リンク先では、若者が恋愛志向でなくなった理由として、「経済的に貧しくなったからだ」と断言している。若者の行動に経済事情が大きく関わっていることを否定する必要は無いが、それを「本当の理由」として「断言」するのは語調が強すぎる、と感じた。
例えば、アジアやアフリカの途上国を思い出してみてほしい。途上国の若者は、現在の日本の若者と比較してさえ、経済的には貧しい。もし、経済的な貧しさが若者の草食化の鍵だとしたら、貧しい国々の若者こそ草食化していそうなものだ。
あるいは過去の日本。さだまさしや中島みゆきが流行していた頃の日本は、もっと若者が貧しかったはずだ。独り暮らしといえばバストイレ共同の木造アパート、現在の基準からすれば不便な(ときには不潔な)生活をしていた頃、草食系の若者は流行していただろうか?そうではあるまい。恋愛結婚の機運が高まるなか、むしろ若者はこぞって恋愛し、結婚したのではなかったか。
だから私は、「経済的な貧しさ=草食化」という構図は、ちょっと単純すぎると思う。「経済的な貧しさは、それ単体では恋愛を阻害するものではない。プラスαの要因があってはじめて、経済的な貧しさが男女の仲を阻害する」あたりのほうが事実に即しているのではなかろうか。
いつから恋愛はカネのかかるものになったのか
そもそも、「お金がなければ恋愛(結婚も)できない」というのは、一体いつ頃からなのか?
戦後の混乱期~70年代にかけて、貧しい若者もまた恋愛や結婚をしていた事からもわかるように、恋愛や結婚ははじめから"プレミアム"だったわけではない。このあたりの事情の変化については、堀井 憲一郎さんの『若者殺しの時代』がわかりやすい。
バレンタインデー。クリスマスイブ。東京ディズニーランド。トレンディドラマ。"連れ込み宿"から"ラブホテル"へ。こうした文化習俗の変化のひとつひとつを手繰り寄せて、堀井さんは「若者の生活が消費個人社会に組み込まれていった時代」を例証している。
最初はロマンだった。女性にとってのロマンが少なかった時代にクリスマスをロマンチックな日にしたいと希求した。願いはかなえられたが、スーツを着たおとなたちがやってきて若者向けのイベントとしてシステム化し、収奪機構として整備し、強迫観念として情報を流し続けた。目的がしっかりしてるからシステムが強固である。子供は素直に信じる。子供は十年で若者になる。1983年にシステム化された「恋人たちのクリスマス」は、冬至の祝祭の呪縛のように、人間社会の発生とともにあった制度然として存在してしまっているのだ。もう逃げられない。
1990年がピークだったが、1991年以降も恋人たちのクリスマスは続いた。
80年代に作られたものは、90年代には拡大されることもなかったが、壊されることもなかった。90年代は80年代の補強と定着に費やした十年だったのだ。90年代はカルチャー面では、どこまでいっても80年代の補償期間でしかない。
そしてそのまま恋人たちのクリスマスは21世紀に受け継がれ、固定されている。
堀井憲一郎『若者殺しの時代』2006、講談社、P57より抜粋
恋人に贈るプレゼントは、手編みのセーターから高価な商品へ。
水やお茶は無料のものから、ペットボトル入りの有料のものへ。
テレビや電話は、家族持ちから個人持ちへ。
こうした変化のうちに、若者の暮らしはますます快適に、ますます清潔になっていった。それは良かったのかもしれない。そのかわり、"若者としての文化的に最低限な生活"をしていくために必要な金銭コストはどこまでも嵩むようになり、男女の求愛作法は消費社会のシステムに組み込まれていった。あらゆるモノ・あらゆるサービスが金銭的に購えるようになったかわりに、なにもかもが金銭的に購わなければならない社会――そうした消費個人主義社会が成立していった過程を、『若者殺しの時代』は読みやすい筆致で描いている。
そして消費の習慣だけが残った
で、2014年である。
こちらにも書いたように、大学生に対する仕送り金額はバブル景気が始まる1986年を下回っている。冒頭リンク先のWillyさんが指摘しているとおり、時間的余裕までもが失われているわけだから、今日の学生の経済事情は推して知るべしだ。
ところが、若者の生活、特に男女が付き合っていくために必要な金銭はそんなに減っていない。
スマホや携帯電話は、あたかも"通信税"と言わんばかりに若者の財布からお金をむしり取っていくし、そうでなくても消費税が重くのしかかってくる。お茶やミネラルウオーターはもちろん無料ではない。プレゼントやレジャーにはどうしたってお金がかかる。消費個人主義に慣れ親しんだ男女、特に求愛する側が「異性をおもてなしするための条件」について考える際に、金銭をかけないという選択肢が、今日日、どこまで許されるだろうか。
