「ちゃんとした子どもを作って国力増強!」と連呼する婚外子差別のメンタリティ

最高裁判断で、結婚していない男女間に生まれた「婚外子」の遺産相続を「嫡出子(婚内子)」の2分の1とする現行の民法規定は違憲だとする判断が出たのは9月4日のこと。その論旨は、「子にとって自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず、子を個人として尊重し、その権利を保障するべきである」だった。
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■子どもの初期設定に「正しい」と「正しくない」を用意してきた婚外子相続規定

最高裁判断で、結婚していない男女間に生まれた「婚外子」の遺産相続を「嫡出子(婚内子)」の2分の1とする現行の民法規定は違憲だとする判断が出たのは9月4日のこと。その論旨は、「子にとって自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず、子を個人として尊重し、その権利を保障するべきである」(週刊金曜日・9月13日)だった。子どもは産まれる親の選択も修正も出来ない。誰から産まれるか、これほど変えようのない初期設定は無い。そこに差別を設けてきた。

まず「婚外子」という言葉をほどいて説明しておく必要がある。なぜならこの婚外子違憲判決について暴力的な議論を吹っかける自民党保守議員はたちまち「不倫を助長する」「お妾さんの子どもが同様の権利でいいのか」と憤り、世論を強制的に同調させようと試みるからだ。婚外子には、婚姻関係を持つ男性が妻以外の女性と子どもを作った場合、そして子どもは出来たが婚姻関係を結ばずに単身(シングルマザー)で育てる場合、そして近年増加傾向にある事実婚のケース。どこかの「裸足に革靴の俳優」が言った「不倫は文化」に賛同する気はないが、産まれてくる子ども、その親の在り方に、旧来よりも多くのケースが生じてきていることは事実だ。その時代にあって、子どもの初期設定として「正しい」と「正しくない」を堂々と規定しているのは時代遅れというか痛々しい。

■「金だけ貰いやがる」人達と決め込んで対応している現行

 むろん、その痛みを背負うのは個々人である。その個人とは、親ではなく、子である。「不倫の子が、介護も手伝わず医療費も出さずに親が亡くなったら金だけ貰いたがって」というお決まりの突っ込みは、「不倫の子」の箇所を「長男」でも「次女」としてもひとまず代替可能であることにも気付くべきだし、そもそも上記の裁判を争った抗告人は「病床の祖母の食事、排泄、病院への送迎などの介護全般をしたのも、父の入院時の世話をしたのもこちらです」(同)と述べている。ここに更に「嘘をつけ」との声が被さっているようだが、こうしていくらでも長引いてしまう応酬は、イコールで家族間の関係性など常にケース・バイ・ケースであることの証左にもなっている。「金だけ貰いやがる誰か」もいるかもしれない、「それなりに付き合い、助け合うときは助け合う誰か」もいるかもしれない、「親の介護に熱心な誰か」もいるかもしれない。この時に、後ろ2つの選択肢を捨てて、前者のみと決め込んで対応している現行は、どう考えても非人道的だ。

■違憲判決に「ものすごく悔しい」と発言した高市早苗政調会長

この判決を受けて民法改正へ動く中、ストップをかけようとしているのが、自民党の法務部会だ。「婚外子への格差をなくせば、法律で認める結婚制度が軽視されかねない、と指摘。伝統的な『夫婦』や『家族』が崩壊する、との懸念を示した」という(朝日新聞・10月24日)。信じ難いが、国民の個々人に生じている格差を、国をあげてキープすべきだ、と主張している。国連の「子どもの権利委員会」等から国際規約違反と勧告を受けてきたこの規定、その差別をキープして、ガードすべきは伝統なのだ。高市早苗政調会長はこの違憲判決に「ものすごく悔しい」と発言している。こういう井戸端会議的な感情の放りっぱなしが、政治の中枢で堂々と起きていることが「ものすごく悔しい」。

■「ちゃんとした子どもを作ることで、ちゃんとした日本人が出来る」

3日朝に放送されたフジテレビ「報道2001」でこの婚外子判決が特集された。判決に異を唱えるのは自民党の西田昌司副幹事長、そして作家の竹田恒泰氏。なお、違憲判決に賛同する側として経済ジャーナリスト・荻原博子氏、婚活ジャーナリスト・白河桃子氏が登場したが、それぞれの得意分野である経済や少子化・晩婚化に、やや強引に引きつけて述べるだけで有用な指摘に乏しかった。

西田氏の言い分に閉口した(閉口しているだけでは朝ご飯が喉を通らないので、録画してからじっくり見直してみた。なので下記に続く文字起こしは正確だ)。なぜ婚外子と婚内子に差別規定を設ける必要があるのかについて、西田氏はこう言った。「ちゃんとした家庭で、ちゃんとした子どもを作ることによって、ちゃんとした日本人が出来てですね、国力も増えるんですよ」。これが彼らの真意だ。おぞましい思考だ。「ちゃんとした」の連呼がうまいこと言おうとしたがゆえの口滑りだと無理矢理寛容になってみても、やはりそれが国力という言葉に繋がっていけば、どうしたって寛容の度を超えてしまう。西田氏は、日本の婚外子は2.2%で国際的にも低く、これは誇るべきことだと繰り返す。イレギュラーが目立たないことを誇るのだ。

