宗教にオチは要らない

仏教と社会に絡みついたしがらみをほどいていく、Post-religionというパラダイムシフトの促進
Open Image Modal
Getty Images

長らくご無沙汰していました。

松本紹圭(しょうけい)です。

ブログのタイトルは

「ひじりで行こう」

となりました。

聖(ひじり)とは、

かつて日本で全国を遊行してまわったお坊さんのこと。

ひじりは安定した公的な僧侶の立場を捨て、権力や名声を求めることなく、

全国各地を行脚しながら人々を救うことに力を尽くした人たちです。

空也上人や一遍上人が有名ですね。

「ひじり」は「火」を「しる」からも来ているとも言われます。

古代、儀式で使う聖なる火を操ったからかもしれません。

「聖」という漢字で書くと仰々しくて、

自称するのはまったく口幅ったい感じがしますが、

日本大百科全書(五来重)によると、

日本の古代仏教では、官寺・諸大寺に住む僧侶に対して半僧半俗の民間僧侶(沙弥、優婆塞などともいう)を聖とよんだのは、彼らが自らを「ひじり」と称したからである。中世には念仏聖(ねんぶつひじり)や勧進聖(かんじんひじり)、遊行聖(ゆぎょうひじり)として民間仏教の担い手となった

とあるように、

中世日本では民間仏教の担い手を「ひじり」と呼んでいました。

お寺にとどまることなく市中に分け入り様々な活動をして、

その時代の人々の苦悩に寄り添い社会の課題を解決した

ひじりたちの姿には、私も憧れます。

自分の活動を彼らの偉業と比べることなどできませんが、

私の場合は、現在一般に「住職」と呼ばれる僧侶のように、

自分のお寺と呼べるお寺を持っていないので、

「お寺にとどまらない僧侶」(とどまるお寺のない僧侶)

という意味で、ひじり、と言っています。

今回はブログ再開の最初の記事ということで、

久しぶりに何か書いてみようと思うきっかけになった、

私の中に浮かんできたある考えについて、書いてみます。

それは、

"Post-religion"

です。

私はときどきインタビューを受ける機会があるので、

そのたびに自分が今までやってきたこと、今やっていること、

そしてこれからやろうとしていることについて、

人生を振り返る機会をもらいます。

たとえば、お寺生まれでもないのに大学を卒業してすぐに僧侶になったこと、

近所で働く人のために開いた「お寺カフェ・神谷町オープンテラス」、

誰でも仏教に親しんでもらいたいと立ち上げた「インターネット寺院・彼岸寺」、

お寺の人が宗派や地域を超えて集い人や社会に開かれたお寺を創る「未来の住職塾」。

これらすべて、自分のしてきたことは一体何だったんだろうかと。

そして自分はどこへ向かっているんだろうかと。

自分探しをしているわけではないけれど、

とはいえ、何か分かりやすいことばで表現できたら、

自分にとっても、人に伝えるときにも、役に立つだろうと思って、

ずっと考えていました。

もやもやと考えて、立ち止まって、悩んで、

やっと出てきたのが、この

"Post-religion"

です。

ポスト宗教。ポストモダンとかの、ポストです。

なぜ、Post-religionなのか。

どういう意味合いで言っているのか。

それをお伝えするため、少し私の人生の振り返りにお付き合いください。

Open Image Modal
Lit Candles in Church Interior at Christmas
Getty Images

宗教が嫌いだから、お坊さんになった

私は子どもの頃から、宗教が嫌いでした。

そしてそれが、お坊さんになった大きな理由です。

私はお寺生まれではない、いわゆる在家出身のお坊さんです。

仏教の世界では、お寺生まれではないのにお坊さんになる人を、

「在家出身」と呼びならわしています。

出家するのに、在家出身以外にあるの?

反対語は何になるの?

