ネットで「承認欲求」が使われるようになっていった歴史

この記事では、インターネットやメディア上で承認欲求という言葉が使われるようになっていった経緯について、個人的にまとめてみる。現在、承認欲求という言葉はネットスラングのように用いられている。と同時に、著明な学者さんが「承認」という言葉を使ったり、承認欲求をメインテーマにした本が売られたりもしている。だが、こうした風景が昔からあったわけではない。
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この記事では、インターネットやメディア上で承認欲求という言葉が使われるようになっていった経緯について、個人的にまとめてみる。

現在、承認欲求という言葉はネットスラングのように用いられている。と同時に、著明な学者さんが「承認」という言葉を使ったり、承認欲求をメインテーマにした本が売られたりもしている。だが、こうした風景が昔からあったわけではない。

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承認欲求という言葉がネットで流通するようになった歴史は意外と短い。2006年頃までは、ほとんど使われていなかった、と言って差し支え無いだろう。実際、Googleトレンドで「承認欲求」のGoogle検索数を確かめてみると、2008年夏頃に小さなピークを迎えた後、いったん殆ど検索されなくなり、2010年5月頃から再び検索件数が増えはじめ、その後、急激に増加している。

こうした動向を踏まえて、インターネットやメディア上で「承認欲求」が語られるようになっていった歴史を【第一期(2006年まで)】【第二期(2007年~2009年)】【第三期(2010年~現在)】に分けてまとめてみる。

■【第一期】自己実現欲求のほうが有名だった時期

2000年~2006年頃は、インターネットで承認欲求という言葉を聞く機会はあまり無かった。私の場合、せいぜい『Loveless Zero』(現『Socioarc』)で論考を見かけるぐらいだっただろうか。もちろん、インターネットでも紙媒体でもマズローはそれなりに知られていたし、彼の「欲求段階説」や「自己実現欲求」をビジネス啓発方面や教育/福祉方面で見かけなくもなかった。

この時点では、承認欲求そのものにフォーカスを絞る人はそんなにいなかったように思う。欲求段階説を踏まえたうえで、自己実現欲求を語る向きのほうが優勢だったと記憶している。

■【第二期】ブログ界隈で承認欲求が語られ始めた時期

第二期のスタートは2006年~2007年ぐらい。2007年の暮れ頃には、有村悠さんや小飼弾さんも議論に加わり、ブロガー同士の間で承認欲求という言葉が飛び交うようになった*1。

この段階で、マズローの定義を全く意識せずに振り回しているブロガーが少なくなかった。実際、2008年2月の京都はてなオフ会では、早くも「承認欲求の混乱した使われ方」が議論されている。その後も、承認欲求という言葉を出鱈目に定義したブログ記事をしばしば見かけた。

 「承認欲求という言葉が、マズローの定義を無視して一人歩きしている!」――そうした状況に対して、私は私なりに再定義や議論の整理を試みた。

しかし、弱小ブログが頑張ったところで所詮は焼け石に水で、状況はなんら変わらなかった。幸い、ブログ界隈での承認欲求ブームは終息に向かったため、そうした混乱を心配する必要は無いように思われた。少なくとも、この時点では。

■【第三期】承認欲求が広く用いられるようになった時期

ところが、ネットスラングとして死んだはずの承認欲求が蘇ってきた!

2010年頃からは、twitterや2chやニコニコ動画でも承認欲求という言葉を見かけるようになった。それどころか、社会学者や批評家までもが、この、単体では奥行きの乏しい、平べったい言葉を使っているのをみて、私は驚き、のけぞった。

そうしたなか、ネットスラングとしての承認欲求はますます一人歩きするようになった。罵倒語としての承認欲求(笑)などはその最たるものだし、「承認欲求って言い出したの誰?」と言い始める人も現れた。承認欲求そのものを否定する人・嘲笑する人も増えた。「言葉に手垢が付く」とはこのことだ!――承認欲求という言葉は、泥まみれの雪だるまのように膨らんでいった。

と同時に、書籍方面でも、承認欲求をメインテーマにした本が増え始めた。

2010年以前は、承認欲求をテーマにした本というと、

この太田肇さんの著作ぐらいしか見当たらないが、2010年以降は、

色々な本がリリースされている。

興味深いのは、後ろ二つの書籍が「承認欲求」と不安を結びつけたテーマになっていることだ。そういえば、精神科医の斉藤環さんの新著のタイトルも『承認をめぐる病』だった。この本は未読だけど、斉藤環さんがマズローだけで議論を行うとはちょっと考えられず、何が書いてあるか楽しみだが、斉藤環さんの本のタイトルが「承認」という言葉ではじまり、「病」という言葉で締めくくられているのは、今日の承認欲求周辺の状況を象徴しているようで、興味をそそる。

■おわりに

ネットで「承認欲求」が使われるようになった歴史を振り返ってみた。

経緯を振り返ってみると、マズローからの一人歩きが無残だなぁと思う一方で、なるほど、承認欲求という言葉はバズワードになるべくバズワードになったんだな、という印象も禁じえない。

つまり、「承認不安」「承認という病」といったフレーズが象徴しているように、承認欲求という言葉の周辺には【認められたい・褒められたい】という欲求だけではなく、【認められなかったらどうしよう・認められたいのに認められない】といった不安や葛藤も渦巻いていて、それらをひっくるめてザックリ言い表すのに「承認欲求」という言葉はちょうど良かったのだ。

言い換えると、いまどきの喜びや悲しみや苦しみの相当なウエイトが、[人に認められるか否か・褒められるか否か]で占められているからこそ、これだけ承認欲求という言葉が広がり、用いられ、一人歩きするに至ったのだろう。

ネットスラングとしての承認欲求が否定的ニュアンスを帯びていったのも、これは偶然そうなったと考えるべきではないと思う。承認欲求を充たしたいけれども充たせない、一歩踏み出せない、失敗が怖い、見捨てられたくない......そういった、承認欲求に対して素直になれない状況、手放しでは喜べない個人があればこそ、この言葉は呪いの言葉としての意味合いを強めていったのではないか?

ともあれ、承認欲求という言葉はこのように流通するに至った。是非はともかく、この言葉の周辺に、現代人の執着のトレンドが存在するのは間違いなさそうなので、マズロー以外の理論家の力も借りながら掘ってみると色々みえてくるのではないかと思う。

(2014年1月23日の「シロクマの屑籠」より転載)