ソーシャルメディアはこん棒で殴り合う「万人の万人に対する闘争」だ

親切を装ったデマの流通や、炎上による誹謗中傷合戦、匿名アカウントからの突然の爆撃など、荒廃した側面が目立つようになってきた。まさに「万人の万人に対する闘争」が生まれているソーシャルメディアの荒野で生き抜く術はあるのか。
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「ソーシャルメディアの登場によって、誰もが自由に意見を表明できるフラットな空間が生まれた」。インターネットでのコミュニケーションについては、このような理想論が語られることもあるが、現実には、親切を装ったデマの流通や、炎上による誹謗中傷合戦、匿名アカウントからの突然の爆撃など、荒廃した側面が目立つようになってきた。まさに「万人の万人に対する闘争」が生まれているソーシャルメディアの荒野で生き抜く術はあるのか。

■こん棒が振り回され、他人に当たってしまう空間

ソーシャルメディアでは、誰もが発信できるからこそ、不正確な情報も拡散しやすい。デマの真偽を確かめるのは容易ではない。

また、不謹慎画像をアルバイトがアップロードして、Twitterで炎上、店舗が倒産するといった事態まで起きており(「店員が食洗機に入った画像をTwitter投稿のそば屋、倒産 不謹慎画像、書類送検も相次ぐ」)、炎上や誹謗中傷などのトラブル対策がこれまで以上に求められるようになった。駒沢大学の山口浩教授がソーシャルメディアの現状を解説する。

ネットで情報を享受する、という環境の変化に、人間が対応できていません。デマの流布は、リアルな世界でも起きていたことですが、ネットで可視化されるようになり、影響力が大きくなりました。往来を歩いている時に、手を振っているだけなら人には当たらないでしょうが、今は新たに開発された5メートルの「こん棒」を振り回しているようなもので、誰かに当たり、問題が起きます。しかもどういう対処をすればいいのかについての社会的合意がありません。どのくらいの長さならいいのか、棒が当たったらどのくらいの被害があるのか、当たってしまったらどうするか等について、人によって考え方が違うわけです。

どう影響を及ぼすのか分からないままに情報を発信して、迷惑をかけてしまうということだ。最初から悪意を持って殴りかかっているケースならともかく、善かれと思ってやっていることも結局は迷惑をかけてしまうケースがあるから厄介だ。災害時に起きる善意のデマ拡散はその典型例だろう。Yahoo!ニュースの編集を担当している伊藤儀雄氏によると、

デマや不正確な情報は、拡散の発端となる人がいるはずです。その人は、マスメディアに勤めている情報伝達のプロではなく、十分に責任を負える立場ではないケースも想定されます。そうしたアマチュアの個人に対して情報発信の責任を問うことはできるのでしょうか。

もちろん、ひどい内容の場合は名誉毀損にあたるケースもあるだろうが、現実はグレーゾーンのものがあふれている。振り回された「こん棒」が当たっても、誰も責任を問われないのであれば、「やり得」の状態になってしまう。

■怪物リヴァイアサンにすべてを委ねるべきか

国立情報学研究所の生貝直人氏は、ソーシャルメディアがもたらす新たな社会の到来によって、「万人の万人に対する闘争」が始まっていると解説する。

現在問題になっているのは、ソーシャルメディアによって生まれるネット上の新たな「社会」を、どのような手段で制御していくかの合意が存在しないことだと思います。いわばホッブズの言うところの「万人の万人に対する闘争」の中で、リヴァイアサン(旧約聖書に登場する海の怪物、ホッブズは国家のことをなぞらえている)に統治を委ねるのか否かということが論点になります。国家に秩序を作り出してもらうのか、あるいは他の方法で社会に秩序をもたらすことは可能なのかということを、今まさに考える必要があります。

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つまり、ソーシャルメディアで起きる「万人の万人に対する闘争」を回避するためには、国家という怪物に権利を委ねるのかどうかが議論になるということだ。法政大学の藤代裕之准教授も、「万人の万人に対する闘争」の要因は誰もが発信者になったためだと指摘する。

ソーシャルメディア以前は、受け手と送り手が分かれていたから「万人の万人に対する闘争」にはならなかった。我々が情報発信をする権力を新聞やテレビに預けていたともいえます。ソーシャルメディアによって我々は発信する権利=こん棒、を手に入れて、マスメディアに対抗できるようになりました。その一方で、プライバシー暴きや誹謗中傷といった私刑が横行するネット社会が生まれています。

確かに三鷹市で起きた女子高生殺人事件では、新聞が被害者の女性のプライバシー問題を報じるのを控えたが、一部ネットメディアやソーシャルメディアで拡散された。では一体、「闘争」をなくす、もしくは「闘争」から逃れるためには、どうすればいいのか。生貝氏は、2つの方法を提案する。

1つは、ソーシャルメディアの世界でもリヴァイアサンを受け入れて、私たちが安心して生活できる社会環境を、「誰か」にトップダウンで作ってもらうことです。もう1つの選択肢は、もっとボトムアップに「私たち」自身が倫理や規範を作ることで、あるいは個々人のリテラシーの向上によって闘争を解決していくという手段です。

自発的なアソシエーション(共通の関心で結びつく集団)を形成して、自分たちで統治することが重要になるということだ。そのことが、情報を読み解く「メディアリテラシー」の能力向上につながる。しかし、「メディアリテラシー」は長らく叫ばれながらも、現状は向上しているとは言い難い。自分たちでコントロールできないのであれば、怪物であるリヴァイアサン(国家)に統治を委ねるしかなくなる。ソーシャルメディアの世界も、このままでは、将来的に様々な法規制の話が出てくるかもしれない。

■ソーシャルメディアはオープンからクローズドへ

では、生貝氏が挙げる2つの視点以外はないのだろうか。社会の構造は技術の発展とともに変わる。技術やサービスの変化からの視点もあるはずだ。NTTコミュニケーション科学基礎研究所の木村昭悟氏は違った角度からソーシャルメディアの移り変わりを説く。

TwitterやFacebookから、低年齢層の多くが離れつつあるように思います。悪い面が見えすぎていて、僕らのいる場所じゃないんじゃないかと感じているのではないでしょうか。人との関係が増えれば増えるほど、自分の周囲のネットワーク内で「闘争」を目の当たりにする可能性が指数的に増えていく。TwitterからFacebook、さらにLINEへ、というクローズドで個別のネットワークへ移っていく傾向は、みんながリスクを避けて、平和に暮らそうとしている心の表れのように思います。気心が知れている狭くて小さいネットワークの方が、空気を読みやすく居心地がいいと感じる人も多いだろうと考えています。

人は自然と居心地の良い場所を探し、ソーシャルメディアの栄枯盛衰がおきることで問題は解決するのか、このまま「こん棒」が振り回されるのを放置しておけば、リヴァイアサンに飲み込まれてしまう日がやってくるのか...。アソシエーションの動きは、今のところ見えない。(編集:新志有裕)

※「誰もが情報発信者時代」の課題解決策や制度設計を提案する情報ネットワーク法学会の連続討議「ソーシャルメディア社会における情報流通と制度設計」の第2回討議(13年5月開催)を中心に、記事を構成しています。