■伝統的な家族から生まれなければ人間ではない、と彼は言った

竹田恒泰氏も畳み掛ける。「平等っていうのは、あくまでも原則なんですね。原則があるってことは例外があるんですよね。じゃあどういう時に例外を作っていいかというと、合理的な理由に基づいて区別もしくは差別というかはともかくにして、合理的な理由があれば原則はなくしていい」。「ちゃんとした家庭」の思考に乗っかって明治天皇の玄孫にあたる竹田氏の系譜を見れば、「福島から250キロ離れているから東京は安全」と言い批判を浴びた、彼の父で五輪招致委員会の竹田恒和理事長のセンスと同じものを感じる。西田氏はこうも続ける。書き起こすだけで気が滅入る。「人間っていうのはただ単にオスとメスでできているんじゃないんですよ。家族がいるわけですよ。家族というのはね、普通はね、親がいて、上を見て、まわりの兄弟もいて、そういう形でみんな育ってきてね、それを何でもいいから産んでくれれば、ただひとりの子として育てていきますというのは、これはかつて共産主義社会の中でそういうことが言われたことがあったけども、それは家族否定で人間否定なんですよ」。伝統的な家族から生まれなければ人間ではない。大胆な要約をしてみたが、この要約が強引な要約ではないことは、彼の発言を追えば分かってもらえるだろう。

■特定の個人が世論の砲撃を背負うことで成り立つ、自民党の施策

政治家の失言をいちいち拾い上げてバッシングに終始するメディアの手癖は好ましいものではないが、明らかにその失言に真意が染み込んでいる場合はキッチリと問い質されなければならない。西田氏は、婚外子を認めることは人間否定である、と言ったのだ(こう書くと「前後の文脈をよく読むと真意じゃない」なんて言われるので前もって長めに引用しております)。冒頭に書いたように、婚外子の状態は多岐にわたる。そのもっとも悪辣なケース(不倫の子が、親が死んだ途端に突然しゃしゃり出てきて財産だけ貰う)を持ち出して、今回の判決自体を煙たがらせる空気を作るのは、生活保護バッシングや産休育休バッシングと構造が極めて似ている。竹田氏の言う「原則外し」はこうして巧妙に議論の入口に用意される。その門をくぐったときにはその入口がイレギュラーだったことなど忘れる。こういう世論形成の手法が自民党の施策には相次いでいる。その手法は、常に、ある特定の個人が世論の砲撃を背負うことで成り立つ。引き受けるのは、西田氏の口を真似れば「ちゃんとしていない人たち」だ。政治は弱者を救済するためにあるのではないか、などという正論を投じられるテーブルには、もはやいらっしゃらない。反論する荻原氏や白河氏の声を遮って「(みなさんの意見は)お妾さんを作りなさいと言っているようにしか思えない」と半笑いの西田氏に、その声が届くはずはない。

■人間そのものに○か×かをつけ、国全体がブラック企業化していく

西田氏はインターネットTV「チャンネル桜」でのメッセージで、この婚外子裁判の話題の延長で、家族の多様化は占領軍が作った現憲法が招いたのだ、教育勅語の価値観を否定している現憲法が悪いのだ、とし、憲法改正の持論へと持ち込んだ。「ちゃんとした家庭」だけで「国力増強」を目指す人に向かって、足を止めてもらう論理的な言葉をやはり用意できそうにない。なので、感情的に攻めてみる。なぜ、ただでさえ生きにくい人たちの背中を国力増強のために蹴り飛ばせるのか。なぜ、ひとりひとりの人間に対して優しくなれないのか。私の家は、親が離婚もせず、兄弟もいる、西田氏の規定する「ちゃんとした」家庭だ。「ちゃんとした」親の元を出て、「ちゃんとした」婚姻もしている。そんな「ちゃんとした」私の周りには事実婚を選んだ親しい知人がいる。先日ある取材で出会った男性は、若くしてお母さんが愛人の元へ家出してしまった経験を持っていた。みんな違う、んで、だからなんなんだよ、と当たり前に思う。こういう乱暴な感情をぶちまけるのは、もはや法律の良し悪しではなく、人間査定のレベルで平然と議論を執り行っているからである。一昔前に流行った芸人のようだが、そんなの関係ねぇ、はずだ。奇しくもこのサイトで書かせてもらったこちらの議論でも「人物評価」という言葉が盛んに使われていた。「使える人間」「使えない人間」、「ちゃんとした人間」「ちゃんとしていない人間」、こうして国全体がブラック企業化していく。人間そのものに、短絡的に○か×かをつける。ならばと、自分が生き残るために、誰かの淘汰を歓迎する。現政権が躍起になって残そうとする婚外子差別は、どうしても守りたい「伝統」とやらの陳腐さと横暴さを教えてくれる。