21世紀の「琉球処分」

全国紙では、沖縄問題について、沖縄の内在的論理を噛み合った議論が展開するための場(フォーラム)がない。ハフィントン・ポストには、そのような場を形成する可能性があると思う。
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現在、全国紙では、沖縄問題について、沖縄の内在的論理を噛み合った議論が展開するための場(フォーラム)がない。ハフィントン・ポストには、そのような場を形成する可能性があると思う。「沖縄のメディアが左傾化している」、「沖縄の民意は辺野古の受け入れに傾いている」など、一部の全国紙が展開している偏見、あるいは希望的観測に基づいて、情勢を分析すると、判断を間違える。読者には、とりあえず価値判断や結論を括弧の中に入れて、考察の対象である沖縄並びに沖縄人の内在的論理を把握することを望む。

ハフィントン・ポストから、沖縄について、日本人と沖縄人が虚心坦懐に情報と意見を交換する場が出来れば、危機を回避することができる。このまま中央政府・自民党の無定見な政策を継続すると、流血の事態に至る。そして、日本の国家統合が崩れる。沖縄で現在進行している政治過程が、国際基準で見た場合に民族問題であるという自覚を持つことが焦眉の課題であると私は考えている。

さて、自民党の石破茂幹事長は、11月29日付ブログで「沖縄における厳しい世論にどう真剣かつ誠実に向き合うのか。私は現地の新聞に『琉球処分の執行官』とまで書かれており、それはそれであらゆる非難を浴びる覚悟でやっているので構わない」と述べた。石破氏は沖縄との関係で自らが21世紀の「琉球処分官」の機能を果たしている現実を正確に認識しているようだ。自民党本部が、沖縄の基盤とする闘所属国会議員や県連に圧力をかけ、米海兵隊普天間飛行場の辺野古(沖縄県名護市)移設を強要している現実が沖縄人には、1879年の琉球処分の歴史の記憶と結びつく。

「ジャッパンナレッジ」版『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「琉球処分」の項を引用しておく。執筆者の高良倉吉氏(琉球大学名誉教授)は、現在、沖縄県副知事をつとめる保守派の論客だ。

1879年(明治12)に明治政府の手で行われた沖縄の廃藩置県のことで、これにより琉球王国は崩壊し沖縄県が設置された。なお後述のように、1872年の琉球藩設置から80年の中国(清(しん)国)と明治政府の外交問題である分島問題までの一連の過程(いわゆる琉球帰属問題)をさして広義に使う場合もある。[高良倉吉]

背景

近世の琉球王国は三つの性格をもっていた。第一は、薩摩(さつま)藩を直接の管理者としつつ幕藩体制の一環に明瞭(めいりょう)に編成されていたことである。第二は、諸藩と異なり中国(清国)との間に伝統的な外交・貿易関係をもっており、国王は皇帝の冊封(さくほう)を受け、定期的に皇帝に進貢(朝貢)を行っていたことである。そして第三は、独自の王国体制をもって領内を直接的に経営していたことである。こうした状況を「日支両属」と指摘する研究者が多いが、最近では「幕藩体制のなかの異国」と規定する見解が有力になりつつある。というのは、日本・中国両国に属したとはいっても、日本(幕藩体制)への属し方はより実質的であり、中国への属し方は形式的側面が強かったと評価されているからである。

 

