私たちは来年にかけて、これまで以上に彼の名前を耳にすることになるだろう。その名は、ジャック・ドーシー(Jack Dorsey)。今年上場を果たした「Twitter」の共同創業者でありながら、現在最も急成長を続けているモバイル決済「Square」の創業者でもある。
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私たちは来年にかけて、これまで以上に彼の名前を耳にすることになるだろう。

その名は、ジャック・ドーシー(Jack Dorsey)。

今年上場を果たした「Twitter」の共同創業者でありながら、現在最も急成長を続けているモバイル決済「Square」の創業者でもある。Squareは2014年の上場を目指して準備を進めていると言われており、その動向はますます注目が集まっている。

創業した企業を2年連続で上場へと導いたならば、それは驚くべき快挙だが、Facebookを生み出したマーク・ザッカーバーグの物語が映画化されたことに比して、彼については決して広く知られているとは言えない。

■ジャック・ドーシーとは誰か?

ドーシーについて語られた記事やインタビューは少なくない。しかしながら、そこに踊っている「シンプルな哲学」や日本になじみ深い「わび・さび」精神を持ち込んだデザイン観などの言葉は、成功者としての彼の一側面に過ぎない。 なぜ、ドーシーはこれほどまでに注目されているのだろうか?そして、彼が天才であるのだとすれば、何が彼を天才たらしめているのだろうか?

私たちは、これからジャック・ドーシという1人の男について、「優れた起業家としてどのように世界を変えるか?」という十分に聞き飽きたストーリーではなく、より彼のパーソナリティを垣間見せるような物語に目を向けていきたい。TwitterとSquareをつくった男は、決して元来の天才ではなかった。

もちろん彼は、大勢のシリコンバレーのスターと同様に幼い頃からプログラミングに親しみ、好奇心に溢れた人間であった。しかし、それは彼の一側面に過ぎない。むしろ、ドーシーを特徴付けるいくつかの要素は、決してポジティブなものだけではなく、時には彼を苦しめることになった。

彼は一体どのような人物なのだろうか?

■パンクな青年

1976年11月19日、ドーシーはミズーリ州セントルイスで生まれた。セントルイスは、ミシシッピ川とミズーリ川が合流する場所にある商工業都市だが、1970年以降は都市の空洞化に悩んでおり、治安の悪さでも知られている。この街で生まれ育ったドーシーは、Twitterが上場した際には街をあげてのヒーローとなった。そして、地域経済の可能性を信じているドーシーもこの街を「未だに家のように感じている」と考えており、今でもこの街にある「Sump Coffee」というコーヒーショップはお気に入りのスポットの1つだ。

彼が現在でもこの街を愛していることを知るのは、Squareの「Let's Talk」と呼ばれるイベントがここから始まったことを思い出せば十分だ。このイベントは、地元の小さなビジネスオーナーとつながり、彼らの事業の課題やSquareの可能性などをディスカッションするためのものだが、経済的な凋落に苦しんでいるこの街において、自らの企業はぴったりの役割を持っているとドーシーは考えている。

このイベントはもちろん企業の利益につながる事業ではあるが、彼が育った頃には近所の繫がりが溢れていたセントルイスから、それらが消えていることを悲しんでいるドーシーは、自身のビジネスを通じて、地域経済を復活させようとしているのだ。

10代の頃のドーシーは、ダウンタウンでパンクバンドの演奏を見に行くような少年だった。もちろん彼は、その頃から専門の電気店に行きコンピューターを漁るような人物でもあったが、彼のことを良く知る友人は、ドーシーの最も優れた才能はプログラミングではなく、「社会の洞察」だと指摘する。

彼はアップルの求人広告から、次に同社がリリースする製品を不気味なほど正確に予測できるような人間で、そうした才能は、ドーシーが単なるコンピューターギークではなく、社会の様々な事象について敏感な感性を持っていたことを示している。コンピューターを巧みに操りながらも、ダウンタウンで育ち、パンクを愛するドーシーは、マーク・ザッカーバーグの様にハーバード大学から生まれたエリートではなかった。