考えてみると、不思議な表現です。

確かに私の実家はお寺ではないですが、

近所に祖父が住職を務めるお寺がありました。

おじいちゃんのうちがお寺、という環境です。

よく、そのお寺の庫裏(お寺の家族の住居部分)に出入りしていました。

広い本堂で座布団を積み上げて遊んだりしたのは、良い思い出です。

まだ幼稚園の頃かと思いますが、子どものときに衝撃だったのは

「人は誰しも必ず死ぬ」

と知ったときです。

いつか必ずみんな死ぬ。

お父さんやお母さんも死ぬ。

自分も死ぬ。

誰しも必ず、この世界から別れなければならない。

どうせ死ぬのになぜ生きるのか。

我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか。

こうした問題を解決をしなければ、安心して生きられません。

でも案外、大人たちはそんなことを考える様子もなく、

皆、なんとなく安心して生きているように見えます。

人間の死亡率が100%なのに、なぜ平気でいられるのかと、

不思議に思いました。

お寺ではときどきお葬式がなされます。

人の死に際して、住職である祖父は、儀式に呼ばれて出て行って、

何かしらの解決をつけているらしい。

お経を読んでいるだけといえばそれまでですが、

それでも遺された人たちに何か安心感をもたらしているようだ。

きっとここに、何か死の問題を解決する秘密があるのだろうと、

子どもながらに感じたものでした。

それからというもの、

祖父に仏教の本を借りたり、仏教のことを質問したり、

お寺にお説教使さんが来たときに法話を聞いたりするようになりました。

祖父が貸してくれた鈴木大拙の『無心ということ』は

小学生の自分には難しすぎてほとんど内容は分かりませんでしたが、

大事なこと、ほんとうのことが書いてるという感覚だけはあったので、

頑張って最後まで読みました。

中学、高校生くらいになると、だんだん興味関心が広がって、

もうちょっと色々知りたい、仏教以外にもきっとヒントがあるはずと、

街へ出て本屋に行くようになりました。

地元、北海道の小樽市には、駅前に小さめの紀伊国屋書店がありました。

宗教や哲学のコーナーと、その近くに自己啓発のコーナーがあったので、

うろうろして、大量に平積みになっているオススメ本を手にとってみると、

期待はずれのものがほとんどでした。

新興宗教の教祖様にせよ、自己啓発のカリスマ先生にせよ、

良いことも言ってはいるんだけど、ビジネス色が見えて、ダメでした。

オチは結局、「集会に来なさい」「会員になりなさい」などばかりで。

一方、もうちょっと深みのある本はないかと探して、

自分がいいなと感じて興味を持つ本は、

だいたい目立たないところで埃をかぶっている。

これはどういうことなんだろうと、訝しく思いました。

イヤなら見なければいい話なんですが、

たぶん宗教を理想化して考えていたんでしょうね。

オウム真理教の地下鉄サリン事件は、私が15歳のときに起きましたし、

そういったカルト宗教の活動が盛んだったことも影響しているかもしれません。

最初、どんなに良いことを言っていても、結局は最後、

うちの教祖さまは最高の人だとか、たくさんお金を献金しましょうとか、

そんな話ばっかりじゃないかと。

カネの話、組織拡大の話、エゴの話で、結局、オチはそれかと。

挙げ句の果てに、テロを起こしたり、戦争の火種になったりする。

宗教って、ほんとうは、そんなもんじゃないだろうと。

人の生きる道とか、ものの考え方とか、世界の見方とか、

そういうものを教えてくれるはずのものじゃないのかと。

一方、私の祖父は、

檀家や地域の人たちに慕われる人望のある田舎の住職で、

来るもの拒まず去るもの追わずという感じでやっていた人でした。

カルト宗教への反発心と、祖父という身内びいきもあり、

伝統仏教により親しみを感じるようになりました。

若いので仕方ないですが、

新宗教は悪で間違った宗教、伝統仏教は善で本来の宗教という、

単純な構図で物事を見てしまっていたのですね。

その対立的な構図の中で、自分は本来の宗教である伝統仏教の側に立って、

カルト宗教に対抗しなくてはという勝手な使命感を持つようになりました。

今になって考えてみれば、

祖父がそうやって飄々と田舎のお寺の住職をやっていられたのも、

檀家制度という安定した仕組みにお寺が守られていて、

生活にもさほど困ることなく帳尻が合っていたからであって。

若気の至りということで、許してください。

Open Image Modal
Shokei Matsumoto

新興宗教も伝統宗教も、所詮は宗教、人のすること

そんなこんなで、伝統仏教界の仲間入り。

大学卒業後、そのまますぐにお坊さんになりました。

(書けば際限なく長くなるので詳細は割愛します)