もちろん、こうした消費事情のなかには解消されているかのようにもみえる部分もある――例えば『サイゼリヤ』や『ユニクロ』などといった類は、80年代よりもローコストに、そこそこのものを若者に提供している。ただし、これらに象徴される安価なサービスをもって「物質的豊かさ」と呼んで良いのかは定かではないし、男女交際というフィールドで、そうした安価なサービスが「異性をおもてなしするための条件」としてどこまで許容されているのか、よくわからない。
何が言いたいのかというと、「経済的な豊かさは失われたのに、男女交際の作法やプロトコルは、豊かだった時代の名残りを引きずっているのではないか」ということだ。
70年代末の若者と同等かそれ以上に経済的に余裕が無くなったにも関わらず、いまだ男女交際や求愛の作法は70年代末のソレに回帰していない。フォークソングで歌われたような恋愛は、ほとんど御法度に近い。控えめに言っても、そのような"貧しい恋愛"を許容できる男女は多数派とは言えまい。
80年代以前において、経済的な貧しさは必ずしも恋愛を不可能にするものではなかった。しかし2010年代において、経済的な貧しさを度外視して恋愛をするのはいかにも難しい。若者の財布からカネを絞り尽くすシステムが浸透し、そのシステムに無理が生じているにも関わらず、男女交際や求愛の作法はいまだ20世紀末の面影を引きずっている。たまったものじゃない。
「今の貧しさ」だけでなく「未来の貧しさ」も大問題
付言しておくと、恋愛や結婚の足を引っ張っているのは、現在だけではない。未来もだ。
80~90年代の若者は、たとえバブル景気の恩恵に浴していない者でも、案外、羽振りが良かった。月給が20万円ちょっとの若者が、ローンを組んで高価な国産車を買うなんてことが珍しくなかった。『頭文字D』で描かれるようなサブカルチャーや、90年代のゴージャスなヤンキー車のたぐいは、過去の若者の経済的な呑気さを反映している。
なぜ、当時の若者は経済的に呑気でいられたのか?
当時はまだ、未来の年収や生涯年収について心配しなくて構わなかったからだろう。
かつて、サラリーマンの生涯年収は三億円と言われていた。正社員はありがたいステータスでもなんでもなかったし、年功序列的な賃金体系を信じることもできた。年金制度を深刻に心配している人はまだ少なかった。手に入ったお金をかたっぱしから個人消費に回しても将来どうにかなる――そんな楽観的な空気があった。
今は違う。サラリーマンの生涯年収は下がり始めている*1。正社員はそれなりにありがたいステータスとなり、その正社員でさえ、いつリストラされるかわからない。年金制度に期待している若者なんて、今は殆どいないだろう。生きていくにはカネがかかるのに、そのカネが増える見込みが立たない以上、財布の紐がキツくなるのは仕方ない。収入に余裕の無い立場の若者の場合は特にそうだ。恋愛どころじゃない。
誰もが「将来、自分の収入は安定していて増え続けるだろう」と思い込んでいた時代と、誰もが「将来、自分の収入は不安定で増える見込みが無い」と思っている時代では、同じ月収の若者でも事情は全く違うのだ。
こうした「見込み収入の違い」もまた、恋愛や結婚の足を引っ張っていることは想像に難くないし、逆に、途上国の若者が貧しくても恋愛や結婚に尻込みせずに済むのは見込み収入に拡大の余地があるからかもしれない。発展途上な国々の若者は、たとえ今は貧しくても将来に希望を持つことができるが、日本の若者には、そのような希望など望むべくもない。
きっと、沢山のものが変わらなければならない
こんな具合に、今日の男女の巡り合わせの問題は、現在と未来の経済事情と、経済事情に左右されやすい(たぶんに時代遅れな)求愛作法によって大きな制限を受けている。求愛作法も、社会の仕組みも、すぐには変化しないだろうし、好きなように変えられるわけでもないだろう。それでも、既に時代の尺に合わなくなっているものはなるべく変えたほうが良いと思うし、また変えていくべきなんだろう。
もう、20世紀じゃないんだから。
*1:参照先としては、ちょっと古いけれども例えば http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/rxr_detail/?id=20101216-00004668-r25 など
(2014年10月15日「シロクマの屑籠」より転載)