「批判する人」って、まじダサい。/「批判される人」になろう

イラストや映像、あるいはパフォーマンス――手法は問わず、「自己表現」の得意な人がいる。そういう人はファンとアンチを獲得しながら、どんどん有名になっていく。「嫌い」は「好き」の次に強い感情であり、愛に近い。それゆえに、有名な人には口さがない批判が浴びせられる。自己表現の苦手な人は、誰かを批判することでしか自分を語ることができない。
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世の中には2種類の人間がいる。「批判する人」と「批判される人」だ。イラストや映像、あるいはパフォーマンス――手法は問わず、「自己表現」の得意な人がいる。そういう人はファンとアンチを獲得しながら、どんどん有名になっていく。「嫌い」は「好き」の次に強い感情であり、愛に近い。それゆえに、有名な人には口さがない批判が浴びせられる。自己表現の苦手な人は、誰かを批判することでしか自分を語ることができない。

純文学の世界で頑張っている友人と飲んで、そんなことを教えられた。

いつものアイリッシュパブで、純文学の創作をしている友人と飲んだ。ネットを介してお互いの動向は知っていたけれど、会話をするのはおよそ一年ぶり。私は以前、こんな記事を書いたこともあるため、一発ぐらい殴られるのを覚悟していた。が、ネタをネタとして笑ってくれた。ううむ、実力のある人ってどうしてこうも心が広いのだろう。

スタウトを舐めながら、話題はなぜかブログ界隈のことに。有名なブログはたくさんあるけれど、だいたい3パターンに分けられるよね、という話になった。

アクセス数を稼ぎまくるブログは、まず大きく2つに分けられる。

「ノウハウ系」と「それ以外」だ。

アプリの開発方法であるとか、ライフハックの一覧、あるいは読書術のまとめ――そういう「ノウハウ」を伝えるタイプのブログは、アクセス数が伸びやすい。もちろん、それらノウハウが実際に役立つものであることが大前提になるけれど、ちょっとの専門性と最低限の文章能力があれば、ノウハウ系のブログで地位を確立できるのではないのではないかと思われる。私は専門性とか全然ないので推測の域を出ない。

ノウハウを主眼としない「それ以外」のブログは、さらに2つに分けられる。

「独立系」と「批判系」だ。

自分の考え方や日常生活を、独自の言葉で語るブログがある。それが「独立系」だ。はてなダイアリーという名前の通り、個人的な日記を公開することで人気を集めたブログがある。書き手の観察眼や言語能力の高さからアクセス数を稼ぐようになり、有名ブログに昇りつめた人たちがいる。それが「独立系」のブログ。

一方で、それら独立系のブログを批判し、絡み、茶化すことで人気を集めたブログもある。匿名の掲示板なら平気で書ける罵詈雑言でも、アカウント方式のWEBサービスでは書きづらい。人格にハンドルネームがヒモ付くことで、発言にある程度の責任が生じるからだ。しかし普通なら口にしづらい「汚いセリフ」を、平気で吐ける人たちがいる。そういう人が暴れまわると、読んでいる側はなんだかすっきりする(場合もある)のだ。いつも抑圧している鬱憤を、そういう人に肩代わりしてもらえるからだろう。そういう「他者への批判」によって人気を集めているブログが「批判系」のブログだ。

注意したいのは、「批判」と一口に言っても建設的なものとそうでないものがあるという点。確固たる自分の考え方や理想があって、それに少しでも近づくために発される批判は「建設的な批判」だ。あるいは相手の弱点を指摘するだけでなく補完して、成長をうながそうとする――それも建設的な批判といえる。こういう建設的な批判をするブログは、「批判系」には含めない。たとえばみんな大好き・ちきりんさんは、しばしば痛烈な批判記事をお書きになる。が、それはちきりんさんの理想を説明するために批判せざるをえないからだ。したがって「Chikirinの日記」は批判系ではなく、独立系ブログだといえる。

批判系ブログとは、相手の発言や行動を全否定することに力を注いでいるブログのことだ。ガキくさいヤンキーが芸能人を殴って友人に自慢する――なんて話を時々聞くけれど、それに近い。普通の人ができない「攻撃的態度」を取ることで、みんなの関心を引こうとする人がいる。同じヤンキーでも、もっとカッコいい生き方があるのに......。

攻撃対象にはノウハウ系ブログ、独立系ブログの双方が選ばれる。言葉が過激であればあるほど読者が喜ぶため、批判系ブログの書き手たちはどんどん子供じみた罵声をあげるようになる。「ネットユーザーは3行しか文章を読めない」なんて言われた時代があったけれど、いまだにその時代を生きている。できるだけ短いフレーズで、相手の人格をできるかぎり深く傷つけることに命を賭ける。