明治維新により近代国家がスタートすると、当然のことながら琉球の位置づけが問題となった。領土確定問題としても琉球の処遇は一大案件であったが、明治政府は明確な方針をもたぬまま1871年の廃藩置県に際しては琉球をひとまず鹿児島県の管轄とした。同年11月、琉球内の宮古(みやこ)島民69人が台湾に漂着し、うち54人が現地住民に殺害されるという事件が発生した(宮古島民遭難事件)。この事件をきっかけに政府は琉球問題の決着に本腰を入れ、翌72年に琉球使節を来朝させ、琉球国王尚泰(しょうたい)を琉球藩王として華族(侯爵)に列し、琉球王国を琉球藩とする旨宣告した。そして琉球藩の管轄を外務省に移した。74年、政府は琉球藩民に対する加害への報復措置として台湾へ出兵、事変処理にあたって中国との間で取り交わした北京(ペキン)議定書のなかで被害者を「日本国属民」と認めさせ、賠償金を払わせることに成功した。これら一連の措置は、琉球が日本の領土であり、その人民が日本国民であることを内外に印象づけるためにとられたもので、琉球藩設置はきたるべき廃藩置県への布石として位置づけられていた。[高良倉吉]

経過

1875年5月、政府は松田道之(みちゆき)を琉球処分官に任じ琉球問題の決着に着手する。同年7月訪琉した松田は、琉球側に対し、〔1〕清国への進貢使派遣および清国から冊封を受けることの禁止、〔2〕清国年号をやめ明治年号を使用すること、〔3〕明治政府への謝恩使として藩王尚泰自ら上京すること、などの要求を突きつけた。これに対し琉球側がその受諾を拒んだため、松田はいったん帰京、79年1月にふたたび訪れて同趣旨の要求を繰り返した。しかし琉球もまた同様に拒否の態度を崩さなかったため、同年3月、三度琉球を訪れた松田は、今度は軍隊300余、警官160余を率いて武力を背景に要求を提示するとともに、琉球藩を廃し沖縄県を設置する旨3月11日付けで布達し、同31日限りで王宮首里(しゅり)城を明け渡すよう激しく迫った。その結果、尚泰が臣下とともに城を出たため、琉球王国は崩壊し廃藩置県が達成されることになった。

 

しかし、明治政府の強行的な処分に反対する空気は根強く、不服従運動をはじめ、清国へひそかに渡航して清国当局に嘆願する動き(脱清運動)が出るなど不穏な情勢となった。清国も琉球に対する宗主権を保持するとして外交的手段を用いて日本に厳重な抗議を行ったため、琉球問題は一気に日清両国の重大事件に発展することとなった。清国当局者の一部には武力発動も辞さないとする強硬派もいたが、李鴻章(りこうしょう)は来訪中のアメリカ前大統領グラントに琉球問題の調停を依頼した。1879年7月、清国から来日したグラントは明治政府に対して問題の平和的解決を勧告し、これを受けて政府は清国との間に外交的折衝を開始、翌80年10月、分島・増約案を提示した。その内容は大きく分けて二つの点からなっている。一つは琉球領内のうち宮古・八重山(やえやま)を清国に割譲すること、一つは、そのかわりに日清修好条規(1871年締結)にうたわれている日本の最恵国待遇規定をさらに有利に追加する、というものであった。日清両国はこの線に沿って琉球問題の妥結をみたが、清国がやがて内容を不利と判断して調印を拒んだため、この案は土壇場で実現されなかった(分島問題)。その後も日清間における琉球問題はくすぶり続け、また、沖縄県内においても一部に不穏な空気が流れ続けたが、最終的には日清戦争(1894~95)で日本が勝利することにより終止符が打たれた。[高良倉吉]

評価

前述したような背景・経過をもつ琉球処分とはいったいなんだったのか、第二次世界大戦前から多くの研究者がさまざまな評価を行っている。大づかみに整理すると、〔1〕日本における近代国家形成時の民族統一の一環として積極的に評価する見解、〔2〕民族統一の一環である点は疑いないが、統一の過程に現れた強権的・国家的側面を同時に重視すべきだとする見解、〔3〕民族統一というよりも侵略的な併合とみるべきではないかとする見解、に大別される。しかし〔1〕~〔3〕の見解内部でも論者によりニュアンスが異なるなど、評価はかならずしも一致していない。そのことは、民族統一であったはずの沖縄の廃藩置県の直後に、分島問題が惹起(じゃっき)した点に象徴されるように、もっぱら明治政府の都合により処分が推進され、琉球住民の意向を十分にくみ取ることなく、他律的な形で実施されたことが、評価をむずかしくさせているからである。琉球処分のこうした性格に絡んで、第二次世界大戦後、とくに1972年(昭和47)前後の沖縄返還問題をめぐる日本国政府の沖縄施策を批判する際に、「第二の琉球処分」という用語も登場したほどである。