ただし、彼は十分なプログラマーとしての素養も身につけていた。13歳の頃には既にプログラムにのめり込んでいたドーシーは、ミズリー工科大学に在学中、「Dispatch Management Services」というニューヨークにある会社のシステムにバグを見つけ、彼はその会社に雇われている。

また、ある時はその会社がクライアントとしていた投資会社にシステムの説明をおこなった際に、若すぎるドーシーが「あなたはシステムのどの部分を理解しているんだ?」と聞かれ、彼は大真面目な顔をして「全部だ」と答えたこともあった。※1

■言語障害の克服

ドーシーを取り囲む家族もまた、ユニークな人々だ。彼の母親は、Twitterを愛しており、そのプロフィールには「@Jackの母親。Twitterのおばあちゃんになるのかしら?」と書かれている。弟のアンドリューのプロフィールには、大文字で「Twitterを使っていないやつはクールじゃない」とある。

ドーシーの起業家精神を語る上で、父母の話しはしばしば引き合いに出される。彼の父親ティムは、自ら小さな会社を経営しており、同時にパートナーと共にレストランを共同経営していた。そして、母マルシアもコーヒーショップを経営しており、それはドーシーが高校時代を過ごすまで続けていた。

しかし、より重要なのは彼と両親の関係性だ。

彼は、幼い頃から母を愛しており、Twitterの初期のヘビーユーザーが彼女であったことも知っている。あるインタビューで、彼は以下のように語っている。

世界の多くの人にとって、それは無駄だ。おそらく、その無益さは不快ですらある。しかし、ある1人にとっては非常に便利なものであり、それは私の母だ。彼女は、私が何を食べたのかという様な日々を知ることを愛しているんだ。※2

おそらくドーシーは、起業家精神以上のものを両親から学んだ。驚くべきことに、現在世界で最も人前で話すことが求められている男は、未就学児の頃に言語障害を抱えていた。両親は粘り強いスピーチ・セラピーをおこない、そして学校やコミュニティも彼が障害を克服するために多くの機会を与えた。

ドーシーの母は、インタビューの中で以下のように語っている。

全ての両親は、その子どもが夢を追うための能力と勇気を持つことを望むものです。励ますことは簡単です。しかし、新しいことに挑戦する勇気を育み、その機会を提供することは、最も難しいことかもしれません。※3

彼の恵まれた環境は、ドーシーが夢を追い続けるために十分な準備を与えた。

■何でも屋

ミズリー工科大学を卒業後のドーシーは、本人曰く「何でも屋」だった。2000年、24歳になっていたドーシーは自らの会社をはじめる。ウェブによって、宅配便やタクシー、そして緊急サービスまでも派遣する会社は、リアルタイムで情報をやり取りすることにも重きを置いていた。このアイデアは、「リアルタイムでステータスを通知し、ショートメッセージをやり取りする」という意味で、Twitterの原型となったが、それがブラッシュアップされることはなかった。

ドーシーはFlickrに、2000年の5月に描いたスケッチをアップしている。

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そこには、このように書かれている。

2000年5月31日、私は「ライブジャーナル」と呼ばれる新しいサービスを構想した。 (略)次の5年間、私は、このコンセプトを密かに様々なプロジェクトに導入しようとした。※4

しかし、このころの彼を的確に表すのは、やはり起業家精神に溢れた若者ではなく、「何者でもない青年」だ。

そんなドーシーを象徴的に表すのが、「鼻ピアス」だろう。現在でもラップトップにつないだヘッドフォンからはパンクが流れているドーシーだが、なんと若い頃には「鼻ピアス」まで身に付けていた。下の写真に収まっている若い頃のドーシーは、どう見てもシンプルなデザイン哲学を持った経営者とは無縁の青年だ。

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彼は、ある時自らの若い頃を振り返ってこのように言っている。

「僕はコロンビアに行っているはずだった」彼は、ハドソン川を見つめながら言った。「しかし、僕はアッパー・ウェスト・サイドではなく、ダウンタウンに行きたかったんだ」※5