自分の意思でお坊さんになりたかったので、

祖父のお寺とはまったく関係のない、

東京のお寺を訪ねて、住み込み小僧を始めました。

もちろん、もともとがお寺の孫だから、

伝統仏教の僧侶が皆、滝に打たれて修行しているとか、

心清らかな聖人であるとか、そんな素人感覚の幻想はもっていません。

お寺やお坊さんってだいたいこんな感じだろうと想像していたのと、

実際に自分が入ってみて感じたお寺界は、そう大きな違いはありませんでした。

だからこそ、せっかくいい教えがあるんだから、

もっとお寺は変わっていかなくちゃ、改革しなくちゃ、

もうちょっと頑張ろうよという気持ちで、お坊さんになったのです。

でも、よくよく見てみると、伝統仏教のお寺だって、

檀家が減ってきたから増やさなくちゃとか、

もうちょっとお札がたくさん売れないかとか、

教団として教線を維持拡大するにはどうしたらいいのかとか、

そんなことを考えている部分もあるわけです。

また、お坊さんが集まって口を開けば、

最近はお寺に参る人が減ってきたとか、

人々の信仰心がなくなってきて情けないとか、

そんな話が出てきます。

どこか違和感を覚え、考えました。

私は浄土真宗本願寺派の僧侶になりましたが、

だからといって、教団に身を捧げたくはないし、

エージェントとして本山のメッセージを代弁したいとも思わないし、

浄土真宗の門徒や信徒を増やしたい気持ちもない。

何か根本的なギャップがあるような気がする。

そうして、あらためてわかったのは、

自分は新興宗教が嫌なんじゃなくて、

宗教そのものが嫌いだったんだと。

もう少し丁寧に言うなら、

宗教といえば、教祖であり、組織であり、お金であり、エゴであり、

入信を勧められるオチが必ずついてくる、宗教システムが嫌だったんだと。

たまたま、まだ成立して間もない新興宗教などは、

開祖やカリスマが現役で生きているので、

「すべて教祖様のおかげです」と

何でも一人の人間の肥大化したエゴに還元される、

そのカルト構造が分かりやすかっただけで。

その点、開祖が何百年も昔に亡くなってしまった伝統仏教は、

エゴが拡散して薄まっているので、一見それが感じられにくかったのです。

でもよくみると、宗教システムの構造自体は変わらないんですよね。

およそまともな宗教なら、方向性はエゴの解体でしょう。

仏教も本来は、もちろんそうです。

それなのに、解体どころか、肥大化したエゴの塊としての、

宗教システムに染まってしまってはいないかと。

まぁ、宗教と言ったって所詮、人間のやることですから。

初めから分かりきったことではあるんですけど。

宗教というものに過度な期待はしないと言いながら、

私もそれなりに期待してしまっていたんでしょうね。

新興宗教だろうと伝統宗教だろうと、宗教は宗教。

基本的な構造はすべて一緒。

所詮、人間のやることである限り、宗教と言ったところで、

結局、娑婆の話になってしまうんです。

Open Image Modal
acadia, Maine, USA
Getty Images

ブッディズムからイズムを外す

明治に入ってReligionという言葉が入ってきたとき、

「宗教」という言葉が翻訳にあてられました。

Religionという言葉は、

「固く縛る」「結びつける」

といった意味を語源に持つと言われます。

そしてその頃から、

キリスト教やイスラム教と並ぶ宗教としてのブッディズムが顕在化し、

日本ではそれを仏教と呼ぶようになりました。

それ以前、日本には仏教という言葉はなくて、

「仏道」などが使われていたそうです。

道って、いいですよね。

仏道と呼ばれていた頃は、Religionとしての認識は、

少なくとも今ほど強くなかったでしょう。

もちろん、江戸時代には檀家制度によって、

市民は必ず皆どこか菩提寺に所属しなければなりませんでしたが、

それは基本的に戸籍の話、行政システムの話です。

菩提寺とは別に、自分の好きな仏さまやお寺と自由につながれる

サークル的な「講」という文化が、民衆にはありました。

お坊さんだって、八宗兼学といって様々な宗派の教えを学んだり、

自らの探究心に従って他宗のお寺に逗留して教えを請うたり、

今よりもう少し自由に仏教を学べる風土があったはずです。

その後、近代化の過程で宗教法人法が整えられて、

宗教は皆、横並びで同じ組織体系を持つようになりました。

仏教各宗派も、包括法人(宗派本山)と被包括法人(末寺)に分かれて、

一対一対応することが義務付けられるようになります。

お寺の世襲化も進み、寺の跡取りであれ檀家であれ、

生まれながらにして自分の信仰が決められている状況が生まれます。

どんなものも固定化すると、みずみずしさを失いますね。

ブッディズムは、イズム=ismです。

イズムになると、そこに必ずエゴが生まれて、ボーダーがひかれ、争いが起こる。

名は体を表します。

本来の仏教は、人がエゴから自由になる教えだったはずなのに、

ブッディズム=仏教になってしまうと、中身も変容せざるを得ません。

「信仰=Faith」という表現も、

かなりReligion的な発想の言葉だと思います。

私はお坊さんですが、

「私は仏教を信仰しています」

とは、自然に言えません。

言おうとすると、どこか無理している感じがするんです。

なぜなら、仏教は「私」の話ではないからです。

基本的に仏教が言っているのは、

「私はxxを正しいと信じる」というような、

「こうあらねばならない」という私のモノサシで

対象を評価しようとするジャッジメント発想こそが、

苦しみを生む原因であるということです。

言い換えると、あらゆるイズムから離れて自由自在に生きることを、

仏教は教えてくれています。

人は誰しも、

たとえ「私は無宗教です」という人であっても、

何かしらのイズムに縛られて生きています。

私の友だちで

「無宗教って、"無印良品というブランド"のようなものですね」

といった人がいましたが、これは至言です。

(無印良品さんごめんなさい、私は好きなお店です)

あえていうなら、あらゆるイズムから離れた人のことを、

ブッディストと呼びたいところです。

もっとも、それはブッディストというより、ブッダ(目覚めた人)ですけど。

Open Image Modal
Shokei Matsumoto

宗教にもうオチは要らない

今、世界的に仏教に注目が集まっているのは、

仏教のそういうオープンさがひとつの理由だと思います。

書店ではマインドフルネスの本も売れていますし、

あちこちの座禅会や瞑想会なども盛況です。

私は月に2度ほどのペースで、

東京神谷町の光明寺で朝、Temple Morningといって、

朝の掃除と読経の会を開いていますが、

都内のビジネスマンをはじめさまざまな人が自由に集まってきます。

今度はTemple Co-workingも始めてみます。

(興味のある方は、私のツイッター @shoukeim で確認ください)

