生活習慣病は自己責任か?

生活習慣改善を全て個人の責任に帰することは、過去30年近くの公衆衛生の進化を無視した議論であり、医療費を減らすどころか、かえって増やしてしまったり、医療格差を広げてしまう事態になりかねないのだ。
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前々回のブログで肥満対策は難しいと書いた。生活習慣改善のための行動変容は、実はとても難しいのだ。

麻生副首相は以前「生活習慣を改善しない人のために医療費を負担するのはかなわない」という発言した。一見正しく聞こえるこの発言、あなたはどう思うだろうか?

麻生発言には、個人の生活習慣の改善と公的医療給付の範囲の2つの論点があることに注意したい。後者は、公的制度として守るべき価値の範囲とそれに見合った財政負担の分配の問題であり、財政を司る立場からはありえる議論である。

しかし、前者の生活習慣改善を全て個人の責任に帰することは逆効果であり、公衆衛生学的には誤った議論だ。

個人の行動変容による生活習慣の改善(禁煙等)が困難なために、降圧剤、抗コレステロール剤、アスピリン等よくある薬を混ぜて一粒にした、いわゆるポリピル(polypill)の可能性が試されている。インドでの臨床試験では、ポリピルは極めて安価で副作用も少ないことが示され、心筋梗塞や脳卒中等の生活習慣病の予防には大きな効果を上げることが期待されている。

個人の行動変容が困難なことは、生活習慣病予防のみならずエイズ対策でも良く知られている。コンドームをきちんと使用すればエイズは防げるが、それが実際はとても難しいのだ。現在では、世界のエイズ予防は、個人の行動変容から医学的予防介入(包茎手術や抗エイズウイルス薬の予防投与、あるいは、薬物中毒者にはヘロインの代替化合物の使用やシリンジの交換)へと移ってきている。

最近、「予防は常に治療よりも安く健康になれる効率的なサービスだ」という議論も聞くことがある。しかし、これも大いに疑問だ。例えば、従来の健診(そしてその後の個人の行動変容を促すための保健指導)が、死亡率や罹患率を低下させることを科学的に証明した例はほとんどない。

個人レベルでの行動変容による生活習慣の改善を声高く訴える政策の失敗の反省から、生活環境の改善は個人の合理的判断のみで実現できるものではなく、社会環境や経済格差などにも左右されることへの理解が深まった。それを明確に示したのが、1986年のWHOによる「健康づくりのためのオタワ憲章」だ。

その後、公衆衛生の世界では、人々が暮らし働く場での対人関係やコミュニティの環境の改善、さらには社会変革モデルまでが試されている。また、健康づくりにおいては、臨床医学と公衆衛生とのより統合された連携モデルも生まれている。そこでは医療イノベーションの普及モデル、ソーシャルマーケティング、コミュニケーション理論、そして、オバマ陣営が選挙でも用いたオルガナイジングの手法等も使われ始めている。

今では、いわゆるビッグデータの活用により、こうした理論を検証することやセグメントごとの介入効果の測定も可能になってきている。例えば、神奈川県の黒岩祐治知事は「未病(病気になる前の状態)」から対処しようと、様々なデータを用いた次世代型の生活習慣病対策を行おうとしている。

こうした潮流に逆らうかのように、我が国の医学部は、基礎医学、臨床医学、社会医学という形でいまだに分断されている。しかし、「健康づくり」においては、それらが全く新しい形で再編成されるべき時代を迎えている。

生活習慣改善を全て個人の責任に帰することは、過去30年近くの公衆衛生の進化を無視した議論であり、医療費を減らすどころか、かえって増やしてしまったり、医療格差を広げてしまう事態になりかねないのだ。