福島の教育過疎

幕末、会津藩など東北雄藩は優れた教育機関を持っていたが、明治維新と共に消滅した。東北地方で明治時代に高等教育が途絶した影響は未だに残っている。
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福島県の復興は、国民の大きな関心事だ。除染・補償・脱原発・補助金事業など、様々な施策が打たれている。

ただ、私は、このような近視眼的対策だけでは、福島は復興しないと思う。福島の衰退は、東日本大震災で始まったわけではない。長く、根が深い。特に深刻なのは、人材の層が薄いことだ。

例えば、今春、東京大学に合格したのは、福島県全体で10人。沖縄県と並んで、全国最低ランクである(図1)。

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図1:2013年東大前期試験合格者数 (18才人口1万人あたり)

ちなみに、東北大学への合格者数も、東北地方で最も少ない(図2)。南相馬市で学習塾を経営する番場さち子先生は「福島の教育レベルは全国最低」と言う。

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図2:2013年東北大学合格者数

教育格差は地域差を固定する。全国と比較して、ノウハウの蓄積には雲泥の差があり、一朝一夕には追いつかない。

ちなみに、私の本職である医療でも状況は変わらない。西日本と比較して、東北地方の医師数は遙かに少ない(もっとも、埼玉県や千葉県など、東京のベッドタウンはもっと深刻だが)(図3)。

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図3: 人口10万人あたりの都道府県別の医師数

なぜ、こんなことになるのだろうか。それは、医師を育成する医学部の数に東西格差があるからだ。例えば、人口1315万人の九州には11(産業医大を含む)、人口1143万人の四国には10の医学部が存在する。これは人口1323万人に13の医学部が存在する東京と遜色ない。

一方、人口915万人の東北地方に医学部は6つしかない。千葉・埼玉県に至っては、人口1341万で3つだ。医師不足になるのも当然だ。

興味深いのは、九州・中四国の16の県、全てには国立の医学部が存在することだ。東北地方6県では、福島県、岩手県に国立の医学部がない。関東7県では埼玉・神奈川県にない(厳密には栃木県にもない)。

西日本と比較して、東日本の県は面積も大きく、人口も多い。ところが、このような地域に国立の医学部がない。この結果、医師不足の地域に国立の医学部がないという皮肉な事態に陥っている。

なぜ、こんなことになるのだろうか?私は、我が国の近代化を反映していると考えている。

近代日本の礎が完成したのは、明治から戦前にかけてだ。高等教育機関の誘致には、当時の政府内の権力関係、つまり新政府対旧幕府という対立構造が影響したことは想像に難くない。

図4は戦前から存在する官立医学部の分布である。東日本に官立医学部があるのは、東京・新潟・千葉・仙台・札幌の5地域。一方、西日本には金沢・愛知・大阪・京都・岡山・福岡・長崎・熊本の8地域に存在する。実に、九州だけでも3つだ。

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図4:戦前からの官立医学部の分布

この分布を解釈する際に注意すべきは、当時、東京は薩長を中心とした新政府のお膝元、札幌は薩摩藩を中心に開拓されたことだ。旧幕府方の所領で国立医学部が設けられたのは、新潟・仙台・千葉だけだった。

余談だが、北海道は薩摩藩の黒田清隆が中心となって開拓し、多くの企業を立ち上げた。サッポロビールは未だに鹿児島で人気がある。

この状況は、医学以外の高等教育でも変わらない。図5は帝国大学とナンバースクールの分布を示す。西日本には8地域に存在するのに、東日本に存在するのはわずかに3地域だ。東京と札幌を除けば、仙台に東北帝大と二高が存在するだけである。

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図5:帝国大学・ナンバースクールの分布

新政府は1924年に京城帝大、1928年に台北帝大を設置している。帝大以外にも、1922年には旅順工科大学、満州医科大学などの官立大学を設立している。東北への教育投資は、植民地よりも後回しにされたことになる。

幕末、会津藩など東北雄藩は優れた教育機関を持っていたが、明治維新と共に消滅した。東北地方で明治時代に高等教育が途絶した影響は未だに残っている。

今春、東大に10名以上の合格者を出した県立高校は29校ある。そのうち、東北地方の高校は盛岡一高だけ。一方、九州・中四国地方には、熊本高校、高松高校、岡山朝日高校、鶴丸高校の4つが存在する。盛岡一高の前身は、1880年設立の公立岩手中学校であるのに対し、熊本高校・岡山朝日高校・鶴丸高校は江戸時代の藩校が起源である。

明治維新後、藩校が地域の高等教育機関に移行したところでは、教師たちは、そのまま地域に残ることが出来た。一方、藩校が途絶した地域では、教師たちは地元の小学校の教師になるか、あるいは他地域に移動せざるを得なかった。

21世紀の現在においてですら、医学部を新設するのに四苦八苦している。一旦、高等教育の伝統が途絶した地域で、再度、高等教育機関を立ち上げるのは至難の業だったろう。

結局、東北地方に国立大学が整備されるのは、戦後になってからだ。医学部に関して言えば、弘前大学1955年、秋田大学1970年、山形大学1973年まで待たねばならない。地域の人口を考えると絶対数も少なく、規模も小さい。随分、後回しにされたものだ。

畢竟、都市とは人だ。人材が尽きれば、都市も息絶える。福島が生き残るためには、地域で人材を育成できるようにならねばならない。

この点で明るい知らせもある。例えば、今春、福島県立相馬高校の稲村健(たける)君が、12年ぶりに東京大学に現役合格したことだ。地域を挙げて祝っている。

彼の快挙は、東日本大震災を契機に、外部から支援に入った松井彰彦・東大大学院経済学研究科教授や藤井健志氏、安藤勝美氏などの予備校講師と連携を深め、勉強を進めた成果だ。外部勢力を上手く活用し、生徒の学習環境の改善に努めたのは、松村茂郎氏や高村泰広氏などの福島県立相馬高校の教員たちである。

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図6:東日本大震災以降、福島県立相馬高校で国語の授業を続けている予備校講師 藤井健志氏。2013.3.29

このやり方は、明治政府が海外から専門家を招き、ノウハウを導入したことを似ている。松村茂郎氏、高村泰広氏ともに福島県浜通り地区の出身だ。地域の特性を知り抜いた「知識人」が、東日本大震災を好機として、積極策に打って出た側面もある。

稲村君の小さな成功は、周囲を元気にしている。稲村君の周囲には、「来年は東大を受験したい」という生徒が複数出始めている。また、「相馬高校の快挙に、南相馬市やいわき市の高校生たちも刺激を受けている(地元教師)」という。これは、東日本大震災前は考えられなかったことだ。

高村泰広教諭は「稲村君のような人材が多数出てくれば、この地域も変わる。彼らが全世界に散り、一部が相馬に戻ってくれればいい。相馬に有益なネットワークが出来上がる」という。私も全く同感だ。

福島の置かれた状況は厳しい。ただ、状況は変わりつつある。震災を契機に問題の本質を理解する人が増え、各地とのネットワークが構築されつつある。相馬高校の快挙は、その象徴だ。小さな成功が周囲に伝わり、被災地が元気になりつつある。復興は現場から始まる。