どうして性を売るのはダメなの?

「なぜ性を売ってはいけないのか?」という設問は、「職業選択の自由はどこまで認められるのか?」と言い換えられる。さらに突き詰めれば「個人の自由な選択はどこまで肯定されうるか」が問われている。個人の自由は場合によっては制限される。では性産業は、「殺し屋」のような制限されるべき職業だろうか。
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「なぜ性を売ってはいけないのか?」という設問は、「職業選択の自由はどこまで認められるのか?」と言い換えられる。ここでは社会的な課題──性病を媒介する、反社会的勢力の収入源になる等──は問うていない。あくまでも個人の選択として「性を売る」のが是か非かを考えている。突き詰めれば「個人の自由な選択はどこまで肯定されうるか」が問われている。少なくとも日本には「殺し屋」という職業を選択する自由はない。個人の自由は場合によっては制限される。

では性産業は、「殺し屋」のような制限されるべき職業だろうか。

それとも普通のサラリーマンと変わらない、個人の自由な選択にゆだねられるべきものだろうか。

私たちの「自由な選択」が制限されるケースは、およそ3つのパターンに大別できる。

1つは「他人の権利を侵害するとき」

もう1つは「制限したほうが本人のためになるとき」

そして最後の1つは「本人が自由な選択だと思っているだけで、実際には違うとき」だ。

1.他人の権利を侵害するとき

私たちには人を殺す自由が許されていないし、他人のモノを盗んだり壊したりする自由もない。他人の権利や自由を侵害するような自由は認められない。

たとえばリーマンショックの直後には「金融市場の自由は制限を受けるべきか」が議論の的になった。

もしも金融市場が、人々の安心して暮らす権利を脅かすのであれば、自由放任にはできない。では、リーマンショックのような強烈な景気後退は、自由な金融市場がある限り不可避なのなのだろうか。政府の介入がなければ避けられないのだろうか。金融市場の自由を巡って、喧々諤々の議論が繰り広げられた。

2.自由を制限したほうが本人のためになるとき

個人の自由な選択だからと言って、本人のためになるとは限らない。より本人の利得になるような「かしこい選択」をえらい人が提供すべきだという考え方がある。ここでいう「えらい人」とは、たいていは政府のことをいう。パターナリズム(温情主義)と呼ばれる考え方で、代表的なものはシートベルトやヘルメットの着用義務があげられる。また未成年の飲酒喫煙禁止もパターナリズムに該当するだろう。

パターナリズムは、突き詰めれば「自由」とは相容れない。

自由を追求するのなら、えらい人が何を言おうと、本人の選択を重んじるべきだからだ。何歳から酒を飲もうが、本人やその家族が認めているのなら自由であるはずだ。しかし、本人の健康被害や将来のアルコール中毒者を減らすといった社会全体の利益を守るため、日本では未成年の飲酒が禁じられている。

日本人の多くはパターナリズムを肯定しているようだ。10代の学生が飲み会の画像をUPするたびに炎上事件に発展する。ヘルメットをせずに原チャに乗る高校生は厳しく批判される。日本では、個人の自由よりも社会のモラルのほうが大切だと考える人が多いようだ。

3.実際には本人の選択ではないとき

本人は「個人の自由な選択」だと思っているが、実際には本人の選択ではない場合がある。

たとえばオレオレ詐欺に騙される高齢者の例を考えてみよう。騙されたと気づくまでは、本人は自由な選択の結果としてカネを振り込んでいるはずだ。騙されたり、社会的な圧力によって選択を余儀なくされたり......本人は自由な選択だと思っているが実際には違う場合、その人の自由は制限されうる。詐欺防止のために高齢者のキャッシュカードを家族が預かる ── 「ATMを使う自由」を制限する ── というのは、決して珍しい事例ではない。

本人は自分の自由な意思で選択をしているつもりだが、第三者から見ると違う。こうした例はじつはかなり多い。たとえば就職活動中の学生は、本人の自由な選択として黒いリクルートスーツに身を包んでいるはずだ。しかし外部から観察すれば、社会的な同調圧力によって選択を余儀なくされているのは明白である。

問題はこのパターン、つまり「本人は自由だと思っているけれど外から見ると強制されているように見える」ケースだ。たとえば売れないグラビアアイドルがAVデビューするのは、第三者の目から見れば「あ、プロダクションの社長が儲けたいんだな」と明白に分かる。しかし女優本人にとってはセカンドチャンスにほかならない。

