前回の投稿では、福井県が眼鏡の一大産地であることに触れました。なかでも鯖江市は、労働人口の6人に1人が眼鏡産業に携わっている眼鏡の街です。福井県に眼鏡の産業が生まれて今年で108年。もともとフレーム製造の素地がなかったこの地がなぜ100年以上も続く産地となりえたのか。そして国産フレーム製造のシェア率約93%という一大産地となりえたのかは、増永五左エ門という人物抜きに語ることはできません。
増永五左エ門は、明治4年に福井県の旧足羽郡麻生津村生野(現・福井市)に生まれました。今でこそ降雪量は減少しているとはいえ、福井県は国内有数の豪雪地。28歳で村会議員となった増永五左エ門は、冬眠状態を余儀なくされる冬場の農閑期に何かできることはないかと考えていました。そんなおり、大阪では奉公へ出ていた実弟の増永幸八と、大阪で眼鏡ケース製造を営んでいた同郷同級生の増永伍作が、大阪の眼鏡卸商「明昌堂」の主人に眼鏡作りを勧められていました。そして2人が帰省した際に「これからは眼鏡が欠かせないものになる」という話を五左エ門に強く説いたことから、眼鏡との縁が結ばれたのです。
日露戦争により軍事用の望遠鏡や防塵眼鏡の需要が次第に増え、さらには新聞や雑誌が相次いで発刊されていた時代でした。印刷文化の広がりとともに、これから眼鏡の需要は伸びるだろうと五左エ門は判断し、自身の地元である生野地区、そして母の生地であった河和田から人を集め、工場を設立。こうして明治38年6月1日、福井における眼鏡づくりがスタートしたのでした。
印刷文化の発展を予測し、眼鏡の需要を見込んだ五左エ門。パソコンやスマホなどで文字を読むことが増えたことによりPC用レンズがヒットしたことからも、眼鏡は活字文化と切り離せない存在であることを改めて感じさせられます。
さて、話を戻しましょう。五左エ門の工場では、親方となる職人がおのおので「帳場」と呼ばれるグループを作っていました。帳場ごとに技術やコストを競い合いながら商品を作ることで腕を磨き、売れる製品が作れるようになり一人前として認められると分工場を作って独立していくという形で、現在のような産地が形成されていったのです。ちなみに、眼鏡作りがスタートしたのは現・福井市の生野でしたが、河和田出身者の職人が地元で独立したり、第二次世界大戦後、鯖江市の神明、立待両地区にまたがっていた旧鯖江三十六連隊の跡地が眼鏡工場に転用されたことで、鯖江市に工場が集中する形となりました。大正時代まではフレーム作りと部品作りを一貫して手作りする業者も多かったようですが、戦後にフレーム製造業者が急増するにつれ、部品を専門に作る業者が現れ、現在の産地の特徴である分業体制が確立したといいます。
駆け足で産地のあゆみをご説明しましたが、ここまでの話は資料を当たればわかる話です。では、現在産地の状況はどうなっているのでしょう。先日、鯖江の工場や職人さんの工房を訪ね、話を聞いてきました。
結論からいうと、「産地は今、悩みを抱えている」。そんな印象を受けました。鯖江市の眼鏡出荷額は、平成4年度の1144億円をピークに、平成20年度には761億円にダウン。福井では世界のフレームの約2割を生産しているというデータもありましたが、いまや中国や韓国などアジアでの生産量が増えてきていることから、そうも言えなくなっているそうです。
とはいえ、仕事の丁寧さや仕上げの美しさにおいては、まだまだ日本が随一だと言えるでしょう。そのような状況のなか、今回の取材では「日本の眼鏡は、『工芸品』として生き残るのか、『工業品』として生き残るかの選択を迫られている」という声が複数の人から聞かれたのです。
なるほどな、と思いました。職人の手により1本ずつ丁寧に仕上げられる眼鏡。これは日本の得意とするところですが、手間ひまを掛けるほどに、眼鏡は工業品の域を超えた工芸品となってしまい生産量はさらに減少、産地の規模は縮小してしまいかねません。一方産地として現在の規模を維持するためには、生産力やコストを見直す必要が出てくる。これは決してどちらかにシフトするべき、ということではなく、現在そうしたジレンマを抱えているという話なのでしょう。
先ほども述べたように福井は分業制が特徴ですから、生産数が少なくなれば部品メーカーや加工工場の受注が減り、仮に廃業に追い込まれてしまえば国内で部品や加工がまかなえなくなります。そうなると、純粋に「メイド・イン・ジャパン」と謳える眼鏡がなくなってしまうかもしれない......。それは非常に寂しいことではないでしょうか。
しかしそうした現状のなか、福井では業種を超えた新しい動きも出てきていました。これからも産地の取材を続け、折を見てご報告していきたいと思います。
※参考資料:「めがねと福井 産地100年のあゆみ」(福井県眼鏡協会)