人とは、個性のある生き物である。人と違うのは当り前である。
たまたま「デザイナーとアーティスト」というカップルの間に産まれたわたしは、そう育ちました。
ところがこれは、日本では大変レアなケースだと思います。
最初の難関は、小学校でした。
授業は横並びを実践していたように思います。今でも印象的なのは、国語の時間です。幼稚園教育で「ひらがな」を習得していたわたしは、教科書が面白くてどんどん読み進めていました。歩いて回っていたい先生がそれに気づき、教科書のページを今「別の生徒が読み上げているページ」へと開き直させ、「みんなと一緒のところを読んでね」と言ったのです。
その後、授業は恐ろしく退屈なものになりました。
そうやってわたし達は小さな頃から、「みんなと同じである事」を教育されていたのです。
「みんなと同じこと」が、「良いことである」「善である」――それはあなたの興味関心よりも、あなたの楽しさよりも、重要なことなのよ。
それが、ここで受けた教育だったように思います。
わたしの世代は今40代になったばかり。子どもを教育する立場にあり、社会を推進する力であるはずのわたしたちの多くは、こういう教育を受けてきたのです。
5年程、いわゆる実社会において大企業で働いた後、わたしはフリーランサーとなり、その後、起業しました。当時は上司の言う通りにやろうと必死になり一生懸命、一生懸命やったのですが、結果心が壊れてしまって、心療内科へ通いました。
それから起業し、自社の仕事に平行して4年程の間、スピリチュアル業界を学びました。これもまた本当に言う通りに、うかつな自己解釈を挟まずに、素直に一生懸命、一生懸命やったのですが、結果身体が壊れてしまって、入院をしました。
わたしは本当に不思議に思っていました。
何がおかしいのだろう? どっちも幸せにならない。楽にもならない。それって...変じゃないか?!
病後は、つながりのある実社会と、スピリチュアル業界を両方眺めながら、自分の立ち位置を見極めようとしてきました。
なぜなら、そういう経緯があったので、双方にどこか違和感があったからです。
実社会には、スピリチュアルなことを毛嫌いする人がいますし、スピリチュアル業界には、実社会の諸々を毛嫌いする人がいます。
しかし、不思議なことに、共通点がありました。
みんな、「幸せになりたい」のです。
でも、どちらを観ていても、幸せそうな人はほとんどいませんでした。
本当に、ほとんど出会えなかったのです。
これまでに出会ってきた、幸せそうに見える人たちは、自然体で、穏やかで落ち着いていて、目の奥が澄んで輝いていた気がします。
何も言わなくても、かもし出す雰囲気が、すでに幸せそうです。
実際お話を伺うと「ご自身が満足をする」という意味で幸せな暮らしをなさっていました。
でもそれはどの業界に限ったことではなく、もっと言えばとの国に限ったことでもなく、
つまり外側の条件には左右されていなかったのです。
スピリチュアル業界の中で言われているモノの中には、これは本物だなあと感じる素晴らしいコンテンツはいくつもありました。
しかし、翻訳のせいなのか、例え話が面白過ぎるせいなのか、ちゃんと中身を読めている人が少ないように感じました。
なぜだろう...? 非常に不思議でした。
実社会でも、自己啓発は非常にニーズがあり、あらゆるところでセミナーが行われ、本も売れているのですが、それで本当に幸せになっている人を実は1人も観たことがありませんでした。
わたしの言う、幸せというのは「自然体で、穏やかで落ち着いていて、目の奥が澄んで輝いている。何も言わなくても幸せそう」という感じのことです。
なぜだろう...?
本当に不思議でした。
スピリチュアルにも自己啓発にも、
ここに、「本当のこと」は、あるのだろうか? と思えてならなかったのです。
観察をしました。
なぜ、みんな、幸せになりたいのに、幸せにならないのか?
何が原因なのか?
そうして徐々に見えてきた幸せな人の共通点は、人生の何処かのタイミングで、自分自身と深く向き合ったことがある人。
そしてその自分を受け入れている人。
だった、のです。
しかし。
自分に向き合うことで幸せになれるのだとしたら、なぜ、みんなそれが出来ないのか、が不思議です。
どうしてなのか長年解らなかった理由は、わたし自身が幼少からART教育を受けていて、自分と向き合うことが日常的だったからかもしれません。
それに気がついたのは、つい最近のことでした。
自分と向き合うことが難しい理由をリサーチしていると、「自分と向き合う」=「辛いこと」「苦しいこと」という先入観があることが解りました。
だから難しいのです。
そして、そうなっている背景には、心に刷り込まれてしまった「沢山の思考」のあることが見えてきました。
そうです!
わたしの頭の中もそうでした。
「〜すべき」「〜してはならない」「〜は悪だ」などなどなど。
「〜が幸せなこと」「〜は正しいこと」「〜は評価されること」などなどなど。
経験や実体験、あらゆる意味での教育がもたらしたおびただしい数の思考によってがんじがらめになっていて、自分と向き合おうとすると、必ず否定的な思考がやってくる時期があったのです!
「幸せ」は、そういう外側に与えられた条件によって派生する言動からは生まれ難く、自分の内側からやってくるものなのだよなあ...と今は思います。