地方オタクの歳の取り方と、首都圏の人脈について

地方で若いオタクをやっている人は、今所属しているオタクコミュニティが長続きしそうなものなのか、それとも間もなく失われていく蜃気楼のようなものなのか、立ち止まって考えてみて欲しいとも思う。年若いうちにそれを想像するのは、難しいことかもしれないけれども。
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以下に書き散らす内容は、私自身が実際に見てきたものと、他の地方在住オタクな人達から聞いた話をもとにした、ひとつの推測とあらかじめ断っておく。

90年代のある時期、それこそウィンドウズやインターネットが地方の学生オタクにも手の届くものになった頃ぐらいから、地方でオタクをやるのは難しくなくなった、とされている。少なくとも、首都圏で"おたくエリート"が頑張っていた頃よりは、そうだろう。コンテンツに手が届きやすくなったし、マスボリュームが大きくなって友達も探しやすくなった。漫画やアニメやゲーム好きの多く集まる学校に進んだ高校生なら、同好の士をある程度は見つけられたに違いない。

問題はここから。

じゃあ、地方でアニメやゲームをいつまでも愛好し続けるのも同じぐらい簡単か、となると、これが結構難しいようにみえる。オタクがオタクでい続けるための難易度・しんどさは、首都圏と地方県庁所在地、中小の地方都市や過疎地では相当違っているのではないか。

・首都圏のオタク

コンテンツも豊富で、常にシーンの最前線を肌で感じることができる。仲間を見つけやすく、オフ会への出席も容易。半径100km内に、年少~年長まで様々なオタクが存在するので、オタクとして歳を取っていくためのロールモデルも比較的豊富。コンテンツそのものも、コンテンツを介した繋がりも、コンテンツを超えたオタク仲間との交友も、かなり続けやすい。

・地方中核都市のオタク

首都圏に比べればアメニティ面で劣るが、ゲーマーズやアニメイトぐらいなら揃っている。一定以上の偏差値の学校にはオタクがたくさんいて、イベントもある程度開催されているので、地元のオタク仲間を見つけ、つるむのも難しくない。ただし、シーンの最先端を知るためには首都圏に出たほうが便利なので、二次創作を続けるには多少の不便がある。この点では、県庁所在地の規模以上に、首都圏へのアクセスが利便性を左右する。福岡、札幌、神戸より、静岡、高崎、水戸あたりのほうがたぶん有利。年齢を超えたオタクコミュニティはきちんと探さなければ見つかりにくく、首都圏まで出てしまったほうが話が早い場合がある。

・地方中小都市のオタク

コンテンツはインターネットとコンビニ、TSUTAYAあたりに頼ることになる。人口が十万人を切ってくると、地元にオタクの溜まり場になるような店が存在しないケースがあるが、インターネットのお陰で、流行のアニメやゲームには意外とついていける。かつて、地方中小都市のオタクはひっそりと生きるしかなかったが、最近はオタクとヤンキーの境目が曖昧になったので、ハイブリッドのような人達がジモトのコミュニティを形成しながら、ボカロや東方を消費していたりもする。オタクコンテンツの消費者年齢の平均は、若い。

・限界集落エリア

過疎化が進行し、TSUTAYAやイオンにすら見放された町村部まで行くと、アニメやゲームに一定以上のリソースを費やしている人が少ない。もともと若い人が少ないだけでなく、ヤンキーやオタクやサブカルといった言葉がどれも似合わない「地元の若者」としか言いようのない人達の割合が増えてくる。オタクは希少種。

こうした、インフラの違い、交友関係の違い、首都圏との距離、といったものが首都圏~限界集落エリアまでのオタクライフに相応の傾向を与えている。いくらインターネットが普及しようとも、実店舗でコンテンツが陳列されていること、手にとって確かめられることは計り知れない便宜を与えてくれるものだし、オフラインでつるめるオタク仲間の数は、コンテンツを手にとってみるきっかけやアンテナ感度を左右する。90年代ほどではないにしても、大きな街、それも東京に近い大きな街はオタクをやるには便利だ。

■オタクとして歳を取っていく際の中央-地方問題

とはいえ、若いうちはまだいい。遠くに住んでいても馬力でコミケに出られるし、学生時分には、ゲームやアニメを共有してくれる友達も多い。ネットコンテンツの充実も相まって、今日日、地方の中高生が一生懸命にオタクを続けるのはさほど困難ではない。

歳を取ってきた時に、地方のオタクと首都圏のオタクの運命は変わる。

さきほど書いたように、首都圏には年長のオタクがそれなりいる。極単純にマスボリュームが大きいからでもあるし、オタクのまま歳をとっていく人がそれなり存在するからでもある。最近は、夫婦でコミケに出るような歳の取り方をする人もいるし、独身者のオタクコミュニティが歳月に耐えて持続している類例も多い。

