俺のオリンピックがこんなに揉めるわけがない

では、私たちはどう考えればいいだろう。五輪招致に賛成でも反対でもない私たちは、オリンピック開催決定を喜ぶべきなのだろうか。それとも哀しむべきなのだろうか。
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五輪招致の成功に、世間は祝賀ムードに包まれている。一方、ネットの世界では微妙な空気が漂っている。オリンピックの招致に反対しつづけていた人たちの生の声が ── まあ、決まったことは仕方ないよね。お祭りは悪いことじゃないし......みたいな諦念のつぶやきが ── 漏れ聞こえてくる。

五輪招致を喜ぶべきかどうかの議論は、小さな論点に終始しがちだ。五輪による経済効果はあるのか、無いのか。東京の治安が良くなるのか、悪くなるのか。自然環境への負荷が無視できないレベルなのか、そうでもないのか。オリンピックの周辺的なものごとに関する議論ばかりで、そもそもオリンピックはどういうものか、どうあるべきか......といった、大局的な議論をあまり見かけない。

五輪招致に諸手をあげて喜ぶ人たちは言う:お祭りは悪いことじゃない。経済効果を見込めるし、どうして喜ばずにいられようか。

五輪招致に眉をひそめる人たちは言う:そもそもオリンピックは平和の祭典だ。近年の五輪は商業主義的に堕落しており、本来の精神を忘れている。ナショナリズムを慰めるだけのイベントになっている。

では、私たちはどう考えればいいだろう。

五輪招致に賛成でも反対でもない私たちは、オリンピック開催決定を喜ぶべきなのだろうか。それとも哀しむべきなのだろうか。

      ◆

まず、「お祭りごとはいいことだ」という主張は成り立たない。

趣旨や内容を抜きにして、お祭りの良し悪しは判断できないからだ。

たとえば古代の中南米のお祭りでは、生贄が命を落とした瞬間に、参加者は熱狂して喜んだという。生贄が人権侵害と見なされる現代社会において、こういう内容のお祭りは認められない。あるいはドラッグパーティーのことを考えてほしい。誰かの家に集まって違法薬物を楽しむのがドラッグパーティーの趣旨だが、そんな趣旨のお祭りは社会的に認められない。お祭りは、ただ「お祭りだ」という理由だけでは肯定できない。

また、お祭りの良し悪しは、あなたの価値観にも左右される。

たとえばコミックマーケットを考えてみよう。オタクにとって年に2度のコミケは、無くてはならない聖祭である。一方で、二次元ポルノを苦々しく思っている人からすれば、非倫理的でとても承服できないお祭りであろう。価値観が変われば、お祭りを喜べるかどうかも変わる。

お祭りを喜べるかどうかは、お祭りの内容と趣旨、そしてあなたの価値観に左右される。それでは、オリンピックはどうだろう。オリンピックの内容や趣旨はどのようなものだろうか。

オリンピックの内容は、言うまでもなくスポーツの競技会だ。しかし他の競技会との違いは、大会の趣旨にある。スポーツの国際大会は数えきれないほどあるが、オリンピックは「平和の祭典」という趣旨が強い。

たとえば前回の東京オリンピックが開催されたのは1964年10月、東西冷戦のまっただ中だ。直前の1962年にはキューバ危機があり、人類は滅亡の一歩手前まで行った。比喩でも大袈裟な表現でもなく、人類はあと一歩で絶滅するところだった。いつ核戦争が起きてもおかしくないという恐怖が、当時の人々の心を満たしていた。オリンピック開催2ヶ月前の1964年8月にはトンキン湾事件が起き、ベトナム戦争が激化。当時の人々は「平和」とはほど遠い世界に生きていた。

ところが東京オリンピックでは、アメリカとソ連の選手がフィールド上で技を競い合った。東ドイツと西ドイツは、「東西統一ドイツ」として出場した。世界が資本主義と共産主義に二分され、地球のあらゆる場所で代理戦争が行われていた時代に、である。東京オリンピックが当時の人々に与えた「世界平和」のメッセージは、強烈で印象的なものだったに違いない。

今回、東京がオリンピックの招致に成功したのも、おそらく「平和」という視点があったからだ。プレゼンの上手さだけで決まるほど、オリンピックの開催地選定は軽いものではない(と、信じたい)。

たとえばマドリードは経済崩壊があまりにも深刻で、安定した大会運営は不可能だと判断されたらしい。またイスタンブールについても、国内の政情不安、そして隣国シリアが事実上の内戦状態にあること等、「平和の祭典」を行うには不適切だと判断されたのだろう。

では、東京は消去法で選ばれたのだろうか?

