7/1、安倍政権は集団的自衛権の行使を、憲法解釈を変更することによって容認することを閣議決定しました。
これを受け、「自治体議員立憲ネットワーク」の声明発表に私も賛同人の一人として出席しました。
立憲主義を有名無実化するこの暴挙に、私は断固反対です。
しかし、この閣議決定に反対するのに「国民の命を守れ」「子どもの命を守れ」と言ってしまったら、論破することはできません。安倍さんもまったく同じことを言って集団的自衛権容認をしているからです。
「国民の命を守るため」に集団的自衛権が必要?不要?
5/15の記者会見で、安倍首相はパネルを用いて、集団的自衛権容認の必要性を説明しました。
(画像はハフィントン・ポストより引用)
在外邦人が米艦船に救出され、その米艦船が攻撃を受けた場合に自衛隊が出動するために集団的自衛権が必要だという「そんなケースあるのか」と各方面から批判を浴びた説明ですが、パネルでは何やら子どもやお母さんがいて、「国民の命を守るため、子どもの命を守るため」に集団的自衛権が必要だという説明に(表面上は)なっています。
「国民の命を守れ」「子どもの命を守れ」というような「無敵ワード」を使っていては、平行線にしかなりません。
ボーダーの人々を説得するために、相手の立場に立って議論を
人にはみんな立場があります。
自分の立場だけから発言していては、永久に平行線を解決することはできません。
「誰が正しいか」ではなく「何が正しいか」を論じなければなりません。
そうは言っても難しいという話ではありますが、これをやる努力を怠れば、どこまで行っても平行線、結局は多数決、という不毛な結果しかありません。
例えば、田母神俊雄氏はこんなツイートをしています。
もうまったく議論にも何もなっていない主張ですが、これに対して「そのとおり!」「正論!」などというリプライも結構ついています。
このへんには「左派に対する右派の怨念」がにじみ出ているのでしょう。
あるいは逆に「右派に対する左派の怨念」もあって、これまでそれをお互いにぶつけあってきたのかもしれません。
あれはウヨクだから、これはサヨクだから、などという応酬では、ウヨクでもサヨクでもない大多数の人々に届きません。
「論陣の先頭」にいる人を説得することは不可能です。
安倍晋三首相を説得して集団的自衛権容認を撤回させることは、何をどう言っても不可能でしょう。
ディベートで重要なのは、「論陣の先頭」を論破することで、それを見ている「ボーダーにいる人々」を説得することです。
自分たちの言葉だけを使って主張をしていては「ボーダーの人々」に対して説得力を持たせることはできません。
相手の立場に立って議論することが求められます。
安全保障の観点から論じていって「集団的自衛権は不要である」という結論を導くことが重要です。
ただ、私は安全保障については素人ですので、ネット上で見つけた記事などをご紹介することで皆様に考えていただければと思っています。
「相手国の立場に立って考え、孤立を回避せよ」―田岡俊次氏
軍事評論家の田岡俊次さんは、専門家の視点から客観的に安倍首相の主張に反論しており、注目されています。
安倍首相が「日本人を乗せた米国の船を自衛隊は守ることが出来ない。これが憲法の現在の解釈だ」というのは「シーレーン防衛で外国船を守るのは違憲だ」と言うに等しい。すると海上自衛隊は違憲、違法行為を行うために巨費を投じて装備を揃え、訓練に励んできたのか、ということになってしまう。
米軍は海外で民間人を救出する場合の優先順位を定め①が米国のパスポートを持つ者、②が米国の永住許可証(グリーンカード)を持つ者、③が英、加、豪州、ニュージーランド国民、④が「その他」の順番となっている。これは1996年末、共産党政権が崩壊してまだ6年で自由経済に不慣れだったアルバニアで、政府が後援していた大規模なネズミ講が破綻、民衆の暴動を警察、軍が鎮圧しようとして97年初頭には銃撃戦、内乱状態に発展する珍事件が起きたが、米海兵隊が大型ヘリで部隊を送り込み自国民を救出しようとした際、米側が「このような優先順位が決められているので悪しからず」と説明して明らかになった。やむなくドイツ、イタリアは輸送ヘリと護衛部隊を派遣して在留自国民を救出し、少数の日本人もドイツ軍のヘリに乗せてもらって脱出した。
集団的自衛権を考える〈21〉「国際情勢は変わったのに」軍事評論家・田岡俊次さん (カナロコ)
安倍政権が集団的自衛権の行使容認を閣議決定した。軍事評論家の田岡俊次さんは安倍晋三首相の空虚な国際感覚にこそ危機を感じる。第1次安倍政権から7年を経て、米国は「テロとの戦い」から財政再建・輸出倍増路線へと変わった。それを踏まえずに、集団的自衛権を「手土産」に訪米しようとする安倍首相の振る舞いを「情勢を読めない間抜け」と言ってはばからない。一方で、今後戦争への道を歩むという危機感もまた「感情的で具体性がない」。双方に抜け落ちているのは「相手国の立場に立つ」という視点。懸念はすなわち、国際情勢の変化を踏まえない行動による「日本の孤立」だ。