彼は、あくまでもパンクを愛する若者であり、それはTwitterに出会うまでは変わることがなかった。

■内省的な青年

パンクでありながら、しかし現在から見れば驚くほどシンプルで無駄のない、そして洗練されたセンスを持ったドーシーの複雑なパーソナリティは、決して説明のつかないものではない。人前で話すことが苦手で、そして内気な少年であったドーシーは、現在でも自分自身の性格を語ることをあまり好まない。

しかし、その内省的なスタイルは、物事をより深く考察し、ものづくりに没頭していくドーシーを形づくっていくことになる。 彼は、ニューヨーク大学を中退した後、サンフランシスコにある小さなアパートに住んでいた。マーク・ザッカーバーグがFacebookを創業したのが19歳、スティーブ・ジョブズがAppleを創業したのが21歳だったことを考えると、すでに30歳を目前としていた彼が、その頃まで「何者でもなかった」ことは興味深い。

しかも、彼はその頃「Camper」という靴屋に就職しようと考えて、応募していたものの、それを断られている。Twitterを創業する直前、彼は下手をすれば靴屋のパンクな店員として一生を終えていたのかもしれない。

しかし、この創業以前のストーリーは、むしろドーシーが他のシリコンバレーのスターたちと一線を画していることを表している。彼は希代のヴィジョナリーでもなければ、天才的に人を魅了するようなリーダーでも、タフなビジネスマンでもなかった。

むしろ、彼は内省的にプロダクトづくりに集中するような人物だった。このことは、結果としてTwitterが上場までこぎつけたことを考えると、それほど悪い結末を生み出さなかったが、同社が長きにわたって複数のCEOの交代を余儀なくされたことを思い出せば、悲惨な帰結をもたらしていた可能性も否定できない。

■ノアー・グラスの物語

30歳を目前として、エヴァン・ウィリアムズと出会ったドーシーの運命は劇的に変化する。しかし、ここで素直にTwitterのサクセス・ストーリーに触れるわけにはいかない。多くのシリコンバレーの華麗な成功物語の裏に、ほとんど明らかになることのない醜悪な、あるいは悲しい物語があるように、それはTwitterにとっても例外ではなかった。

エヴァン・ウィリアムズ、ジャック・ドーシ、そしてビズ・スートンは世界で最も名前の知られたサービスの1つを生み出した驚くべき才能と努力により、その華麗なストーリーを賞賛され続けている。しかし、ここにはもう1人の人物がいた。それがノアー・グラスだ。 グラスについての物語を最初に世に送り出したのは、 米人気メディア「Business Insider」だった。※6

「Twitterの忘れられた創業者、ノアー・グラスへのインタビュー」と題された記事は、多くの人々に衝撃を与えた。そこには、グラスがTwitterのアイデアをドーシートともにウィリアムズに伝えてすぐ、(当時のOdeo社は事業が上手くいかず大いにナーバスだった)グラスたちはTwitterのアイデアとともに新たな会社をつくることになったこと、すぐにその創業者にウィリアムが就任したこと、そして、グラスはその直後の2006年に会社を追い出されたこと、などが語られていた。 Facebookの創業メンバーのいざこざは広く知られているが、こちらは現在に至るまでそれほど注目されていない。

ポイントは、こうだ。 Odeo社は、ポッドキャストのプラットフォームを目指していたもののAppleがiTunesをオープンしたことで、てんやわんやの大騒ぎとなった。代表を務めていたウィリアムズは、何か次のプロジェクトを探していたが、そんな時に持ち込まれたのが、ドーシーとフローリアン・ウェバー、そして、グラスが持ち込んだ「Twitter」のアイデアだった。

グラスとドーシーは、Odeo社において仲が良かった。ドーシーは優秀な社員だったが、Odeoで任されていた仕事には満足しておらず、2人はしばしば仕事後に他愛も無い話をしていたという。ある時、ドーシーは「テック業界を去って、ファッションデザイナーになりたい」とグラスに語り、世界中を航海することも夢だと語った。※7

そして、グラスが他にドーシーが持っているアイデアを教えてくれと言ったところ、「現在のステータスの共有」、つまり、「ベットの中にいるよ」とか「公園に行くよ」といったステータスの共有というアイデアが披露されたという。 そう、こうしてTwitterは誕生したのだ。しかし、悲劇はその後にやってきた。ドーシーのアイデアに感動したグラスは、翌日アイデアを伝えてプロジェクトの責任者になった。