そうとも限らないと、私は思う。

IOC総会の直前に、英国科学誌Natureがフクシマの汚染水流出について記事を出していた。かなりキツい文面で日本政府と東京電力を批判しており、これで五輪招致が難しくなったと、多くの人が口にしていた。放射能汚染は、スペインの深刻な不況やトルコの政情不安に勝るとも劣らないマイナスポイントだ。であれば、日本にはそのマイナスをプラスに転じるだけの「理由」があったと考えるべきだ。

とある飲み会の席で、とある大学教員が口にしていたセリフを小耳に挟んで(なるほど)と思ったのだが、「日本の歴史的な実績と憲法のおかげではないか」と、その先生はおっしゃっていた。

そもそも日本はヘンな国である。

日本の戦後憲法は自由主義のある種の理想を詰め込んでおり、戦力の放棄はその最たるものだ。「戦力を持たなければ戦争もしない」って、それ理想主義的すぎるでしょう!と当時の人はみんな思ったはずだ。現在でも同じことを思う人は少なくない。しかし、ふたを開けてみれば日本はほんとうに戦争をしなかった。すでに70年近く、日本は戦争の前線に参加していない。

戦争放棄をうたった憲法を持つ国は、日本だけではない。たとえばフィリピンの憲法は、日本のそれによく似ているという。しかし、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と、徹底した書き方をしているのは日本国憲法だけだ。めちゃくちゃ特殊で常識はずれな憲法なのである。日本人が思っている以上に、日本国憲法の第9条は世界的に有名だ。少なくとも海外のインテリ層は、「日本」と聞いたときに、スシ、ニンジャ、フジヤマの次ぐらいに「Article 9」を思い浮かべるらしい。

なお、「自衛隊という戦力を持っているじゃないか!」という指摘があるかもしれない。しかし自衛隊は9条の禁じる戦力には該当せず、したがって憲法には違反しない。これは日本政府の公式見解だ。自衛隊が警察予備隊と呼ばれていたころから、政府は「合憲」という判断を続けてきた。

(余談:したがって、「自衛隊は違憲だから改憲して現状にあわせよう」という主張はいささか苦しい。公式には、自衛隊は合憲とされているからだ。改憲を訴えるのなら、ほかの論拠が必要だ)

スペイン、トルコ、日本。この3カ国を比べたときに、もっとも「平和の祭典」に適した国はどこだろう。2020年の時点で「世界平和」のメッセージを発するのにふさわしい国はどこだろう。そういう視点から見れば、答えは明らかだ。ラディカルな平和憲法を持ち、70年間、戦争の前線に参加していない。オリンピックの趣旨を鑑みれば、日本は選ばれるべくして選ばれたと言える。

続いて、「現在のオリンピックが商業主義的に堕落している」という意見について考えてみたい。オリンピックの趣旨は「平和の祭典」だ、尊いものだ。それをカネ儲けの手段にするなどけしからんと、ご立腹の人もいるようだ。

この意見の背景には、「カネ儲けは悪だ」という清貧の思想がある。

商売とは、俗で、穢れたものだ......と見なす考え方だ。したがって、世界平和という「聖なるもの」にはふさわしくない。崇高な本来の目的が、カネ儲けによって穢されてしまう。そう考える人もいるようだ。

しかし、世界平和を達成する唯一の方法は、カネ儲けだ。

戦争を抑止するのは経済的な相互依存であって、強大な戦力でも核兵器でもない。これこそが、私たち人類が20世紀に学んだ教訓ではないか。世界恐慌の直後、世界の国々は保護主義に走ってブロック経済を構築した。経済的な分断が壊滅的な戦乱を引き起こした。平和を維持するには、カネを流すしかない。太く、力強いカネの流れを。たとえ言葉や文化が違っても、カネの流れがあれば私たちは1つになれる。損得勘定はこの天と地で二番目に強い絆だ。

それでも「カネ儲けはなんだかキタナイ」と感じる人はいるだろう。私はその感覚を否定しない。個人の価値観だから、否定しようがない。カネ儲けをキタナイと感じる人がいる以上、商業主義による世界平和の実現は、最善の方法ではないかもしれない。しかし現時点では、それに代わる手段がない。カネ儲けは平和を実現する最善な方法だとは限らない。ただし、現時点で最適な方法なのは間違いない。

いずれにせよ「平和の祭典」であるオリンピックが商業主義に染まり、興行の色合いを強めるのは、象徴的なできごとだと私は思う。世界平和を達成する唯一の実現可能な方法は、結局のところ経済的な相互依存を強める ── 国境を超えたカネ儲けをする ── しかない。オリンピックがカネ儲けの手段になるのは、このことを象徴している。

最後に、オリンピックがナショナリズムを慰めるイベントになってしまう点について。これは確かに現在のオリンピックの汚点といっていいだろう。

オリンピックが「平和の祭典」であることを考えれば、自国の選手だけを応援するのはおかしい。国や地域を超えて、アスリートたちの妙技に嘆息し、感動するのがオリンピックの趣旨にかなった楽しみ方だ。人類の限界に挑戦するアスリートたちの姿には、誰だって心を揺さぶられる。