 

琉球処分が琉球王国を崩壊させ、47番目の県を日本につくったのは紛れもない事実である。そしてまた、この事件以後、琉球住民が沖縄県民として日本社会の一員となったことも事実である。このことは、琉球処分が多くの問題を含みつつも歴史的には民族統一の一環としての意義を帯びたものだったことを教えてくれる。同時に、近代日本の民族統一過程は琉球処分にみるような問題をも包含しつつ展開したことを認知する必要があることも教えている。[高良倉吉]

琉球処分に関する高良氏の言説では、もはや沖縄人を説得できなくなっている。石破幹事長の沖縄に対する強権的手法によって、琉球処分については、「侵略的な併合とみるべきではないかとする見解」が沖縄の政治エリート、有識者の間で強まりつつある。

11月29日には、沖縄自民党の重鎮で、元県議会議長の仲里利信氏が離党を表明した。仲里氏の見解が、沖縄の土着的保守の主流を占めるので、詳しく紹介したい。

まず、沖縄を選挙基盤とする自民党国会議員4人が、米海兵隊普天間飛行場の沖縄県外移設という公約を撤回したことについてこう批判する。

沖縄の国会議員や県議は東京の票で当選したわけではない。当選したら実行すると公約したものを圧力を受けて変えるとは、本当の政治家の姿か。県民の代表だと思っているのか。

 

自民党県連が県外を掲げたのは主義主張ではなく県民の声に声を傾けたからだ。沖縄の保守は県民の立場に立ってきた。今回も軸足を県民に置くべきである。(12月2日『琉球新報』)

普天間飛行場の沖縄県外移設要求は、沖縄人にとってイデオロギー(主義主張)の問題ではなく、自らのアイデンティティーの問題なのである。沖縄人が沖縄人であり続けるというシンボルをめぐる問題なのだ。これはナショナリズムにおける典型的な主張だ。外部の圧力によって公約を変更した4人の国会議員が、沖縄の土着の保守勢力から見れば、中央政府の買弁に見えるのである。

かつて沖縄の保守は、辺野古移設を受け入れた。このこととの整合性について、仲里氏はこう述べる。

本当に辺野古に基地が造れると思っているのか。米国の専門家にも厳しい見方があるように、今の沖縄の政治状況から見て絶対にできないと思う。仮に辺野古に造るとして10年、12年かかる。その間普天間が残ることこそが固定化だ。そうならないという担保はない。

かつては使用期限を付け、いずれ県民の財産になる民間空港として使おうということで苦渋の判断で移設を容認していた。だが今回は全く違う。政府には新基地を自衛隊も一緒に使うという考えがある。そうなると永久化だ。

 

アメとムチで沖縄の気持ちはどうにでもできると印象付けた。沖縄は際限なく基地化していく。(同上)

その上で、仲里氏は、来年1月の名護市長選挙では、県外移設を断固主張する現職を支持すると宣言する。

名護市長選は現職の稲嶺進さんを応援する。一人でもマイクを持って乗り込もうと思っている。(同上)

自民党本部の沖縄に対する強圧的手法は、結果として名護市長選挙での辺野古容認派候補への支持を減らす結果を招いた。

さらに仲里氏は、日本の中央政府・政権党による沖縄差別を国連で訴えるべきと主張する。

(沖縄の)全首長・議長が反対したことを完全無視し、政府・自民党は国会議員、県連を変えさせた。沖縄に民主主義はない。こんなに差別されて黙る必要はない。国連人権委に訴え、沖縄が抑圧されていること、これが民主主義国家のやることかと世界にアピールすべきだ