なぜ批判系ブログは書かれるのだろう。どうして私たちは、そういう罵詈雑言を喜んでしまうのだろう:それは「批判」が、自尊心を慰めるいちばん簡単な方法だからだ。

これは私見だけど、自尊心(あるいは承認欲求)には3つのレイヤーがあると思う。

いちばん大きなものは「みんなに認められたい」という欲求だ。不特定多数の誰か、自分は顔も見たことがないような誰か。そんな数え切れないほどの「みんな」に関心を持ってもらいたい、認めてもらいたい――そういう欲求を私たちは持っている。僕がかつて小僧のころ夢見ていた人生プランなら、今ごろじゃマイケル的生活で世界を股にかけていたはずなのだ。

その内側にあるのは「仲間から認められたい」という欲求だ。家族やクラスメイト、友人や同僚――。そういう「お互いの名前を知っている仲間」から認められたいという欲求を私たちは持っている。お互いの「顔」を知っている必要はない。たとえばネトゲのパーティーのように、互いのハンドルネームだけ知っている仲というモノもありうる。そういう「見知った仲間」から認められることに、私たちはよろこびを感じる。

そして一番内側にあるのは「自分で自分を認めたい」という欲求だ。たとえ仲間から認められても、圧倒的多数の人たちから拍手喝采されても、そんな自分を好きになれなければ生きるのはつらい。自分の望むとおりの自分になれることは、ある意味、もっともしあわせな生き方だ。

そして批判は、こういう自尊心を簡単に満たすことができる。

ブログだけじゃない、芸能人でもライターでも「有名な相手」ならば誰でもいい。そういう著名人には、数え切れないほどのフォロワーがいる(※Twitter的な意味ではない)。有名な人を批判するということは、そのフォロワーまでもいっぺんに否定することにつながる。したがって、圧倒的多数の人々よりも優位に立つことができるのだ。少なくとも、そう錯覚できる。

そして、その「有名な人」が煽りに乗ってくれればしめたものだ。翌日、仲間たちに自慢することができる。「俺さぁ、昨日○○さんにアドバイスしてあげたの。そしたら、あいつ顔を真っ赤にして怒りだしてさぁwジャーナリストって言っても大したことねーのなw」という具合だ。「すっげー!○○さんを釣るなんて先輩マジすごいっすわー」ということになる。

圧倒的多数を否定できる自分、そして仲間たちにはできないことをした自分。そういう自分の姿を発見したとき、私たちの胸には自尊心が生まれる。「自分はすごい」という根拠もない自信が生まれる。だからこそ「批判」の甘美な味を覚えたら、やめられなくなってしまうのだ。

以上の「有名人に絡む心理・批判する心理」については、こちらの記事が適確に解説している。

私はブログを「ノウハウ系」「独立系」「批判系」の3つに分けた。が、これは明確な境界線があるような分類方法ではない。ノウハウ系を書き綴っている人がたまに覗かせる「日常のルポ」がめちゃくちゃ面白かったりするし、「独立系」として独創的な記事を書いてる人が、なにかの弾みで暴言としか言いようのないセリフを書いてしまうこともある。

その友人に言わせれば、「批判は他人の創造性に乗っかる態度」なのだという。誰かの創造的な言葉のうえで踊るピエロ。それが批判をする人――批判しかしない人なのだという。彼は純文学という極めて「分かりづらい」ジャンルに挑戦し、無理解な読者から心ない言葉を投げつけられることも少なくないのだろう。ゆえに、「批判」には耳を傾けるにあたいするモノとそうでないモノがあると理解しているのだ。

そして嫌いは、好きの次に強い感情だ。自分の創作物を公開した経験のある人なら分かると思うけれど、批判的な意見が集まるのは無視されるよりもずっとマシだ。ネガティブなものかもしれないが、誰かの感情を動かすことができたのだから。ほんとうに下らない創作物は、誰の心にも触れられずただ黙殺される。

ハリウッド女優のパリス・ヒルトンはこんな言葉を残している。

「あなたの知らない誰かがあなたのことを悪く言っていたら、それはあなたが素晴らしいことをしている証拠」

まさしくその通り。何千人・何万人もの目に触れるモノを作ったとき、100%全員から好ましく思ってもらえるなんてありえない。人には個性があり、どこまでも多様だ。ソリの合わない人がいて当然なのだ。批判的な意見を投げつけられるということは、それだけ多くの人の目に止まるようになった証拠だ。「批判される人」とは、なにかとてつもないコトをしている人である。

それに比べて「批判する人」はどうだろう。誰かの批判しかできない人って、どうだろう。世の中には誰かを批判することでしか自分を語ることのできない人がいる。それってすごくダサい。有名人を批判することで大多数から拍手喝采されても、そんな自分を許せるだろうか。ステキな自分だと思えるだろうか。承認欲求のいちばんコアの部分が泣いている。

「批判する人」になるぐらいなら、「批判される人」を目指したい。

いままでの自分を反省しつつ、私はそう思った。

ひさしぶりの友人と飲むスタウトは、いつもよりも苦かった。

(※この記事は2012年3月6日の「デマこいてんじゃねえ!」より転載しました)