"消費の時代"から"生産の時代"へ

「カッコよく消費すること」が至上の価値だった時代から、「カッコよく 生産すること」が重視される時代になった。商品や情報をただひたすら飲み込むだけでは、もはや"カッコ悪い"と見なされる。制作物や情報を発信してこそ"カッコいい"と評価される
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ニコニコ動画やPixivなどの登場する"前"と"後"で、私たちの価値観は大きく変わってしまったようだ。「カッコよくすること」が至上の価値だった時代から、「カッコよくすること」が重視される時代になった。商品や情報をただひたすら飲み込むだけでは、もはや"カッコ悪い"と見なされる。制作物や情報を発信してこそ"カッコいい"と評価される――。

本当に、そういう時代になったのだろうか?

本当だとしたら、変化の原因は何だろうか?

1.情報爆発

いまの中高生には想像できないかもしれないが、かつて"の時代"があった。いい年した大人たちが、あるいはすべての子供たちが、しかしない時代があった。CM放映されたものをいち早く買ったやつがカッコいいと見なされる:そういう時代が本当にあったのだ。

Beforeニコ動の時代では、「カッコよくする」ことが重要視されていた。自我を確立するためには、他者との差別化が必須だ。どんなアーティストのどんな曲を知っているとか、話題のスポットに誰よりも早く足を運んでいるとか、消費活動で個性を表現しようとする人が多かった。とくにバブル期にはこの価値観がピークを迎えていたらしい。世の中には楽しいものがこんなにたくさんあるのに、それを消費しないなんて、なんのために生まれてきたの? ――これが"消費の時代"のメンタリティだったはずだ。

ところがAfterニコ動の時代では、「かっこよくする」ことが重要視されるようになった。どんなにマニアックなアーティストを知っていようと、Wikiにはもっと詳しい情報が書いてある。話題のスポットはGoogleストリートビューで下見して、足を運ぶ価値があるかどうか判断できる。なにかを消費するだけでは、個性化・差別化が図れなくなった。

では、どうやって自分の個性を表現するのか。差別化を図るのか:

その答えが、たとえば「歌ってみた」「踊ってみた」だし、Twitterやブログにこうやって文章を書くことだったりする。いずれも情報を発信しているという意味では生産活動だ。情報の"質"は千差万別だが、これらはまぎれもなく生産活動なのだ。

おそらく、いまの中高生に「生産の時代だよ」と言ってもピンと来ないだろう。

「ボカロ曲()を聴く() → 曲の背景ストーリーを読む() → 感想をつぶやく()/歌ってみる()/踊ってみる()/描いてみる()」

......この一連の流れをすべてまとめて活動だと、彼らは見なしているはずだ。ところが厳密には、一連の活動には生産的な要素が多分に含まれている。これら活動は、かつては存在しえなかった。

いまの時代、誰もが何かを生産している。"何も作らないなんて、なんのために生まれてきたの?" ――と言わんばかりの勢いだ。

いったいなぜ、こんな時代になったのだろう。

どうして私たちはモノ作りをやめられないのだろう。

2.反響を得るツール

かつては発表の場が限られており、モノを作っても、誰の目にも触れずにお蔵入りになる場合がほとんどだった。無関心は、悪評よりも堪える。褒め言葉だろうと悪口だろうと、反響があるからこそ私たちはモノを作れる。たしかに世の中には「反響なんていらない」という天才がいるのは認めよう。しかし、ほとんどの人にとって"反響"は創作意欲の源泉なのだ。

ところが以前は、制作物を見てもらうこと自体が難しかった。反響を得るのはさらに困難だった。だから創作意欲が芽生えても、それを育てるのは並大抵のことではなかった。子供のころを思い出してほしい。誰もがクレヨンで未踏の世界を描き、積み木の城を建設していたはずだ。なにかを生み出したいという欲求をヒトは生まれながらに持っている。けれど多くの人がその欲求を殺してしまい、消費者の立場に甘んじていた。

すべてを変えたのはインターネットだ。

mixiやFacebookを使えば、誰もが吉田兼好になれる(かもしれない)。Pixivにイラストを投稿すれば、現役時代のゴッホよりもたくさんの人に見てもらえる(かもしれない)。「双方向のメディア」「仮想空間」「第八大陸」......ネット文化を象徴する言葉はたくさんある。しかし一人ひとりの人間にとっては、インターネットは「反響を得るツール」だったのだ。Twitter廃人が生まれるのは、インターネットが反響をくれるからに他ならない。

そして、人々のいままで眠っていた創作意欲が爆発した。

最近、こんな記事が話題になった:

『週刊少年ジャンプ』に漫画を持ち込んだら編集者に「キツイですね」と言われた/その漫画をすべて公開中 ‐ロケットニュース

十中八九ネタだろうが、ガチである可能性も1~2割ぐらいあるのではないか......と、私は思った。「創ったものを誰かに見てもらいたい!」という欲求は抗いがたく、制作物に対する愛情はしばしば理性を狂わせる。たった一人の"えらい人"に評価されなくても、もしかしたら"みんな"には評価してもらえるかも知れない:この思考回路はモノ創る人にとって極めて自然だ。人気ニュースサイトという強力な発信ツールが目の前にあったら、間違いなく心のなかで悪魔が囁く。(アップロードしてしまえ......)