ところがオリンピックが始まると、テレビでは連日連夜、日本のメダル数だけが読み上げられる。にわかファンになった視聴者が、昨日まで名前も知らなかったスポーツについて批評する。メダルを逃した選手はまるで非国民のような扱いを受ける。

ナショナリズムは世界平和にとって有害である。なぜなら容易に排外主義へと結びつき、世界に分断と混乱をもたらすからだ。

たとえば生まれ育った地域に対する郷土愛や、暮らしている街への愛着は、人間がごく当たり前に持つ感情だ。ヒトは生まれながらに、地域や地縁への帰属意識に幸福を見出すようにできている。しかし、帰属先が「国家」となると、なんというか風呂敷を広げすぎだと思うのだ。

ナショナリズムは18世紀のフランスで生まれたと言われている。市民革命によって専制君主が打倒され、国民1人ひとりが国家に対して主権を持つようになった。国民国家の誕生である。国民一人ひとりが「自分はフランス人だ」と意識しなければ、国民国家は成立しない。こうして国家への帰属意識、すなわちナショナリズムが誕生した。人類の20万年の歴史からすれば、ナショナリズムが生まれたのはつい最近のできごとだ。

日本にナショナリズムが根付いたのは、明治維新以降だ。現在では「日本人は単一民族だ」という発想に疑問を挟む人は少ない。しかし江戸時代までは、そうではなかった。日本は単一民族の国家と呼ぶには苦しいほど、広大な国土と多様な地域文化を持っていた。

日本は、大きな国だ。

多くの日本人は、日本のことを「小さな島国」だと思っている。これは司馬遼太郎が悪い。司馬遼太郎は『坂の上の雲』の冒頭で、日本を指して「まことに小さな国」と書いた。この本がたくさんの人に読まれ、とくに企業経営者や政治家など、社会的影響力の強い人たちの愛読書になった。結果、「小さな島国」というイメージが日本人の心に染み付いてしまった。......と、私は半分冗談、半分本気で思っている。

日本をヨーロッパの地図に重ねると、その大きさに驚かされる。

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※出典:国土技術研究センター

日本はヨーロッパの数カ国をまたぐほど、広大な国土を持っている。

しかも国土は急峻な山や海峡によって分断されており、文化的な多様性があっただろうことが想像できる。明治維新までは、言葉も通貨も統一されておらず、人々の移動も国境で分断され、制限されていた。

欧米の列強に追いつくことを目指した明治政府は、日本を単一民族の国民国家に仕立て上げることにした。明治の最初期から教育の改革に着手しているのは興味深い。明治4年には文部省を設置し、明治5年の学制によって中央集権的な教育制度を整えた。その目的は、子供たちに「自分は日本国民だ」という帰属意識を植え付けることだった。このような「日本国民」の育成は、戦前・戦後を通じて行われ、現在でも続いている。

たとえば大阪人に「あなたの日本語は間違っている」と言ったら、「なんやねん」と蹴っ飛ばされるのがオチだ。しかし、戦前・戦後を通じて、日本はそういう教育を行ってきた。標準語を「正しい日本語」として教えこみ、地域的な差異を薄め続けてきた。こうして「日本民族」が創造された。最近100年間ぐらいのできごとだ。

繰り返しになるが、生まれ育った地域に対する郷土愛や、暮らしている街への愛着は、ヒトが生まれながらに持っているごく自然な感情だと思われる。一方でナショナリズムは、ここ数百年ぐらいの歴史しかない、人為的な感情だと考えられる。

ナショナリズムが無害であれば、人為的だろうと自然発生的であろうと問題ない。しかし現実には、ナショナリズムはかんたんに排外主義へと姿を変えて、世界を分断し、混乱させる。オリンピックの目的が「世界平和」である以上、ナショナリズムをくすぐってしまうのは現在のオリンピックの欠点と言えるだろう。

      ◆

オリンピックは「平和の祭典」だ。日本は、その開催地にふさわしい国として選ばれた。過去70年近く平和を維持してきた実績のたまものだろう。1964年とは世界情勢は違うが、「平和」のメッセージをきちんと伝える大会にしてほしい。

また、現時点で世界平和を実現できる唯一の方法がカネ儲けである以上、オリンピックにスポーツ興行としての側面が強くなるのは当然だと思う。

ただし、ナショナリズムを慰める道具として消費されてしまうのは、オリンピックの趣旨に一致していないと思われる。自国民のメダル獲得数に一喜一憂するのではなく、人類の限界に挑戦するアスリートたちの姿に胸をときめかせたい。

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(※この記事は2013年9月12日の「デマこいてんじゃねえ!」より転載しました)