幻の「四式中戦車チト」を求めて。人々はなぜ猪鼻湖の湖底を探すのか?

静岡県浜松市の猪鼻湖(いのはなこ)に沈められたと言われている「幻の戦車」。四式中戦車チトは、本当に湖底にあるのか?人々はなぜ探すのか?その真相に迫った。
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猪鼻湖に沈んでいると言われている「四式中戦車チト」。1945年8月、終戦直後に千葉陸軍戦車学校で撮影。写真提供:有限会社ファインモールド

「にゃ〜」。波打ち際で湖面を眺めていると、人なつっこい猫が足下にまとわりついてきた。2015年6月19日、「幻の戦車」が沈んでいるという湖に来てみたが、見つかったのは戦車ではなく、1匹の猫だった。写真を撮ると、逃げるどころかどんどん寄ってきた。

ここは静岡県浜松市の猪鼻湖(いのはなこ)。南側の浜名湖と繋がる「瀬戸」と呼ばれる部分だ。

山に囲まれた幅120メートルの海峡のような地形になっている。水深10メートル以上と深くえぐられたこの一角に、旧日本陸軍の戦車が沈んでいると言われている。しかし、想像以上に狭い。湖底を漁ればすぐに見つかりそうに思えた。

■湖底に沈んだ「幻の戦車」とは?

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アメリカ国立公文書記録管理局(NARA)が所蔵する四式中戦車チトの写真(スティーヴン・J・ザロガ「日本の戦車1939-1945」より)

 

 

この瀬戸周辺では以前から「湖底に戦車がある」という話が言い伝えられていた。だが、大きな動きがあったのは、戦後50年以上たった1999年1月のことだ。地元在住の旧日本陸軍・技術少尉、大平安夫さん(当時81歳、故人)が「自分が戦車を沈めた」と中日新聞の記事で証言したのだ。

終戦3カ月前の1945年5月、旧三ヶ日町(現・浜松市北区)には総員4050人からなる独立戦車第8旅団の司令部が置かれていた。アメリカ軍が遠州灘に上陸することを見越した本土決戦の布陣だった。

しかし、何事もなく終戦。整備隊班長だった大平さんは8月下旬、司令官の当山弘道中将に、3両の車両をアメリカ軍に見つかる前に処分することを命じられた。

中日新聞の報道によると、彼が沈めたのは「四式中戦車チト」。決戦兵器として、旧日本陸軍が2両試作しただけの「幻の戦車」だった。全長約6.4メートル、重量約30トン。アメリカ軍のM4シャーマン中戦車に対抗できるように口径75ミリの本格的な対戦車砲を装備した。1両はアメリカ軍が接収、もう1両は日本に残されたがどちらも現在は行方不明だ。

チト以外にも陸軍の主力戦車だった「九七式中戦車チハ」と、イギリス軍から鹵獲した兵員輸送車も沈められた。この兵員輸送車はスクラップ業者が解体して持ち去ったが、残り2両の戦車は猪鼻湖の湖底に眠っているという。

■「50〜60メートル進んだあたりでガツンって音がした」

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戦車が沈んでいった方向を指さす目撃者の一人、二橋敦之さん

猫は私とじゃれるのに飽きたのか、いつのまにか姿を消していた。気を取り直して、周辺住民に聞き込みを始めることにした。

瀬戸の近くにレンタカーを駐車し、目の前を歩いていた高齢の女性に声をかけてみた。「すいません、沈んだ戦車のことを調べに来たんですが...」。「ああ、それならうちの旦那が沈めるところ見たよ」。まさか、いきなり目撃者に当たるとは。夫の二橋瑞江(にはし・みずえ)さん(94歳)の話は、こうだった。

「俺は当時24歳だったかな。肺を悪くしていたので戦争には行かず軍需工場で働いていたんだ。終戦直後のある日、うちの前に3両の戦車が止まってバッテリーを外してから、湖に向かってズザーっと沈んでいった。兵隊から『お前も一緒に乗っていくか?』と声かけられたけど、怖いから断ったんだ」。

当時の目撃者はもう一人いると聞き、湖岸にある二橋敦之(にはし・あつし)さん(85歳)の家に向かった。先ほどの夫妻と同姓だが、この地域に多い名字で、血縁はないという。地元小学校の校長などを歴任した人物だ。