しかも「大量の男性ファンを獲得したい」という目的だけを追求するのなら、たしかにセカンドチャンスなのだ。夢の実現に向かう第一歩だ。それを第三者から「あなた騙されてますよ」と言われても、納得するわけがない。バカにするなと怒って当然だし、それは正当な怒りだと私は思う。

たしかに性産業には、男性による女性性の搾取の構図がある。が、この構図はあくまでも第三者的な視点に立ったときに見えてくるものであって、当事者性が薄い。だから、かんたんには当事者からの同意を得られない。

上記のまとめでは「売春は本人の選択か、それとも騙されているのか」という論点から、性産業批判を崩そうとしている。「騙されて搾取されているだなんてとんでもない、本人の自由で冷静な判断からカラダで稼ぐことを選んでいるのだ」と、まず最初に主張している。

続いて、パターナリズムを批判している。性病のリスクや、将来の転職・結婚の際に障害となる可能性......性産業にはそれ特有の問題が生じる。だから性産業で働かないほうが「かしこい選択」だと考える人は多いだろう。しかし、これは典型的なパターナリズムだ。(未成年の飲酒と同様に)本人には正しい選択ができないから、かしこい人が代わりに判断してあげるべきだ、と考えているのだ。性産業で働く当事者からすれば、「バカにするな」の一言で反論終了である。それらのリスクを引き受けて、覚悟したうえで性産業を選んでいる。少なくとも本人はそう考えているはずだ。

そして最後に「性産業を選ぶことが他人の権利を侵害しうるか」を議論の的にしている。当然、性産業で働く本人は「誰の権利も侵害しない」と主張するだろう。むしろ社会に対する貢献だと主張するだろう。エンジニアが技術でカネを稼ぐように、生まれ持った能力を使って稼いでいるだけだと主張するはずだ。

一昔前なら、「性産業は社会に害をなす」という意見はごく一般的だった。

売春婦の娘はどうせ売春婦にしかならない。だから社会の発展に寄与しない。それどころか男をたぶらかして梅毒を媒介する存在であり、社会に害をなす。そんな差別的な意見がまかり通っていた。100年ぐらい前の話である。

現在では、さすがに性産業に対するあからさまな差別的意見はあまり見かけなくなった。たぶらかされる男の側を批判せずに、売春だけを批判するのは意味不明だからだ。抗生物質の発達により梅毒の恐怖はなくなった。親の職業で子供を差別すべきではないという考え方も根付きつつある。

「なぜ性を売ってはいけないのか?」

この設問に対する論点をまとめよう:

まず「性産業を選ぶ自由は、他者の権利を侵害しうるか」を検証しなければならない。金融市場と同様に、もしも性産業が社会に害をなす場合があるのなら、一定の制限を設けるべきだろう。では、実際にそのような「害」は生じうるのだろうか。

また「性産業を選ぶことが本人の利益になるのか。本人の利益にならないとしたら、えらい人が口を出すべきか」という点も検証しなければならない。たとえリスクを覚悟していても、ヘルメットをせずにバイクを運転すれば批判される。では、こうしたパターナリズムは性産業にも適用できるだろうか。

さらに「性産業が本人の選択ではない可能性」についてはどうだろう。ほんとうに多様な職業選択の自由が担保されたうえで性産業を選んでいるのだろうか。それとも不景気の影響で仕事が無くなり、技能・職能のない女性が性産業を選ばざるをえない状況になっているのだろうか。議論の余地がある。

以上の論点にどのような判断を下すかによって、性産業を肯定できるかどうかは変わる。「売春は肯定できるか?」これは答えを1つに絞ることのできない、とても奥の深い議論だ。

以上が性産業についての一般的な議論だ。

ここから先は、あまり一般的ではない余談をしようと思う。

なぜ、売春は禁忌とされてきたのか。

ほとんどすべての文化圏に、売春婦に対する差別的な言葉がある(らしい)。歴史上、神聖娼婦として祭られる場合もあれば、犬猫のように卑しい存在として見なされる場合もあった。神聖視と侮蔑はコインの裏表のようなもので、特定の人々を日常生活から排除するという点で同じだ。では、なぜ売春は他の職業と同列にはならず、特別視され続けてきたのだろう。

私たち人類はセックスが大好きだ。

しかし同時に、どの文化圏にも性的に禁欲的な思想が存在する。性に対して強い興味を持っていなければ、私たちは子孫を残せない。その反面、性的な放埒さに嫌悪を覚える人も少なくない。この矛盾する性質をヒトが持っているのはなぜだろう。

