳が予想外の情報を与えられると、私の場合、妙にそちらに意識を持っていかれる。この間、術野ではベストパーフォーマンスが成し遂げられない時間が続く。そしてそれを回復するには、思った以上の時間が必要となる。

脳が予め予想していない出来事が術野の中で起こることも同じで、予想通り動かない助手や、突然吹き出した血液によってもリズムは狂ってしまう。

また、たとえ優秀であっても新しい人と一緒に手術を行うと、リズムの調整には時間がかかる。

脳は未経験の事柄への調整には、時間を要してしまうのだろう。

 ついでにいうと、このリズムはその人特有のものであり、他のリズムで代用は効かない。手術の時、音楽をかけたり、メトロノームを動かしたりする人もいるが、私はそれはしない。私の場合、私の生来のリズムは、代用したリズムではいくら安定していても決してベストの状態にはなれないと信じているからだ。

 手術のみならず、物事を進めるときに私が最も意識しているものの一つがこの"リズム"であり、リズムから作り出される"場のちから"である。

 場のちからとは、「その中心になるもののリズムによって作り出されたエネルギー場」といういい方ができるかもしれない。この場との相性は、その場に存在する人間にとってとても大切なこととなる。 

まさに、神社やお寺や古い樹木を中心に形成されているパワースポットのようなイメージ。

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photography by CHIE DOI

ある人はそれをある種の雰囲気と表現するかもしれない。

 常にこの場を作り出すことを意識している。

この場は、一定の周波数のリズムによって統一された世界ということになり、その周波数以外の存在は、周波数を変えてアダプテーションするか、その場から出るかという選択になる。

この場を上手く作り出すことができれば、能力が多少低い人がいてもそのリズムの流れに巻き込みながら結果的に合格点のレベルまで持っていける。

 なぜあの時あのような行動をしてしまったのだろう?とか、なぜあの時あのように考えたのだろう?

と後になって思うのは、その時の場の影響をかなり受けていたものだと思われる。

 この、場とその人間との関係性を上手く利用することかできれば、能力以上の結果を得られる可能性がある。しかしたとえ無意識であれ、場の選び方を間違えてしまうと、能力が発揮できないということが起こりうる。

 ある空間に入った瞬間に、まず、場と自分との相性を感じとる。

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photography by CHIE DOI

それは時として、暗いとか明るいとかいうイメージとして伝わって来るかもしれないが、悪ければ離れる、勝負しない、長居しないという手段を、常に心に留めておくとよいかもしれない。

 自己の能力や性質は、相手や周辺環境や時間的なタイミングとの関係性の中にあることを、自覚する必要がある。

過去に上手くいったのも、それが良かったからであり、くれぐれも自分の能力だけでそれを成し遂げたと思わない方が賢明だ。

この時代の・この時期に・この事柄を・この人がしたから、上手くいったということ。

 リズムと場ということを少し意識して生きてみると、世界を違う角度から理解できるかもしれない。