ところが、地方のオタクはこうはいかない。あたかも地方の同人誌即売会の女の子達のように、かつてはアニメやゲームを愛好していた人が、ふとしたきっかけで卒業していく。そのような人達は、実際にはオタクになったというより「たまたまオタクも好きそうなコンテンツに嵌ったけれども、界隈に定着しなかった」と言い直したほうが適切なのかもしれず、思春期アイデンティティの剪定過程でオタクという趣味道を選ばなかった人達と呼ぶべきかもしれない。とにかく、中高生の頃はゲーセンやアニメイトやネットゲームに夢中になっていた人が、就職や短大デビューを機に、ぱたりとやめて"かたぎ"になるケースが案外ある。

幸運にもオタク仲間同士が群れていても、オタクを続けられる保障は無い。当初、オタク趣味の交歓会として発足したコミュニティも、アニメやゲームに対する情熱の衰微、遊ぶ時間の減少のなかで次第に痩せていく。上手く回っているコミュニティでは、そうした間隙を埋めるかのように、ジモトの繋がり、家庭の話、バーベキュー、といったもののウエイトが増していく。パチスロ、釣り、麻雀が大きなウエイトを占める場合もある。オタクコミュニティのヤンキー化、いや、郊外化と言うべきか。

だから、地方在住で一定以上のオタクを続けるためには、かなりのストイックさが必要で、やり方を間違えれば、ジモトの暮らしのなかで浮いてしまうかもしれない。伝聞によれば、まるで都落ちしたサブカルのごとき心境の地方オタク、首都圏コンプレックスをこじらせた地方オタクもいるという。

もともと、地方ではオタクよりもヤンキー寄りのサブカルチャーが優勢で、年配者はオタク趣味に不慣れで不寛容だ*1。そういう生活環境のなかで、十代の頃に親しかった仲間がだんだんアニメやゲームに興味を失っていき、孤立していくか、それともオタクとヤンキーのハイブリッドのような生活を受け入れていくかを選択させられるのだから、オタクとしての濃度を保ちながら歳を取っていくのはいかにも困難にみえる。

■首都圏のオタクコミュニティに所属すること

しかし実際には、地方のオタクが濃度を保ったまま歳を取っていくケースもある。その鍵は「首都圏のコミュニティに所属すること」だ。

私自身も含めて、首都圏のコミュニティがホームグラウンドになっているオタクは、首都圏のオタクが享受しているメリット、特にオタクとして歳を取っていくためのエッセンスを受け取りやすい。若かった頃に知り合ったオタク達は今でもオタクを続けているし、結婚後もアニメやゲームを愛好している人がコミュニティに含まれている確率もそれなりにある。年長/年少のオタクとの接点を獲得できるチャンスもある。

「地方と首都圏のオタク格差問題」みたいなものを論じる際、コンテンツへのアクセス、あるいは"最先端のシーン"や"ライブ"へのアクセスを引き合いに出す人が多い。確かにその通りだと思う。けれども、それだけではなく、オタクのエイジングとか、オタクコミュニティのエイジングという視点でも、首都圏と地方の間には大きなギャップがあって、地方在住のままで濃厚オタクライフを続けるためには、そうしたギャップを埋め合わせるための"縁"が必要だと思う。少なくとも、私はそういう"縁"を大切にしていきたい。たぶん、これが私のオタクライフの生命線だ。これが切れれば、どれだけインターネットに依存しようとも、たぶん私はオタクでいられなくなる。

かつて、自分自身とコンテンツだけの1対1の関係、スタンドアロンな存在をこそ「おたく」と呼ぶ時代があった。その時代の、スタンドアロンなおたく達がどのように歳を取り、今、どこで何をしているのかは知らない。が、オタクが平仮名表記からカタカナ表記に変化し、身を寄せ合いながらコンテンツやジャンルを消費してきたオタク世代がアラサー・アラフォーになりつつある今、彼らが*2オタクとしてどういう歳の取り方をしていくのか、折に触れて考えていこうかなと思う。そして地方で若いオタクをやっている人は、今所属しているオタクコミュニティが長続きしそうなものなのか、それとも間もなく失われていく蜃気楼のようなものなのか、立ち止まって考えてみて欲しいとも思う。年若いうちにそれを想像するのは、難しいことかもしれないけれども。

*1:どうやら、オタク的な意匠はヤンキー的な意匠以上にわかりづらいようだ

*2:というより私達が、と書くべきか

(※この記事は、2013年11月14日の「シロクマの屑籠」より転載しました)