ところが、これをスピンアウトして新たなTwitter社が誕生した頃に、グラスとウィリアムズの権力闘争が持ち上がった。グラスは、自らの離婚問題でナーバスになっていたというが、結局、彼は同社を追い出されたまま、共同創業者として名前が知られることは無かった。 インタビューの中で、創業ストーリーが事実とは異なっていることをどう思うか?と聞かれたグラスは、以下のように答えている。

聞かないようにしてるよ。正直ね。ここ何年かは、聞かないようにしているんだ。ちょうど2年前にロサンゼルスを出たのも、それから逃れるためだった。ノイズから逃れるためなんだ。僕は前に進めなかったからね。 自分から彼らにアプローチしたこともあるよ。ジャックとエブ(ウィリアムズ)に連絡して、言ったんだ。「僕のことも物語に含めてほしいし、ある程度は名誉も欲しい」って。メールと書類を見ながら、「こういうことも認めてほしいんだ、僕のことを共同創業者として認めてほしいんだ」と言ったんだよ。 もちろん、複雑な気持ちだよね。

Twitterという名前は、誰が考えたのだろうか?答えは、グラスだ。

■グラスとドーシー

焦点は、グラスとウィリアムズの争いに見えるかもしれない。グラスは、自らの解雇を言い渡された後に、ドーシーとバーで会っている。話を聞いたドーシーは、ウィリアムズを非難して、グラスは彼とハグした後に、家路についたという。 ウィリアムズは、このインタビューが公開された後に、以下のようにつぶやいている。

(Twitterにおいて、彼が初期に果たした役割に比して@Noahが充分に評価されなかったのは事実。そして、彼は素晴らしい名前も考えてくれた。)

しかし、NewYorkTimes紙の著名なコラムニストであるニック・ビルトンは少し異なる見方をしている。

『Hatching Twitter』で詳しく書かれてているように、「グラスはドーシーが彼を追い出そうとした人間のうちの1人であることを知らなかった」のだという。※8ビルトンは、グラスを追い出す際のドーシーの暗躍ぶりを熱心に記しているが、真実はわからない。

グラスとウィリアムズとの確執は直接的な原因であったかもしれないが、そこにドーシーがどのように関与していたのかは、当人たち以外は知ることができないだろう。 ドーシーこそがグラスを最終的に追い出せと訴えた人物だと言うビルトンの主張に対して、ドーシーはThe New Yorkerの記事で以下のように述べている。※9

「僕は最後通告を与えていない・・・決定権も持っていなかったしね。エブ(ウィリアムズ)が、意思決定をしたんだ」ドーシーは、当時のことを思い出すように言った。『エブは「僕たちはノア(グラス)を手放す必要があるかい?」と尋ね、僕は「彼の今の状態で一緒に仕事ができるとは思わない。」と答えたんだ」

おそらく、両者の言い分はどちらも真実であり、どちらも真実ではないだろう。OdeoとTwitterに投資をしたジョージ・ザカリーは、グラスがTwitterの「大きな支持者」であったが、ドーシーが「本当の中心的な創設者」だと述べており、ウィリアムズがグラスに最後通告をしたのは、「誰もグラスに対処したくなかったからだ」と振り返っている。

■解任劇

いずれにしても、グラスはTwitterから去り、ドーシーの有名なつぶやきから始まったTwitterは、急成長を遂げる。

彼らの成功物語をここで再び書き記す必要は無い。しかし、注目すべきはウィリアムズとグラスに起こったことが、ウィリアムズとドーシーにも起こったということだ。 ドーシー曰く、Twitterの成長を阻んだのは「幾度となる経営の方針転換と、度重なるシステムダウン」だった。※10

前者の問題は、まさにドーシーとウィリアムズ、そしてディック・コストロに至るまで同社がコロコロとCEOを交代してきたことが如実に表している。 CEOとして2度の資金調達を率いたドーシーは、2008年10月にウィリアムズにCEOの座を譲ることとなる。CEOから追われたドーシーは、株式の議決権行使をウィリアムズに委任し、経営の実権もないまま会長へと祭り上げられた。