「当時、僕は15歳だったんだが、たしかに3両の戦車が瀬戸の海岸に入ってきて、湖の中に沈んでいった。1両は小さかったけど、浅いところに沈んだので、そのあとも見えていたよ。戦後しばらくしてからスクラップ業者みたいな人が解体して持っていったらしい。もう2両は瀬戸の深いところに入ったので、全然見えなくなったね。50〜60メートル進んだあたりでガツンって鈍い音がして泡が出てきたんで、『あそこまで進んだ』というのが分かった」

当時、戦車を沈めるところを見たのは、この集落の住民だけ。しかも戦後70年を経たことで、目撃者はこの2人しか残っていないという。「チトという戦車だと当時から知っていましたか?」と尋ねると、2人とも首を横に振った。ともあれ、戦車が沈められたのは間違いない。貴重な証言を聞くことができた。

■戦車探索の発端は亡き父の一言だった

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スマッペ事務局長の中村健二さん

「幻の戦車」をめぐっては、2つのプロジェクトが動いていた。1つ目は中日新聞のスクープ記事が出た1999年に、軍事マニアを中心に盛り上がった「四式戦車を引き揚げる会」の運動。もう一つは、2012年に猪鼻湖の地元地域の若手有志がスタートさせた「『幻の戦車』調査プロジェクト」だ。

前者の「四式戦車を引き揚げる会」は、文字通り戦車の引き揚げを目指したものの、目立った成果が出ないまま、活動を停止していた。私はまず、後者の「『幻の戦車』調査プロジェクト」に当たってみることにした。

このプロジェクトは、猪鼻湖を囲む旧三ヶ日町の若手らでつくる団体「スマッペ」が主催している。事務局長で食品会社を営む中村健二さん(55歳)に6月19日、詳しい話を聞くことができた。

「三ヶ日を舞台にした短編映画『がんばりますかっ!』の雑談シーンが最初だったんです。脚本には私も協力したのですが、登場人物が『あっ、湖に戦車が沈んでんじゃん。それをつり上げたい』と語る台詞が入っていました。この映画を、戦車に詳しい御殿場市の自動車整備会社カマドの小林雅彦社長が見て、『本当に引き揚げるんですか?』と、問い合わせが来たんです。もちろん、そんな予定はないので、びっくりしましたね」

こうして中村さんは、2012年の4月ごろに小林社長とともに猪鼻湖での聞き取り調査を実施した。小林社長の説明で中村さんは、湖底に沈んでいるのが「チト」という日本で2両しか造られなかった戦車だと初めて知ったという。

中村さんは「これは三ヶ日の街起こし」になると直感。「地元の歴史を次世代に残すには今しかない」と「『幻の戦車』調査プロジェクト」を開始することになった。

2012年11月の初調査では船を出して、湖底を鉄パイプで突いた。その後は、ソナーや潜水夫による写真撮影を続けている。2014年12月にはクラウドファンディングで集めた450万円の資金で磁気調査を実施した。だが、戦車は発見できなかった。

「最初はすぐに見つかるだろうと思っていましたが、そんなに甘いものではなかった。戦後、みかん畑から土砂が流出した影響で、湖底には3メートル以上ものヘドロが堆積しています。その底にすっぽり埋まっているようなんです」

それでも中村さんは、戦車探しを諦めていない。それには個人的な理由があった。そもそも戦車のエピソードを映画に入れたのも、中村さんが子どものころ、猪鼻湖の吊り橋の上で『健二、ここから飛び込め。戦車が見れるぞ』と、父親が言ったことを覚えていたからだった。中村さんは遠い目で次のように話した。

「生前の父とは全く反りが合わずに口論ばかりしていました。でも、亡くなってから、父は三ヶ日の町の人を非常に気にかけていたことを知りました。町の年配の方々が、息子の僕のことを応援してくれたんです。戦車探しをするのも、ある意味では父への恩返しです。父の言葉をきっかけにして戦車を発見して、三ヶ日を盛り上げることができたなら、亡くなった父に『あんたのお陰だ』と酒を酌み交わせるような気がするんですよ」