消費の時代から、生産の時代へ。

1985年生まれの私は、この時代の変遷を肌で感じてきた。小学生のころはインターネットがまだ普及しておらず、私たちは消費の時代にどっぷりと漬かっていた。『なかよし』のセーラームーンを読み漁り、『コロコロコミック』に命じられるがままミニ四駆を、そしてハイパーヨーヨーを欲しがった。

ところが中学生になると、インターネットが爆発的に普及していく。私は小説投稿サイトに入り浸るようになり、同級生にはテキストサイトの管理人やgifアニメ作りに熱中する友人がいた。生産の時代の到来だ。『侍魂』や『機動戦士のんちゃん』に熱狂していた。『うーさーのその日暮らし』がアニメ化されるなんて想像できなかった。

一日は24時間しかない。私たちの自由時間から活動が減っていき、 活動へとシフトしていった。価値観が変わる前に、まず生活スタイルが変化したのだ。

3.双方向の情報化

ところが、発表の場があるだけでは「カッコよくする」という価値観は生まれない。価値観を変えるには"反響を得るツール"だけでは不充分だ。なぜなら、未熟なものを発表しても「勘違い乙」で終わってしまうし、得られる反響が悪評だけなら発表しないほうがマシだからだ。「カッコよくする」という価値観から脱皮するためには、ただ発表の場があるだけではダメだし、反響を得られるだけでもダメなのだ。

価値観の変化には、インターネットのもう一つの性質が関わっている。

つまり、「双方向の情報化」だ。

かつて、私たちは"消費者様"として君臨することができた。テレビに登場する芸能人に罵詈雑言を浴びせかけ、気に入らないマンガや小説を徹底的にこき下ろした。仲間内のご意見番になって、「村上龍の新作? ああ、イマイチだったよね」と偉そうな言葉を吐いていた。「鈴木あみ? 歌がへたくそ」「広末涼子? あの学芸会みたいな演技をどうにかしろよ」そんな言葉で"違いの分かる自分"を演出していた。

――じゃあ、偉そうなクチを叩くてめえは何者なんだよ。

この時代、どんなに尊大な言葉を吐いても反撃されなかった。だから安心して消費者様でいられた。たとえばアルバイト経験のない中学生は、高校生よりもファミレスでのマナーが悪い。働く側の立場を想像できず、"お客様"でいられるからだ。モノを作ることのハードルが高かった時代、何一つモノを作っていない人たちが、安心してモノ創る人を叩くことができた。この"消費者様"のメンタリティはとても根が深く、現在でも脱出できない人がたくさんいる。

ところが現在では、批判的な意見には「反撃」がある。インターネットのおかげで、すべての人が情報の発信者になれる。"生産"の側に立つことができる。だから「文句があるなら自分でやれば?」という反論が成り立ってしまう。

もちろんヒトは分業によって豊かになる生物だ。絵が得意な人、歌が得意な人、お話を書ける人――。それぞれに得手・不得手がある。もしも自分のできないモノについて文句を言えないとしたら、たとえばジャンプの編集者はマンガ家に一切口出しできなくなる。それはおかしい。編集者は売れるマンガの作り方を――つまり商品企画の作り方を知っている。自分の"作れるモノ"や"できること"があるからこそ、誰かの創作物に口をはさめるのだ。

人は、本質的に自由だ。

言ってはいけないことなどないし、やってはいけないこともない。何一つ生み出すことのできない人でも、嫌いなものを「嫌い」と言う権利はある。むしろ批判的な意見が欲しい、成長のためにダメ出ししてほしい――。そう考える創作者は少なくない。

が、権利があることと、それを行使することの間には、越えがたい溝がある。

銃を撃つことができるのは、撃たれる覚悟のある人だけだ。双方向なメディアに批判的な意見を書き込めるのは、批判される覚悟のある人だけだ。「こいつバカだな」とブログに書き込んだら、相手から「あんたのほうがバカだ」と言い返されるだろう。こういう環境では、「カッコよく する」というメンタリティを維持しづらくなる。誰もが批判をためらうからだ。消費したモノについて意見を述べてプチ評論家を気取るところまで含めて、"消費の時代"の価値観だった。

インターネット上でプチ評論家を気取れるのは、反撃を気にしない人だけだ。「そういうお前は何ができるの?」「どんなモノが作れるの?」という反論を受け流せる人だけだ。つまり覚悟のある人か、よっぽどのバカだけ。

情報が双方向になったことで、"消費者様"になることを躊躇する人が増えた。良いことか悪いことかは別として、批判的な意見を口に出しづらくなった。だからこそ"消費の時代"の価値観は死滅するようになり、"生産の時代"へと移行しつつあるのだ。