彼が経営陣を追われた理由は、当時のTwitterがたびたびダウンしていたことと無関係ではない。2008年に世界金融危機がおこったことで、株主らは同社の経営が不安定で、しかも弱々しいシステムが一向に改善されないことに危機感を抱いていた。ウィリアムズによって「Twitterのアイデアを生み出した天才」と呼ばれ、2007年にCEOへと就任したドーシーには、十分な経験がなく、それまでTwitterの成長に貢献してきた彼の熱意は上手く経営へと結びつくことはなかった。

Twitterが利益を後回しにした判断は、今となっては賞賛されているものの、アメリカどころか世界中が驚くほどの不況に直面していた当時、Twitterに金をつぎ込んできた投資家にとってはドーシーの経営者としての能力に不安を抱かせる要因でしかなかった。20%の株式を有していたドーシーは、株主たちによって解任された。

もちろんそれはグラスが追い出された時よりもずっと「大人の対応」がなされたが、それでも「Twitterは僕の願いの全てだった」と語る彼は、突然CEOとしての仕事を失ったことをこう表現する。 「腹の中を殴られたようだったよ」※11

しかし、この解任劇は別のストーリーをTwitterにもたらすこととなる。

■ザッカーバーグとの出会い

ニック・ビルトンの著書の中で、最も注目を集めたストーリーの1つは、Facebookを率いる若きザッカーバーグが、Twitterを買収しようと試みたことだろう。この情報は2008年当時から報じられていたが、それでもビルトンがその内部を描いたほどには詳細は知られていなかった。

ザッカーバーグは、Twitterを「エレガントなモデル」だと考えており、「彼らのやってきたことに感銘を抱いている」と述べていたが、※12Facebookが2008年の11月に収入がほぼゼロに近いTwitterを5億ドルで買収しようとしたことはすぐに報じられた。※13

当時、この買収劇は「エヴァン・ウェリアムズは買収を断った」と簡潔に報じられただけだったが、事態はもっと複雑だった。

ザッカーバーグが、買収のためにドーシーへと接触したのは何ヶ月も前だった。ドーシーはその買収提案に興味をそそられており、5億ドルという金額も十分に現実的な数字だった。株主たちにとって「頼りない経営者」だと見なされていたとしても、つい2〜3年前までパンクな普通の青年だった彼にとっては、5億ドルの買収提案は十分に魅力的なものだっただろう。 ところが、ドーシーが追放されたことで事態は急展開を迎えた。

ザッカーバーグは、新たな交渉相手としてウィリアムズとストーンを迎えることになったのだ。結論から言うと、交渉は決裂したが、FacebookやGoogleからの買収オファーを受けていた頃のことを振り返ったウィリアムズは以下のように述べている。

一度、莫大な金と大きな勝利を投資家や関係者にもたらすようなTwitterへの買収提案が持ち込まれたことがあった。しかし、それはアップサイドを十分に捉えているようには思えなかった。我々は巨大ではなかったし、そして多くの懐疑的な声があったが、それでも我々のポテンシャルが無限大だと信じていた。※14

ウィリアムズにとって、アップサイド、つまり潜在的な成長の余地を考えた時に、5億ドルという金額が、今後のTwitterの成長を十分に織り込んでいると思えなかった。このブログの中でウィリアムズは、起業家が自らの企業を売却する際の条件として、上記のアップサイドの問題の他に、Youtubeの法的問題やPaypalの詐欺の問題などのリスクに見られる「差し迫った脅威」が存在すること、「創業者の個人的な選択」があることをあげているが、2008年当時のTwitterにとっては、どれも存在しなかったのだという。

彼はその中で、以下のようにも述べている。

Twitterの場合、我々には売却の意思がなかった。僕はCEOになったばかりで、走り出すためにうずうずしていたし、チームが皆そうだった。そして、買収を提案してきた会社が、特に我々との相性が良さそうには思えなかった。もし、そうでなければ我々は大喜びしていた。