理由の1つは、ヒトが一夫一妻制の動物だからだろう。

乱婚制や一妻多夫制の動物では、オスの精子の量が多くなる。乱婚や一夫多妻の動物では一匹のメスが多数のオスと交尾するため、精子の量が少ないオスは子孫を残せない。精子の量を増やす側に選択圧が働くので、オスの精子量は世代を重ねるごとに増えていく。

また一夫多妻制の動物の場合、雌雄間の差異が大きくなる。ライオンやゾウアザラシのようなハーレムを作る動物の場合でも、オスとメスはほぼ1対1の割合で生まれる。そのため、オスは激しい競争に勝ち抜かなければ子孫を残せない。たとえばゾウアザラシは、より体格のいいオスだけがケンカに勝ち、子孫を残せる。体の大きさに対して強い選択が働いた結果、ゾウアザラシのオスはメスの約4倍もの体重を持つに至った。

では、ヒトはどうか。

類人猿のなかでも精子の量はあまり多くないらしい。また、雌雄の体格差もあまり大きくないという。したがって、乱婚制でも一妻多夫制でも、一夫多妻制でもないと考えられる。歴史上さまざまな婚姻形態が試されてきたが、ヒトは先天的には一夫一妻制の生態を持っていると考えていいだろう。

一夫一妻制の動物である以上、性的な放埒さに嫌悪感を覚えるのはごく自然な反応だと言っていい。禁欲的な性質は、教育の成果だけとはかぎらない。生まれながらに禁欲的な個体が相当数いると考えるべきだ。

もう1つの理由は、人類が性的に自由になって日が浅いからだろう。

私たちが性的に解放されたのは、ここ数十年だ。現在でこそ、高性能な避妊具と抗生物質により、私たちは望まない妊娠からも性病からも自由になった。しかしペニシリンの大量生産が始まったのは第二次大戦中だ。私たちの祖父母の世代までは、梅毒をはじめとした性病が猛威をふるっていた。婚前交渉はきわめてリスクが高かった。

ホモ・サピエンスには20万年の歴史がある。しかし性行為を安心して楽しめるようになったのは、ここ2~3世代だ。種としてのヒトの生態が変わるには、あまりにも短い時間である。

性的に保守的な個体のほうが性病のリスクを減じることができるし、不妊に陥る可能性も低い。「性行為に強い興味を示す」ことと、「性的な放埒さに嫌悪感を覚える」こととは、どちらも種の存続にポジティブな影響を与える。だから多くの人が2つの矛盾する感情を生まれながらに持っているとしても不思議はない。

ヒトの心理的な働きのすべてを、進化的な適応として説明することはできない。

進化心理学は、じつはわりと危うい学問だと私は思っている。多くの人は性欲を本能的なものだと考えているが、それを証明するのはかんたんではない。ヒトは教育や社会的なすりこみの結果として、後天的に性欲を手にしているのかもしれない。しかし、もしもあなたが「性的欲求」を本能的なものだと考えているのなら、「性的な保守性」も先天的なものだと考えなければアンフェアだろう。

性的な保守性。性的な放埒さに対する嫌悪感。こうした感情を、多くの人が生まれながらに持っている(かもしれない)。だとすれば、これが性産業に対する特別視の原因ではないだろうか。性産業に対する職業差別を肯定するつもりはないし、現職者に「やめろ」と説教するのは大きなお世話だ。しかし性産業を他の職業とまったく同列のものとして扱えるほど、ヒトはまだ進化していない。

男性の所有物としての女性性は解放されるべきだ。が、性に関するあらゆる制限や特別視を撤廃するべきだと考えるのは、「性は解放されるべき」という後天的な教条によるものであって、human natureではないだろう。

生まれたままのヒトのあり方を考える時、あらゆる社会的制約のない状態を想定しがちだ。もしも文明がなければ、ヒトは万人の万人に対する競争を始めてしまう、と。しかし実際には、文明を持たない野生動物でも、秩序立った群れの社会を作る。ヒトだけが例外だとは考えづらい。私たちの社会の制約や常識の一部には、ヒトが生得的に持っている習性や本能も組み込まれているはずだ。社会のどこまでが「延長された表現型」で、どこからがそうでないのか、判断は慎重であるべきだ。

※今日の記事は一部に「不適切な内容」を含んでいるかもしれません。もっと勉強します。

※QT「そうでないということが証明されない限り、複合的なすべての活動は社会的に決定されているのであって、遺伝的ではないと仮定しなければならない」――フランツ・ボアズ

(※この記事は2012年9月24日の「デマこいてんじゃねえ!」より転載しました)