松本紹圭です。
今週は毎日のように講演が入っており、日本列島を東へ西へと長距離移動しました。
いささか疲れましたが、こんな若僧の私の話を聞いてくださる方がいらっしゃることは
とてもありがたいことです。
いろいろな場所でお話しをさせていただくことは、私にとっても大切な人生修行です。
特に、ふだんお坊さんが立つことのないような現場に出て行くと、
お寺に関係のない一般の方に大勢取り囲まれて、予定調和的でないことがいろいろ起こります。
当然、仏教・お寺・僧侶に好意的な方もいればそうでない方もおられますので、鍛えられます。
たとえば先日のとある現場、一般向けの講演会でいろいろな方が登壇する中、
私はその会で唯一の僧侶として一コマを担当して、仏教のお話しをさせていただくことになりました。
初日の夜に立食形式の懇親会があったので私はいつものように作務衣姿で参加したのですが、
ワインを手にした六十代くらいの男性から、熱烈な質問攻めに遭いました。
最初は「日本の坊さんは堕落している。酒は飲むし、肉を食う。家族を持つ。
釈尊の頃の教えに戻るべきじゃないのか」あたりから始まり、
次第に「仏教とは何なんだ。一言で答えてみろ」と続き、
最後に「じゃぁ、悟りっていうのは、何を悟るんだ。言ってみろ」となりました。
私は私でジンジャーエール片手にあれやこれやとその方に理解していただけるように
工夫して答えようと頑張っていたのですが、話を聞いているうちに、
この方は仏教を理解したいのではなく坊さんを攻撃したいだけなんだなということが分かったので、
「恥ずかしながら私は悟ってないので分かりません」と答えると、してやったりという面持ちで、
満足げに再びワインコーナーへと消えて行かれました。
でも、この方の気持ち、分からなくもないんです。
実は私も同じような疑問を子どもの頃に持っていました。
「なぜ日本のお坊さんは、出家といいながら、肉食妻帯しているの?」
「もともとお釈迦様の教えはひとつであるはずなのに、なぜ宗派がたくさん分かれて、対立するの?」
「宗教は自分でその道を選ぶことが大切なはずなのに、家業みたいに世襲なのはどうして?」
この疑問をそのまま六十過ぎまで持ち続けるのは珍しいかもしれませんが、
宗教というものを単純化して捉える人が、このような素朴な疑問を持つのは必然です。
では、日本仏教に親しんだ今、このような疑問について私はどう考えているか。
冷静に考えて、2500年前の釈尊在世の時代に展開した仏教のあり方を
そのまま現代日本に持ってきて、その本来の意図そのままに発揮することは無理があると思います。
まず、インドと日本はまったくといっていいほど文化的風土が違います。
グルと呼ばれる無数の偉人・奇人を輩出するインドの培ってきた、出家と在家がそれぞれの
役割を果たしながら相互に関係し合う出家文化は、同質性の高い日本文化とは決して相容れない
異質さがあると思います。そのギャップが面白くて、私はインドに惹かれるのです。
そして、時代もずいぶん違います。日本仏教、と断り書きを入れるまでもなく、
釈尊時代の仏教を現代にそのまま持ってくることは時代環境的に無理です。
たとえ同じインドの地であっても、もし釈尊が現代社会に生まれることがあったとしたら、
2500年前の出家仏教と同じではない方法で、教団(サンガ)を作ると思います。
精神文化を大切にするインドですら、今やグローバル資本主義の重要なプレイヤーです。
すでに消費社会の波が田舎の山奥まで浸透し、社会全体の霊性は弱まっています。
そのように考えると、今私たちが問うべきなのは「仏教とは何か」ではありません。
「仏教は今、私たちにとって、あるいはこの私において、どのような意味を持ちうるのか」ということです。
宗派同士を比べて、どれが本物かと問うてみても、あまり建設的な議論は生まれないでしょう。
そのような視点に立ってみると、私の目には改めて日本仏教の良さが浮かび上がってきます。
インドから中国を経て日本に入ってきた仏教は、ここに至ってかなり世俗化してはいますが、
それは言い換えると、様々な慣習など世俗と切り離せないほど民衆との距離が近いとも言えます。
もちろん、仏教がそのポジションにあぐらをかくと、形骸化して単なる世俗に堕してしまいますが、
海を越えて渡ってきてから一千年を超える長い年月をかけて日本に土着化してきています。
文化だけでなく思想の面でも、日本人の少なからぬ部分を支えているのが日本仏教です。
とりわけ、一切衆生に開かれた易行道としての念仏道などは、本場インドですら揺らいでいる
出家文化を前提とせずとも、僧俗問わず誰もが仏になる道として現代的意義も大きいと思います。
インドで生まれたカレーも、日本に伝えられてからは大きくその姿を変え、
今や「日本のカレー」として国民食となっています。
日本でポピュラーなビーフカレーなど、牛を神聖な動物として大切にするインドでは
絶対にあり得ないメニューです。
それでも、日本に遊びにきたインド人に日本のカレールーで作ったカレー(野菜カレー)で
おもてなししてみると、美味しい美味しいといって、たくさん食べてくれます。
現代の日本仏教の課題は、仏教をカレーに例えるならば、
釈尊が作ったカレーのレシピから離れてしまったことではないのでしょう。
各派宗祖がインド仏教に習いながら日本固有のスパイスで完成させたオリジナルのカレー、
最近の料理人の腕がいまいちなため、レシピに忠実なつもりでも味が落ちてしまったり、
衆生が美味しいと感じる味覚の変化にまったくついていっていないということかもしれません。
どんな伝統のレシピも、実際作ったものが美味しくなければ食べてもらえませんね。
世界最高のカレー、今こそみんなで作りたいですね!
(2013年9月8日「Everything But Nirvana 」より転載)