ウィリアムズが2003年にBloggerをGoogleに売却していることを考えると、彼が売却を渋るような人間ではないことは明らかで、本当にTwitterの未来を信じていたようだ。 その意味で、Twitterからの解任劇と(すでに企業売却の経験があった)ウィリアムズのCEO就任は、Twitterとドーシー双方にとって意味があったのかもしれない。

もし、ドーシーが売却を成功させていれば、彼は短期的に多くのキャッシュを手に入れることになっただろうが、Facebookにはすぐさま「Follow」ボタンが搭載され、しばらくの間、Facebookのマネージャーとして働くことになっただろう。

それは、Squareが誕生しなかった可能性すら示唆している。

■コードネーム「リス」

Twitterを追い出されてから1日が経過した後、ドーシーはこの悲しいニュースを共有するためにザッカーバーグに連絡した。ドーシーを雇うことを考えたザッカーバーグは、Facebookの製品部門を率いるクリス・コックスとドーシーを引き合わせた。2人は、フィルズ・コーヒーで詳細な話しを進めたが、結局彼がFacebookに入ることはなかった。

しかし、ドーシーはすぐに動き出した。彼は一瞬VCに就職することも考えたが、結局は断念した。そのかわり、彼は現在最も広く知られている2つ目のスタートアップを興すことにした。それは2008年末の解任からわずかしか経っていない翌年2月に始まった。それは後に、「Square」と呼ばれることになる。

2009年5月、ドーシーは自らの新たなプロジェクトについて以下のようにツイートした。

(新しくて、そして全く異なるものに着手する準備をしている。興奮!) この動きには多くの人々が注目したが、その全容はしばらく明らかにならなかった。

しばらくすると、そのプロジェクトのコードネームが「リス(Squirrel)」であるということ、そして新たなデバイスとiPhoneアプリによって、カード決済を容易にするものであることなどが報じられるようになった。5月においては、この新たなプロジェクトのデバイスが「ドングリのようなもので、それゆえにコードネームはリスと名付けられた」と書かれている。※15

ドングリ時代のSquareをドーシーはTwitterで公開している。それは、キーホルダーに取り付けられるような可愛らしい形をしたカードリーダーが試されていたことを示している。

そして、その頃のロゴがこちらだ。

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しかし、完成したデバイスはドングリと似ても似つかないものだった。

そこから半年ほどが経過し、ドーシーはSquareのサイトを公開した。

それは、その名の通り「四角い」デバイスだったのだ。

■Squareの誕生

Squareでクリエイティブ・ディレクターをつとめるロバート・アンダーソンは、プロジェクト名「リス」が「Square」へと生まれ変わった瞬間をTwitterで公開している。

アンダーソンとのSMSによると、2009年の7月にプロジェクト名「リス」は、「Square」へと生まれ変わった。ただし、アプリの構想はドーシーが描いていたものそのままだった。彼は、Twitterでもそれをスケッチしたように、Squareの構想を描いている。※16

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このプロトタイプに見られるSquareの構想は、初期からほとんど変化していないことが分かる。一貫した彼のアイデアはどこからやってきたのだろうか?その答えは、ジム・マッケルビーが知っている。

セントルイスにある「 Third Degree Glass Factory(TDGF)」という吹きガラスの企業の創業者であり、ドーシーの古くからの友人であったマッケルビーは、Square以前から起業家精神に溢れた人物だった。彼は、大学時代にプログラミングの教科書を執筆しており、その後もTDGFや「Mira Digital Publishing」などいくつかの企業をはじめている。 吹きガラスの販売をおこなう上で、マッケルビーにとって顧客のクレジットカードに対応できないことは大きな痛手だった。

特に、彼が2000ドルの高価なガラス細工をある女性に販売しようとした時、彼女は喜んでそれを購入しようと思っていたが、カード決済が出来ずにそれを断念した経験は苦い経験として記憶されていた。

クレジットカードの決済システムを導入することは小さな販売業者や個人事業主にとって決して容易ではないが、マッケルビーから悩みを聞いたドーシーは、その問題解決を考えるようになった。 Twitterの初期の物語のように、誰が「本当の発明者」かという問いかけは、Squareに関しては無用だ。そのオフィシャルサイトには2人の名前が刻まれているし、実際に2人はドーシーの小さなアパートをオフィスとしながら、会社をはじめたのだ。

