肉体的なことに関して、たとえば大学のスポーツ部でよくある「シゴキ」に近い特訓を9歳児に与えたとし、「9歳にはキツすぎたかもしれない。けれども、それを乗り越えられたのだから役に立ったのだ。だから、すべての小学生からその機会を奪う大人は間違っている。与えるべきではないか」と主張したら「何を言っているのだ?」と叩かれるだろう。
少なくとも、疑問に思う人のほうが多い筈だ。
その子によっては、乗り越えて逞しくなる機会かもしれないが、成長に合わない特訓は、身体を壊してしまう。つまり肉体的なトラウマになる。
だが、肉体的なことではなく、情緒や心理に大きな影響を与えるビジュアルや文章の情報については、日本人は非常に無頓着だと思う。
いま、ある図書館で「はだしのゲン」が閉架となり、過激な表現があるコンテンツであっても「戦争の悲惨さを訴える」などの意義があれば子どもに与えるべきだ、読む権利を奪うべきではない、といった意見がネットで飛び交っている。
私は、「はだしのゲン」を読んだことはないし、閉架になったいきさつについても噂程度しか知らないので、この問題については語らない。
その問題とは切り離し、ここから発生した、「子どもの年齢にふさわしくないコンテンツを『役立つから』という大人側の理由で強制的に見せたり、暴露すること」の是非に絞って語らせてほしい。
特に気になったのが、SNSで話題になっているこのブログ記事である。私がひっかかったのは、精神的にも情緒面でも未熟な年齢の子どもがショックを受けても、結果的に考えるきっかけを与える「良い逸話」として広まっているところだ。
私の心は子ども時代に戻って、「やめてくれ!心温まる話になんかしないでくれ」と叫んでいた。「このためにもっと年少の子までが学校で教育として押し付けられるようになったらたまらない!」私は、幼い頃に消したくても心から消すことができない大人向けのコンテンツに暴露させられて、それが心の傷になっているからだ。この体験は、その後いろいろな面で負の影響を及ぼした。
レイテ・テルゲマイヤーの場合には、わが子をよく知り「彼女なら大丈夫」と判断した親が与え、ショックを受けた後、フォローすることができた。だが、心理的に成熟しておらず、脆弱で、しかも誰のフォローもない小学生が強制的に同様のショッキングな内容の漫画や小説を読ませられたり、映画を見せられたとしたらどうだろう?
心理的に過敏すぎた私のような子は、毎日悪夢を見たに違いない。それが明日自分に起きるかもしれないと怯えながら生きたかもしれない。
ブログにこういった私の見解を書いたところ、ツイッターやFacebookで「はだしのゲン」の映画を生徒全員に見せた小学校があったことや、別の場面で選ぶことを許されず、後々まで引きずる心の傷を得たという体験談を受け取った。そういう場合、子どもには「観ない、読まない」を選ぶ自由はない。
大人になって久しいみなさんはお忘れかもしれないが、20年以上アメリカで子どもと読書に関わってきた私は、小学校低学年では、まだ単純なコンセプトしか理解できないことを知っている。「戦争は残酷なことだから、大きくなったら外交手段を重視しよう」なんて彼らは思わない。「歴史から学ぶことは素晴らしい!」などとも思わない。大人が勝手に「与えて良かった。与えた私は非常に社会的認識がある」と自己満足にひたるだけだ。
日経BP社の柳瀬博一さんが「私が言いたかったのは、これだ!」という素敵な文章を書いておられるので、許可を得てご紹介させていただく。まずお読みいただきたい。
大人がよかれと思ってしたことが、かえって恐怖と無関心を作り上げる可能性があるのだ。
小学校低学年で戦争のコンセプトはよく理解できないが、恐怖は理解できる。繊細な子の場合には、子どもが残酷に殺される場面あれば、自分のものとして痛みを感じる。心にその体験が焼き付き、自分に起こったことのようにトラウマとして残る。性的な場面もそうだ。特に虐待の場面は。
私は50を過ぎた今でも、ビジュアルコンテンツで受けた心理的なトラウマをひきずっている。成長の役に立ったなんて、ちっとも思わない。それを考えると、いまだにとてつもない憤りを覚える。これを書いている今でも指が震えているほどである。
私は洋書の読書指導をごく少数の子どもだけでやっているが、先日そのひとりで中学生になったばかりの子が「好奇心にかられてLord of the Flies(『蠅の王』)を読んだけれど、怖いだけで、何を言いたいのかよく分からなかった」と語った。天賦の才能がある子なのだが、それでも情緒的には中学生の「子ども」なのである。そこで内容に触れつつ、「高校生になってから読むと、『ああ、 これはこういうことが言いたかったんだな。でも私はこう思うな』という部分が出て来るよ」という会話を交わした。