でも、ここに集ってくる人たちは、

誰も「仏教に入信したい」「信者になりたい」なんて思っていません。

ただ、何か生きるヒントとか、

自分の苦しみを解決する方法とか、

現代社会の課題を乗り越える知恵が、

ここにあるかもしれないと、そんな感覚で集っています。

イズムにまみれた世界の行き詰まりを乗り越える、

オルタナティブ(代替物)としての思想や実践を探しているんです。

それなのに、

会社や家族、社会の隅々に浸透したあらゆるイズムに疲れ果てて、

やっと心の休息のために訪ねた伝統宗教さえもまた、

イズムにまみれていると知ったときの絶望感といったらないでしょう。

仏教界は第二の世俗にすぎないとは、昔からよく言ったものです。

だから、もし昨今の世界から注がれる仏教への熱い眼差しを見て、

Religionの枠内にいる僧侶が、

「やっと自分たちの時代が来たか」

と思ったら、それは大いなる勘違いです。

お寺の檀家になりたいとか、教団の信徒になりたいとか、

そんなこと、ほとんどの人がまったく望んでいません。

誰も、何にも、縛られたくないんです。

欧米でも若い人たちの教会離れが進んでいるそうですが、同じ理由でしょう。

Religionの常ですが、

どんなに良いことを言っていても、

どんなに良い人たちの集まりだったとしても、

ちょっと付き合いが深まると、最後に

「そろそろ入信しませんか?」

「そろそろ儀式を受けませんか?」

と勧誘される、

そんなオチにみんなうんざりしています。

そのオチ、要らないから!!!と。

オチといえば、

「改宗」を表すconversionという言葉がありますね。

最近はITやマーケティング業界で「コンバージョン」といえば、

Webサイトや広告の目的となる特定のアクション(商品購入や資料請求)を

訪問者がとることに対して、もっぱら使われています。

「今週のコンバージョンレート、ずいぶん上がってるな」

「ですね、先週出稿したステマ広告が効いたみたいです」

というような会話に登場する言葉です。

ITマーケティングのオチを表す言葉が「改宗」だなんて、

なかなか皮肉が効いていますよね。

確かに、伝統仏教のお寺やお坊さんに対して興味関心を持つ人もいますが、

それは、やたらに長い伝統があって、忍者も絶滅した現代において、

未だに昔から同じ形を保ち続けている特殊な生態系が面白いのであって、

あまり自分たちの存在意義を過信するのは危険です。

Open Image Modal
Getty Images/EyeEm

Religionが壁となっている

ブッディズムを信じるブッディスト(仏教徒)にならなければ、

ブッダになれないかといえば、そんなことはありません。

お釈迦さま自身、ブッディストではありませんでした。

なぜなら、ブッダになった最初の人だからです。

そして、自分が見つけたブッダになる道を、ただひたすら説き続けました。

お釈迦さま自身、

「私は川の此岸から彼岸へと人を渡すイカダに過ぎないから、渡ったら捨ててくれ」

と言っています。

サッパリしたものです。

そこにイズムは皆無です。

かといって、懐古主義的に、

お釈迦さまの時代のインドに戻ろうよとか、

欧米からReligionが入ってくる前の

古き良き日本に戻ろうよという話ではありません。

時間を巻き戻すことはできません。

今や世界はグローバルにつながり、

金融資本主義は高度化・複雑化し、

科学技術はITからAIやバイオテクノロジーまで等比級数的な速度で進化し、

一方で地球環境は破滅へ向かう危機的状況です。

私も何かできればと思い、宗教界にSDGsを広める活動などしています。

今求められているのは、

一人ひとりの人生の課題と、

地球的規模の課題を乗り越える、