■学び、学び、そして学んだ

ここで、Twitterが世界の何を変えたのかを語る必要がないように、Squareがどれほどインパクトのある事業となるかを語る必要は無い。ジャック・ドーシーとは誰か?を問いかける上で、「天才」や「シンプルなデザイン哲学」という枕詞よりは、「いかにしてヒッピー青年は、一流の経営者へと変化したのか?」というキャッチフレーズの方が相応しい。

TwitterとSquareというシリコンバレーの花形企業を生み出したドーシーについて語る際に、彼の一貫して優れた才能を強調することは決して誤りではないだろうが、それは彼の「変化」を見誤ることになるだろう。

ダウンタウンのヒッピー青年は、世界で最も急成長した企業の中で、あっという間に一流の経営者へと変化した。 彼は、初期のTwitterから「なにをやってはいけないか」を含めて多くのことを学んだという。ドーシーは、Twitterで起きたこと全てを書きとめ、そして過ちを正していったという。※17

この習慣が事実かは分からないが、少なくとも彼はそのくらいの変化を自らに起こした。 ドーシーが変化したことは、彼が「障害のある」ビジネスにも手を出せるようになったことを意味していた。Twitterがどれほど世界規模のサービスになったとしても、それを真正面から規制しようとする国は少ない。

しかし、それが決済サービスとなると話しは別だ。彼は「実は、我々が最も頻繁に聞いた言葉はナイーブだった」※18と回想するが、CEOとしての仕事を理解していたドーシーは高度に規制され、あまりにも複雑な市場へと殴り込む準備はできていた。2011年1月、彼らはJPモルガンとVISAという金融界の巨人から2.5億ドルの評価で出資を受け、翌年8月にはスターバックスというSquareのブランドにぴったりの巨人と提携をおこなった。そして、同社のハワード・シュルツCEOが社外取締役として加わったSquareの経営陣には、他にもSun Microsystem創業者のヴィノッド・コースラや元財務長官のローレンス・サマーズらが名を連ねている。

これは、創業者であるドーシーが完全に大人の経営者へと生まれ変わったことを意味しているだろう。彼は、厳しい業界で勝ち残るため、タフで一流の企業をあっという間につくりあげたのだ。経営者としてのドーシーをFacebookのザッカーバーグは、こう表現している。

創業者として最も難しいことは、企業の成長に従ってそのヴィジョンを保ち続けることだ。ジャックは、それがクリアで、一貫している。※19

2人は定期的に夕食を一緒にする中で、その場合はザッカーバーグが手料理を振る舞う。

■「くたばれ、イブ」

Squareで快進撃を続ける中、ドーシーはかつて追い出されたTwitterの変化も間近で眺めることとなった。自らがそうであったように、エヴァン・ウィリアムズもCEOの座を奪われようとしていたのだ。2009年を通して、Twitterは急成長を遂げた。

この年の4月、俳優アシュトン・クッチャーが初めて100万人のフォロワーを獲得した。彼はCNNのアカウントとフォロワー獲得競争をおこない大きな注目を集めたが、それ以上に2009年6月12日におこなわれたイランの大統領選挙に抗議するデモに際して用いられたTwitterの役割には世界中が関心を示した。

「ソーシャルメディアが民主化を促進した」という神話を信仰するのには、十分に慎重になる必要があるが、それでもアラブの春にかけての一連の中東情勢などは、これまで「おしゃべりの」場所に過ぎなかったTwitterを飛躍的に「信頼できる」メディアへと変化させた。その年、Insight Venture Partnersなどから1億ドルの調達をおこなったTwitterは、ウィリアムズらをフロントマンとして、勢い良くメインストリームに上り詰めていたのだ。

ところが、翌年10月になり、突然CEOをディック・コストロへと交代するというアナウンスがあった。ウィリアムズは、Twitterのブログの中で「新たなTwitterを生み出し、それに満足していることから」、これまでCOOであったコストロにCEOの役割を譲ったと強調した。