『蠅の王』は、『ジャンル別 洋書ベスト500』に選んだ傑作である。大学を卒業するまでには読んでほしい本だ。だが、どんなに良い本であっても、どの年齢でも差別なく読ませれば、よい結果が出るというわけではない。良い本や映画には、出会いを最良にするタイミングというものがあると私は思っている。その機会を間違えると、学びがあるどころか、ただの嫌な体験になってしまいかねないのだ。
こういうことを言うと、まず、「表現の自由をうばうな」と身構える人がいる。
それはまったく違う。これは「表現の自由」の問題ではない。
私は表現の自由を信じる。アーティストは自由に自分の信じることを表現することが許されるべきだ。
次に「子どもに与える本を制限するべきではない」という反論が出る。「子どもはバカではない。制限せず子どもに選択する自由を与えるべきだ」と言う人は多い。
しかし、選ぶ権利には「見ない、読まない権利」も含まれるべきではないか。アメリカ合衆国憲法が保証する信教の自由に、「宗教を信じない自由」も含まれているように。
身体に良い食べ物でも、生まれたばかりの赤ん坊に食べさせたら毒のものは多い。アルコール飲料もそうだ。子どもが欲しいと言ったら、何歳であっても自由に与えていいと言う人はいないだろう。
もう泳げる12歳の子ならまだしも、6歳(小学校1年生)の子に、「子どもにも選ぶ自由がある」と、海にひとりで行って泳ぐ自由を与えるべきだろうか? 責任感がある大人なら許可しない筈だ。なぜなら溺れ死ぬ可能性が高いからだ。
海に一人で飛び込んで泳ぎを覚える6歳児もいるように、人が殺される場面をみて平気な6歳児もいるだろう。だが、溺れて死ぬ子が多いように、自分に起こったことのように衝撃を受け、それが長期にわたってトラウマになる子もいるのだ。黙って耐えているだけで。
その存在を無視しないでほしい。
ツイッターやブログで、その体験を分かち合ってくれた読者がたくさんいたことからみても、数は決して少なくないだろう。子どもの頃の私がそうだったように、そういった子どもは、「観たり、読んだりすることを押し付けられない自由」や「暴露されない自由」が欲しいのである。
これは、もしかしたら体験者にしか分からないかもしれないが、とても切実な願いなのだ。
身体のように、心も子どものうちは大人の保護が必要なのである。子どもが健全に成長して自立するように、傍らで徐々に援助してゆくのが、私たち大人の義務なのだ。
私たちが語り合わねばならないのは、子どもに保護が必要かどうかではなく、その保護の程度であろう。
では、どうすればいいのか?
ブログ記事を書いた後にいろいろな人の意見をとりかわしたが、私は上述の「選ぶ権利」を守るために、アメリカの小中学校、公立図書館が行っている次のような提案をしたい。
- 専門家の意見を取り入れ、子どもの情緒の発達を考慮に入れ、マジョリティが合意できる「適正年齢」レーティングを作る
- 「適正年齢」のレーティングシステムを作り、学校はそれに従って収納する本を決め、適正年齢ごとに子どもが手にとって自由に選べるような棚を作る。
- 公立図書館では、小中学生向けの「児童書コーナー」と高校生以上向けの「大人コーナー」を分ける。
- コーナーは分けるが、適正年齢に即していなくても希望に応じて貸し出しができるような(合意できる)ルールを作る。
- 「適正年齢」決定の理由など、子どもや保護者が選ぶ参考にできる情報を提供する
- 「適正年齢」のレーティングが全ての年齢向けではない作品については、(個々の子が選べないような)「全校生鑑賞」はしない。「観たくない」という子どもがいたら、その理由に耳を傾け、正当であればその希望を聞き入れる。
良いタイミングで良い本に出会ってもらうために、私は、親や子が選びやすいように『ジャンル別 洋書ベスト500』に「適正年齢」の情報を載せ、参考になる情報を加えた。予期していた小中学生の親だけでなく、感受性が強い人や残虐な描写が苦手な大人の読者からも好評をいただいている。完璧からはほど遠いが、今後手を加えて行くことで、より良くなってゆくだろうと思う。
この問題は、いろいろな要素が絡んでいるし、それぞれに強く信じるものがあるので、熱くなりやすい。
けれども、相手の言い分に耳を傾けることができる人が集まって恊働すれば、これまで他人からの攻撃が怖くて黙ってきた繊細な子どもたちを沢山救うことができると思う。私たちがやらねばならないことは、感情的にならず、相手を勘ぐらず、陰謀説に踊らされず、相手をまず信じて恊働することである。
(2013年8月18日の「渡辺由佳里のひとり井戸端会議」より転載しました)