「邦人保護は集団的自衛権とは無関係」―柳澤協二氏
小泉内閣から麻生内閣の間、安全保障・危機管理担当の内閣官房副長官補を務めてきた元防衛官僚の柳澤協二さんの発言も注目されています。
先日の、安保法制懇の報告書提出を受けての記者会見のとき、総理が掲げていたパネルにある親子の絵を見て、私は「なんだこりゃ」と、本当にのけぞるほどびっくりしました。海外で有事があったときに、赤ちゃんを抱えた母親、あるいはおじいさんおばあさんがアメリカの船に乗って逃げてくる、それを自衛隊が守らないでいいのか、という話でした。もちろん、守らなきゃいけないに決まっています。だけどそれと集団的自衛権と何の関係があるのかということです。
私がよく言うのはね、例えばその、子供がお母さんに向かって「お母さん、必要最小限度でいいからお小遣いちょうだい」っていうけど、お母さんは聞くでしょ、「あんた何に使うの?」って。そこの部分が議論されなきゃいけないわけですよね。それはゲーム機を買うための必要最小限度とね、学用品を買うための必要最小限度と、おのずと違うわけで、目的がまったく違うものを必要最小限度と言われても、そこは全然話が違うものになっていると思うんですよね。
「軍隊はテロを防げないんです」―街頭で訴えた元自衛官
大阪でのデモで、元自衛官と名乗る方がマイクを持ち訴えた内容が、Facebookで多くの方にシェアされました。
非常に説得力があると思いました。こういう現場の意見を、内閣はもっと聞かなければなりません。
いま、尖閣の問題とか、北朝鮮のミサイル問題とか、不安じゃないですか。
でも、そういったものには、自衛隊がしっかりと対処します。
自衛官は命をかけて国民をしっかり守ります。
そこは、安心してください。
いま私が反対している集団的自衛権とは、そういうものではありません。
日本を守る話ではないんです。
売られた喧嘩に正当防衛で対抗するというものではないんです。
売られてもいない他人の喧嘩に、こっちから飛び込んでいこうというんです。
それが集団的自衛権なんです。
なんでそんなことに自衛隊が使われなければならないんですか。
縁もゆかりもない国に行って、恨みもない人たちを殺してこい、
安倍さんはこのように自衛官に言うわけです。
君たち自衛官も殺されて来いというのです。
冗談ではありません。
自分は戦争に行かないくせに、安倍さんになんでそんなこと言われなあかんのですか。
なんでそんな汚れ仕事を自衛隊が引き受けなければならないんですか。
自衛隊の仕事は日本を守ることですよ。
見も知らぬ国に行って殺し殺されるのが仕事なわけないじゃないですか。
みなさん、集団的自衛権は他人の喧嘩を買いに行くことです。
他人の喧嘩を買いに行ったら、逆恨みされますよね。
当然ですよ。
だから、アメリカと一緒に戦争した国は、かたっぱしからテロに遭ってるじゃないですか。
イギリスも、スペインも、ドイツも、フランスも、みんなテロ事件が起きて市民が何人も殺害されてるじゃないですか。
みなさん、軍隊はテロを防げないんです。
世界最強の米軍が、テロを防げないんですよ。
自衛隊が海外の戦争に参加して、日本がテロに狙われたらどうしますか。
みゆき通りで爆弾テロがおきたらどうします。
自衛隊はテロから市民を守れないんです。
テロの被害を受けて、その時になって、自衛隊が戦争に行ってるからだと逆恨みされたんではたまりませんよ。
だから私は集団的自衛権には絶対に反対なんです。
解釈運用はもはや限界。真剣に憲法改正の議論を
最後に、私の記事を再度ご紹介します。
憲法の条文の解釈を自分の都合で作り替えてしまうようなことを許したら、今後憲法のすべての条文に対して、為政者が同様に解釈を作り替えることを認めることになります。
基本的人権、表現の自由...。すべて、どうとでもすることができてしまいます。
これは、絶対にあってはならないことです。
安倍さんが「私はそんなことはしない」と言っても関係ありません。
今後、どういう内閣、どういう首相が出てくるかは予想がつかないのですから。
だから立憲主義が重要なのです。
そもそもをたどれば、自衛隊の存在自体が憲法解釈でできています。
だから、なんでも解釈でやってしまおうとするのです。
憲法改正を行い、自衛権と自衛隊の定義をきちんと憲法上で行うことがいかに重要かということが、はからずも安倍内閣の解釈改憲で浮き彫りになったと言えるでしょう。
Facebookページ: 中妻じょうた 板橋区議会議員
(2014年7月4日「中妻じょうたブログ」より転載)