■「幻の戦車」をスクープした男、田所記者の回想

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1999年に自身が書いた「幻の戦車」の記事を手にする中日新聞の元記者、田所定信さん

中村さんの話を聞いて「いい話だ......」と思った。ここでルポを締めれば、きれいに終わるが、私には気になっていることがあった。沈んでいる戦車は、本当に「チト」なのだろうか。

終戦直後から「猪鼻湖に戦車が沈んでいる」という噂はあったが、その戦車が「四式中戦車チト」と特定されたのは、1999年1月3日、中日新聞東海版の朝刊に1面トップで掲載された「奥浜名湖に幻の戦車」という記事が最初だ。このスクープ記事を書いた人間に話を聞けば、真相が明らかになるに違いない。

6月21日、JR浜松駅前は雨模様だった。駅ビルの書店に併設された喫茶店に初老の紳士が現れた。1999年に「幻の戦車」の記事を書いた、中日新聞元記者の田所定信さん(63)だ。「恥ずかしい話もあるんですが、今では時効だし、何でもしゃべりましょう」と、ざっくばらんに話し始めた。

「1998年の秋、浜松在住の郷土史家と雑談中に、『猪鼻湖に戦車が沈んでるよ』と聞いたのが最初でした。それで興味を持ち、湖岸に住んでいる二橋敦之先生に話を聞いたら、「戦車のことだったら、PTA会長をやっていた大平さんが詳しいよ」と言われた。それで大平安夫さんに会ってみたら、『私が沈めました』というんです。えっ、ウソだろ!と、びっくりしましたね」

このとき、大平さんは「以前にもテレビ局が取材したことがあるんだよ」と、ビデオテープを田所記者に渡した。それは1989年ごろに静岡放送(SBS)で流れたニュース番組の録画。大平さんが生々しく証言する様子が映っていた。「なんだ、特ダネじゃなかったのか」。一旦は落胆した田所記者だったが、あることに気がついた。

「SBSは取材が甘くて、戦車が沈んでいるということしか、報じていなかった。だったら、こっちは戦車を特定してやろうと思ったんです」

田所記者は軍事雑誌の編集部に相談。旧日本陸軍の戦車を何枚も借りてきて、大平さんの前にずらっと並べた。「これだ」。大平さんが指した先にあったのは「四式中戦車チト」の写真だった。

■SKと呼ばれた戦車は本当にチトなのか?

大平さんは、その戦車が「SK」と呼ばれていたと話していたという。彼自身は、それが「チト」という戦車とは認識していなかったのだ。ただし「日本に2両しかない秘密戦車」と部隊内で噂になっていたこと。車体の下部にある「転輪」の数が7個であること、砲塔の形などは覚えていた。大平さんが話した戦車の特徴を元に、田所記者が「この戦車はチトだ」と断定したということだった。

転輪の数が7個の戦車は、他にも75ミリ対戦車自走砲「ナト」があるが、「砲塔の形が違う」と判断。また、日本陸軍には実際に「SK」と呼ばれていた地底戦車もあったが、転輪の数は6個である点が異なっていた。

ただし、決め手には欠ける。「チト」が三ヶ日町に配備されたという公的な資料は、一切見つかっていないからだ。田所記者が取材した1998年当時でも、終戦から53年が経過している。大平さんの記憶が曖昧になっていた可能性もあるだろう。

実際、中日新聞のスクープ記事では大平さんが沈めた3両のうち1両は、シンガポール攻略時に鹵獲したイギリスの兵員輸送車「ウインザー・キャリア」だと報じていたが、イギリス軍に配備された時期と矛盾する。実際には、もっと以前に生産された「ブレンガン・キャリア」の可能性が高いという。田所記者は、こう話す。

「大平さんはウインザーの写真を指したんですが、形状がよく似ているんで間違えたんでしょうね」

■「引き揚げる会」が挫折した本当の理由とは?