オルタナティブな智慧です。

私の見るところ、

そのような智慧は人類が古から練り上げてきた宗教分野に

たくさんのヒントが眠っていますが、むしろReligionが壁となって、

アクセス不可能となる状況が生まれてしまっているのではないでしょうか。

しかも、現代はこれだけ情報技術が発達していますから、

もしさまざまなテクノロジーに接続することができれば、

古の人類の智慧がさらにアップデートされていく可能性だって、十分にあります。

そう考えると、現状はとてももったいなく、残念です。

Open Image Modal
gunnerl via Getty Images

Post-religionというパラダイムシフト

最後に、ひとつ書き添えておくならば、

最近は宗教界でもPost-religionの風を受けてか、

宗派や宗教を超えての交流が盛んになってきています。

私たちの主催する「未来の住職塾」もそのひとつですが、

宗教者同士が対話するイベントなども盛んですし、

宗教者同士のunityの重要性を掲げる人も増えているように感じます。

しかし、そこで

「宗教者同士が一致団結(unite)して、伝統宗教界として、

信仰心の涵養や、神仏を敬う心の大切さを、訴えていきましょう」

というのだとすれば、ピントがずれています。

確かに、Post-religionのパラダイムシフトは一足飛びにはいきませんから、

まずは宗教者のunityから始めよう、というのはいいんですけど、

人々が求めていることは「Religionの復権」ではないのです。

その意味でも、Post-religionと言っています。

私がこれまで伝統仏教界でやってきたいろいろな取り組みを評して

「仏教の改革者ですね!」と言われることがありますが、

どうもしっくりきませんでした。

自分は、仏教を改革したいのだろうか?

よりよい伝統仏教界を作りたいのだろうか?

いや、そうじゃないだろうと。

Post-religionという視点を得た今、

これまで私のしてきたことは、

Religionとしての仏教をより良くするという

「Religionの復権」

ではなくて、

こてこてのReligionである伝統仏教の内側に身を置きながら、

仏教と社会に絡みついたしがらみをほどいていく

「Post-religionというパラダイムシフトの促進」

だったのだと、やっとわかりました。

これからはもう少し射程範囲を広げて、

Post-religionというパラダイムシフトに、

より広くReligionを対応させていく作業をしていきたいです。

宗教を問わず、さまざまな宗教家の意識が変わっていくことが、

Post-religionというパラダイムシフトをより安産なものにし、

古の智慧をこれからの人類に継承することにつながると思うからです。

そのようなわけで、「Post-religion」という視点から浮かび上がってくることは、

・仏教をはじめ宗教的価値は注目されているが、

誰も入信したくはない。宗教にオチは要らない

・懐古主義的な「Religionの復権」でもない。

過去に戻ることはできない。世界の前提はすっかり変わってしまった

・既存の宗教者や組織がその流れの妨げにならないよう、

Post-religionのパラダイムシフトと同期する必要がある

・Religionに閉じ込められてきた、

社会の行き詰まりを打破するオルタナティブな智慧を、

誰でもアクセス可能なものにしたい

・現代のさまざまなテクノロジーと接続されることで、

古の智慧がさらに創造深化していくことも促進したい

といった方向性でしょうか。

Post-religionについて、ぜひみなさんの考えも聞かせてください。

(2018年5月16日松本紹圭のひじりでいこうより転載)