たとえば最近のニコニコ動画では、「視聴者様は帰れ」という声が大きくなっている。

隔世の感を覚えずにはいられない。

※余談だがVIPPERがニコ厨を嫌っていた理由はこの辺にあるのかもしれない。ニコニコ動画のユーザーは、VIPを含め2ch文化・ネットスラング文化が大好きなのに、当のVIP側はニコニコ動画が大嫌い――という男子小学生の片想いみたいな状況が、今でもわずかながら残っている。/「視聴者様は帰れ」という言葉が象徴するように、ニコニコ動画では"生産"の価値観が浸透している。投稿者だけでなく、コメントを書き込むだけでも"その動画を盛り上げる"ことにつながる――つまり生産的な活動になる。/一方、VIPを始めとする2chは"消費"の価値観が色濃い。自分の立場を問われることなく、安心して好き・嫌いを書き殴れる。それが2chというサービスの魅力であり、"消費の時代"のメンタリティと親和性が高いはずだ。

       ◆

今回の記事に書いたことは、日本人すべてに当てはまるわけではない。「カッコよくする」という価値観を持っているのは、"消費の時代"をあまり覚えていない若い世代の人か、あるいはインターネットの登場以前から"モノ作り"を内面化していた人だけだろう。

消費の多様化が叫ばれて久しい。

が、この言葉は現実を捉えきれていない。消費が多様化したというよりも、そもそも消費をしなくなり、生産へとシフトしたと捉えるべきだ。ヒトは生まれつき、なにか作りたいという衝動を持っている。しかし一日は24時間しかない。私たちが消費に使う時間は減り続けている。

たとえば最近の流行りのサービスやコンテンツは、みんな生産の土台になるものばかりだ。

Youtubeやニコニコ動画はわかりやすい例だろう。またiPhone、iPadなどのデジタルデバイスならば、所有欲をそそるだけでなく、それを使って"何かを生産できる"という部分が重要であるはずだ。

掃除機のルンバ――失礼ながら初めて見たときは絶対に売れないと思った――が、どうしていまだに終売にならないのか。「ルンバが掃除しやすい部屋を作る」という創意工夫の余地があるからだ。その様子をWEBにアップするという楽しさまで提供してくれる。ルンバは「カッコよくする」という価値観をくすぐるのだ。一方、なぜ日本メーカーの"スマホ家電"があまり成功しないのか:できることが最初から固まっていて、創意工夫の余地が見えないからだ。便利なだけの道具を「カッコよくする」という価値観から抜け出せず、"生産の時代"の価値観にコミットしていないからだ。

コンテンツに目を向ければ、『エヴァンゲリオン』『AKB48』、あるいは鎌池和馬や西尾維新などの速筆のラノベ作家たち――。これら流行のコンテンツに共通していることは、情報量が膨大だという点だ。たとえば時代を象徴する超天才作家岩崎夏海先生は、この共通点を見て「消費しつくされないコンテンツが求められている」と指摘した。ネット時代には情報があっという間に消費されてしまう。飽きられずにヒットを飛ばすためには、消費しつくせないほど情報量の多いコンテンツを送り出すしかない、と。

この指摘は正しい。

そして、もう一歩踏み込んで考えてみれば、膨大な情報量は生産の余地を生む。二次、三次の創作活動につながる。『TIGER & BUNNY』を思い出してほしい。登場人物が多ければ多いほど、無数の組み合わせの物語を想像できる。あるいは『魔法少女まどか☆マギカ』を思い出してほしい。情報量に裏打ちされた堅牢な世界観と、魔法少女は主人公たち5人だけではないという設定。やはり生産の余地が広いのだ。

創作は、生産活動のほんの一部分にすぎない。掲示板やブログに感想を書き込むこと、握手会やコンサートの空気を、雰囲気を、マナーを作っていくこと。それらはすべて生産的な活動だ。推しメンの人気を広げるために身銭を切ることは、つまり目標に近づくために努力するということだ。第三者の目には大量の握手券を消費しているようにしか見えないかもしれないが、本人にとってはまぎれもなく生産的な活動なのだ。

       ◆

インターネットの登場と成熟により、"知っている"だけでは個性を表現できなくなった。またインターネットが「反響を得るツール」として機能したため、多くの人が生産したいという欲求を開花させた。自由時間から消費に充てる時間が減り続けている。さらにインターネットは双方向のメディアであり、「反撃」や「第三者からの評価」がある。そのため"消費者様"としてふるまうのはカッコ悪いことだと見なされるようになった。

これらの要因から「カッコよくする」という価値観は過去のものになり、「カッコよくする」という価値観が広がりつつある。

いま、非生産的な仕事は次々に機械に置き換えられている。

遠い未来には、すべての人々が生産的な活動に従事する時代がくる。テクノトピアは幻想ではなく、確実な未来だ。ただし、その時代が来るころには私たちの寿命はつきているだろう。

夢のような話なのは分かっている。

いまはまだ生産活動では生きていけない人がたくさんいる。いまはまだ非生産的な仕事とも付き合っていかなければいけない。未来はすぐにはやってこない。毎朝、目が覚めるたびに昨日の続きが始まるだけだ。

しかし、それでも、夢を見るのは人間の仕事だ。

(※この記事は2012年10月31日の「デマこいてんじゃねえ!」より転載しました。)