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中日新聞東海版1999年1月27日夕刊の「引き揚げる会」発足を伝える記事

1999年の田所記者のスクープ記事により、「チトが湖底に沈んでいる」ということは既成事実となった。同月には「四式中戦車を引き揚げる会」が結成される。代表に就任したのは、愛知県豊橋市のプラモデル会社「ファインモールド」の鈴木邦宏社長だった。

戦車の専門家だった鈴木社長は、中日新聞の記事を見て、すぐに田所記者に連絡を取り、戦車を沈めた大平さんに面会した。その結果、鈴木社長は「ここに戦車が沈んでいるに違いない」と確信したという。田所記者は、「引き揚げる会」が結成された経緯を次のように話す。

「やっぱり鈴木社長の熱気に圧倒されたというのが大きいですね。彼は何としても引き揚げたいと熱く語っていました。現物を見た上で、チトの本物そっくりのプラモデルを作りたかったのかもしれません。2人で話しているうちに『僕は報道をやるから、あなたは事務局を頼む』ということになりました」

報道の人間が、市民運動に関わってはいけない。田所記者はそう考えて、「引き揚げる会」の正式メンバーにはならなかった。だが、会の活動を積極的に報道するなど陰からバックアップした。田所記者は、なぜそこまで「幻の戦車」に肩入れしたのだろうか。

「やっぱり沈んでいるものを見たいというのは本能だね。現物が見たくなる。誰だって、タイタニックが沈んでいれば探すでしょう。もちろん、最初にチトを報道したのは自分だし、あそこに沈んでいるのは絶対に間違いないんだから、最後まで見届けたいという気持ちはありました」

懐かしそうに語る田所記者だが、最大の懸念事項があったという。それは引き揚げる資金だった。

「1億円以上かかるという試算が出ていたので、『これはとても無理だな』という諦めはあったんです。調達のあてはないけど、運動をPRすることで、誰か篤志家がポンと数億円を出してくれることを願っていました。自衛隊の訓練名目で、国の予算で引き揚げできないかというのも考えました。当時、衆院議員だった越智通雄(おち・みちお)さんの兄が戦車の乗組員だったということを聞いて、彼に手紙を出したこともありました。『弟に話してみる』と返事が来たけど、それっきりでしたね」

1999年3月24日には、三ヶ日町議会で鈴木浩太郞・三ヶ日町長(当時)が引き揚げに前向きな答弁したことを報道。「幻の戦車」をめぐって精力的に動いていた田所記者に突然、転機が訪れた。5月1日付けで取材部門の報道部から、記事の校正をする校閲部に異動になったのだ。

「あとから上司に聞いた話では、浜名漁協から中日新聞の幹部に『お前のところの記者が、浜名湖の戦車を引き揚げようとして漁協は大変迷惑している』と苦情が来たのが原因で、取材記者から僕を外したようです。漁協は、浜名湖のカキやノリの養殖に影響が出そうな話にすごく敏感でした。僕が連日、戦車の報道をしたことが裏目に出て、漁協は『今にも引き揚げられるかもしれない』と焦っていたようです」

8月10日、「引き揚げる会」は、チトの引き揚げを求める6088人分の署名を三ヶ日町長に提出した。朝日新聞が翌日、全国版の夕刊で報じたにも関わらず、中日新聞は黙殺している。

資金繰りのメドもつかないまま、旗振り役であった田所記者が内勤で動けなくなったことで「引き揚げる会」の活動は停滞していった。諦めきれなかった田所記者は、軍事雑誌「丸」1999年12月号に大原亮のペンネームで「幻の戦車」の記事を寄稿したが、資金を出してくれる篤志家は現れなかった。2003年10月、「引き揚げる会」は、正式に活動を停止した。

田所記者は、校閲部で仕事を続けたのち、2015年2月末に62歳で中日新聞を退職。現在はフリーの立場で、「チト」の顛末記を雑誌に書くことを構想しているという。

■「ポール・アレンのようにはなれなかった」

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ポール・アレン氏が2015年3月3日にTwitterに投稿した深海に沈む「戦艦武蔵」の写真