国の圧力に抵抗する県民の気持ちは保革を抜きにして、さらにはっきりとした形で表れてくるだろう。(同上)

1868年の明治維新前に、琉球王国は、当時の帝国主義列強と国際条約を締結している。琉米修好条約(1854年)、琉仏修好条約(1855年)、琉蘭修好条約(1859年)だ。沖縄が、当時認められていた国際法の主体としての地位を回復しようとする動きもこれから本格化してくるであろう。もっともそれが沖縄独立国の創設に至るのか、日本国家の枠内での主権確立を志向するかについて、現時点で予測することはできない。いずれにせよ、沖縄の主権回復の動きは、今後、強まることはあっても、弱くなることはない。石破氏の「琉球処分官」としての立ち居振る舞いが、この流れを加速した。

自民党本部の沖縄に対する強圧的態度が、連立与党である公明党にも影響を与え始めた。『朝日新聞』の報道を引用しておく。

辺野古移設は「琉球処分」? 公明沖縄幹事長、政府批判

「また琉球処分?」。公明党の沖縄県本部幹事長の金城勉県議が、自身のフェイスブックで政府を批判している。米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に向けて県政界に圧力をかける姿を、1879年の明治政府による強権的な琉球王国の解体・併合になぞらえた。県政与党である公明の反発で、政権が求める仲井真弘多知事の「年内承認」は先が見えない状態だ。

金城氏は3日の書き込みで、「(首里城の明け渡しなどを求めた明治政府に)琉球国は、抵抗を試みたものの圧倒的力の前に陥落した」と言及。「今また政府は、実力行使に出た。仕上げは公明党県本部を陥落させることのようだ」とし、「多くの県民の思いは『これ以上、ウチナーンチュ(沖縄人)をバカにするんじゃねー!』だ」と書いた。金城氏は取材に「ちょっとはしたない言葉だったが、私の気持ちだ」。

公明県本部は県外移設を掲げており、5日の県議会代表質問では、埋め立て申請を「不承認とすべきだ」と知事にただす予定だ。(12月5日『朝日新聞デジタル』

12月4日の『沖縄タイムス』は、本件についてこう報じた。

「また、琉球処分?」公明県本・金城氏が批判

公明党県本の金城勉幹事長は3日、自身のフェイスブック(FB)で、自民党の石破茂幹事長が公明党の井上義久幹事長に、普天間飛行場の辺野古移設容認を県本に働きかけるよう要請したとの報道を受け「また、琉球処分?」と題した記事を掲載した。

金城氏は1879年、明治政府から琉球に派遣された松田道之処分官が警官、軍隊を引き連れて首里城の明け渡しを求めたエピソードを引用。「今また政府は実力行使に出た。県選出の国会議員、自民県連を力づくでねじ伏せた。仕上げは、公明党県本部を陥落させることのようだ」と不快感をあらわにした。

その上で「日本政府の沖縄の扱い方は、明治の琉球処分、第2次大戦では戦場に使い、戦後は米国に質入れし、今度は全国が拒否する新基地を強要する!」と辺野古移設に強い抵抗感を示した。

金城氏は沖縄タイムスの取材に「中央権力で県民の心までねじ曲げられてたまるか、という魂の叫びをFBに書いた」と説明した。(12月4日『沖縄タイムス』電子版

金城幹事長が、このような見解を表明している状況で、公明党沖縄県本部に辺野古容認を呑ませるのは容易でない。

このような沖縄の現状が、全国紙を通じてはまったく伝わってこない。同じ英語を用いても、連合王国(イギリス)とアイルランド共和国の情報空間がまったく異なるのと同様の状態が、日本と沖縄の間で生じているのである。これも民族問題の典型的な特徴だ。

(2013年12月5日)