集団的自衛権の行使容認をめぐって、安倍首相が憲法解釈の変更を示唆したことが議論を呼んでいます。これは憲法9条改正につながるきわめてやっかいな問題ですが、できるだけシンプルに考えてみましょう。
現憲法の条文やその成立過程を見れば、「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権否認」を定めた9条が、戦勝国であるアメリカが敗戦国である日本に科した懲罰規定であることは明白です。ナチスドイツを生んだ反省から、第二次世界大戦では戦後処理の方針が大きく変わり、敗戦国を植民地化したり、苛酷な賠償を取り立てることが抑制されました。その代わり「平和主義」の美名の下に、二度と戦争を起こせないよう戦力を剥奪する罰が加えられたのです。これはいわば、不平等条約のようなものです。
ところがその後、中国の共産化と朝鮮戦争によって日本を取り巻く国際情勢が大きく変わります。アメリカにとって、ソ連・中国という共産勢力を抑止するため日本に再軍備を促すことが国益になったのです。
国の自衛権まで憲法で放棄してしまえば、敵が攻めてきてもなんの抵抗もできず降伏するしかありませんから、これが非常識な規定であることはいうまでもありません。本来であればこのとき〝不平等条約〟を改正し、憲法で自衛軍を定める「ふつうの国」になっていればなんの問題もなかったのでしょう。
しかし当時の日本は国民の大多数が平和憲法を支持しており、9条改正や再軍備を言い出せる状況ではありませんでした。そこで自衛隊という、軍隊でありながら軍法を持たない奇妙な組織がつくられたのです。
戦前の歴史を振り返ってみれば、破滅へと至る最大の原因が、軍の統帥権(最高指揮権)を内閣から切り離し、天皇の下に置いたことにあるのは明らかです。だからこそ軍は「統帥権の独立」を建前に内閣の決定を無視し、各自の権益を追求して泥沼の戦争に突き進んでいったのです。
そのような歴史の反省を踏まえれば、戦後日本の最大の課題は、軍という巨大な暴力装置を厳重なシビリアンコントロールの下の置くこと以外にありません。それは軍を、国土と市民を守るための組織として憲法に規定し、その権限と活動の範囲を法によって定め、内閣の決定に服従させることです。ここまでは文民統制のごく当たり前の定義で、右派、左派を問わず異論はないでしょう。
ところが日本の「リベラル」と呼ばれるひとたちは、憲法9条を教条的に解釈し、自衛隊の存在そのものを違憲とすることで、軍の民主的な統制という重大な課題からずっと目を背けてきました。いまだに日本には、有事の際に自衛隊の行動を規定する法律すら整備されていないのです。
問題の本質は集団的自衛権の行使以前に、軍を統制する民主的な手続きの欠落にあります。これはきわめて危険な状態で、本来であれば保守派に先んじて、リベラル派こそが軍を法の支配の下に置くことを主張しなければなりませんでした。
安倍政権の登場は、戦後70年間、彼らが空理空論を弄んできたことの当然の報いなのでしょう。
『週刊プレイボーイ』2014年3月10日発売号より