田所記者は校閲部に異動する内示が出たとき、中日新聞を退社して「幻の戦車」の引き揚げ運動を継続することも考えたが、断念した。彼は2人の子どもの父親だったからだ。

「新聞社を辞めるのは、実際には難しいですよ。転職すれば明らかに年収は下がる。フリーになっても、東京ならともかく、浜松では仕事はない。当時、上の子が中学2年生で高校受験を控えていたし、下の子は小学6年生だった。これからの学費のことを考えると、中日新聞を離れることはできなかった。2015年3月に、フィリピン沖の海底で戦艦武蔵を見つけたポール・アレンさんは何兆円という資産を持っていて、自分の巨大ヨットや探査船を持っているから武蔵を見つけることができた。でも、僕にはそんなお金はなかった」

田所記者はそう言って、ため息をついた。2012年以降の中村さんが率いる第2次プロジェクトが、「亡き父親の恩に報いる」ためという個人的な理由がモチベーションになったのは対照的に、田所記者は戦車プロジェクトを続けることで、息子たちの人生に悪影響が出るのを恐れて身を引いたのだ。

同じ「幻の戦車」をめぐる2つのプロジェクトは、中心人物の「親子の絆」をめぐって正反対の道のりを辿っていた。

■本当に反対したのか? 浜名漁協に聞いてみた

しかし、田所記者の言うように、本当に漁協は戦車の引き揚げに反対していたのだろうか。東京に戻ってから、浜名漁業協同組合代表の吉村理利(よしむら・まさとし)さんに電話取材した。

――2012年以降の「幻の戦車」探索プロジェクトに漁協は関わっていますか?

「漁協としては特に関わっていません。ただ潜水調査をする際には地元の漁業活動者の了解を取ってもらう必要があるので、その調整をすることはあります」

――浜名湖への水質汚染を警戒して、調査活動に反対しているのでは?

「もし見つかって、引き揚げるということになれば、漁協としても関わることになると思います。ただ、今のところは見つかってないわけですから、そこまでは行ってないですね」

――1999年ごろに引き揚げ運動に漁協が反対していたのは事実ですか?

「当時も戦車の話は聞いていたけど、何か宝探しのような興味本位の動きだったように記憶しています。漁協が反対していたという記憶はないですね。ただ、地元の漁業者の間で個々にそうした動きはあったかもしれません」

ううむ......。田所記者の記憶とは食い違っているが、浜名漁協は1999年当時の引き揚げ運動に反対したことを否定した。しかし、もし戦車の引き揚げというケースになれば「関わることになる」という立場は確認できた。

■漁業の「聖域」に封印された戦車

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「+」が「チト」が沈んでいると言われている地点。猪鼻湖と浜名湖の接点にある(国土地理院の電子地図より)

私が最初に猪鼻湖を訪れたとき、「こんな狭い場所で、なんですぐに見つからないんだろう?」と不思議に思ったものだ。湖をせき止めたり、湖底のヘドロを大規模に掻き出したりすれば、すぐにでも見つかる気がした。

しかし、猪鼻湖と浜名湖の結節点である瀬戸でそんなことをすれば、浜名湖全体の水質が悪化する可能性がある。そうなれば、漁協は黙っていないだろう。一人の記者の情熱が生み出した「幻の戦車」は、浜名湖に生息するアサリや、養殖されるカキやノリなど豊富な魚介類によって守られた「聖域」に封印されていたのだ。

しかし、可能性は残されている。引き揚げにこだわって失敗した田所さんらの反省をもとに、中村さんは「引き揚げしない。現状のままで発見するのが私たちの目的だ」と断言する。三ヶ日地域の「街おこし」の一環として、水質悪化を招かない探索活動に焦点を絞ることで、漁協が反対しにくい環境をつくっていた。

親子の絆を求める中村さんが、漁業の「聖域」に埋もれた戦車を発見することができるのか、静かに見守りたい。

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猪鼻湖の湖岸にいた猫

 【UPDATE】冒頭に登場した猫ですが、茶色と白色の2種類の毛だったので「三毛猫」ではなく「猫」と訂正しました。また「調査プロジェクト」の中村健二さんから、この猫について情報が寄せられました。静岡県動物愛護指導員を務めている中村さんの奥さんが捕獲し、避妊手術をした上で「地域猫」として瀬戸地区で飼っている猫だということです。(2015/08.03 21:57)

THE PAGEより転載しました。この記事はジャーナリストキャンプ2015浜松の作品です。執筆:安藤健二、デスク:開沼博)