わずか2年間で20人ほどだった従業員が300人にまで増え、ウィリアムズは製品戦略へと時間を割けなくなったことから、自身の時間をサービスの方向性などの戦略に費やすために、経営コンサルタントやGoogleにおける広告部門のマネジャーなどの豊富な経験があるコストロにCEOの座を譲った、という説明は納得感のあるものではあったが、多くの人は懐疑的だった。

例えばビズ・ストーンは、ウィリアムズに起きたことは、それがどのような形であれドーシーの手によるものではないかと考えている。自らが経験した仕打ちを今度はウィリアムズに、というわけだ。この真実も実際のところはよく分からない。ドーシー曰く、自身は意図的にウィリアムズの退任を図ったことはなく、そもそも自分が議決権のない会長であり、ウィリアムズは最大株主であったのだから、そのようなことは出来ないという。

しかし、それでも彼はNew Yorker誌のインタビューで、珍しくその心境を明け透けに語っている。

「くたばれエブと思っていたか?心情的にそれを望んでいたかって?わからないけど。たぶんそうだ」※20

■デザイン哲学

2010年から2012年までSquareは順調に成長してきた。ドーシーのTwitterにおける成功が「まぐれ」ではないことが分かると、多くの人が彼の言動に注目するようになった。「第2のジョブズ」、「デザイン哲学を持った天才」、はたまた「わびさびを理解する起業家」など数多くの枕詞が生まれ、彼の言葉を御神託のごとく扱うようになった。

「第2のジョブズ」を最初に口にし始めたのは誰だったのかは明らかではないが、Business Insiderの議論は注目を集めていた。※21その記事では、文字通りドーシーがアップルの後継者になる可能性にすら触れており、いずれにしてもドーシーが「スティーブのような完璧主義とユーザーフレンドリー志向に取り付かれている男だ」と評している。TwitterとSquareを率いているドーシーをAppleとPixerを成功させたジョブズになぞらえる見方を擁護する声は少なくない。

こうした見方には、彼のデザイン哲学も大きく関係している。ドーシーは珍しくテック業界以外にも投資先を持っている。それは、「Sightglass」だ。

2009年に創業された新しいショップながらも、サンフランシスコの4大コーヒーと称され、オシャレな店内と質の良いエスプレッソを提供することで知られるこのショップは、ジェラード&ジャスティン・モリソンという兄弟によって生み出された。

ここでは、Squareがまだ試作品の段階から利用されており、彼がそのデモをおこなった店としてテック業界でも広く知られることとなった。

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(Photo : www.tankchop.com)

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(Photo : laughingsquid.com)

なぜ彼がコーヒーショップへと投資をするのか?という疑問への答えは、この様に語られる。

ドーシーは、バリスタ(商売人)とコーヒーを飲む人が相互作用的な取引をおこなう「交差点」をより理解するために、投資をおこなった。※22

このことは、しばしば語られるストーリーだ。実際に、彼はこの店にも足繁く通い、Squareの新たなオフィスの中にもコーヒーショップが設けられ、顧客と販売者の関係が体験できるようになっているという。彼は、単に決済システムを変革するのではなく、商取引の体験をすべてリ・デザインしようとしているのだという物語は、もはやSquareのキャッチフレーズになりつつある。

彼が、現実のオシャレなカフェに投資し、その場所でSquareのユーザー体験を向上させるインスピレーションを得ているというストーリーは、しばしば喜んでメディアに取り上げられる。彼はあたかもアーティストのように自らを語り、そしてそれがドーシの複雑性をより一層際立たせている。

■アーティスト?戦略家?

こうしたドーシーの複雑な振る舞いについて、まるでアーティストと起業家が融合した希代の天才と見るか、あるいは彼の作り出す緻密なストーリーの一部と見るかは意見が分かれる。

ドーシーはしばしば一貫したストーリーを作り出すことに関して、天才的な才能を発揮する。TwitterとSquareを貫く一貫した思想について、彼はこのように言っている。

オブザーバー、そしてテクノロジストとしての自分の役割は、この世界で起こっている全ての事をリアルタイムで把握し、そのデータをすぐに入手できるようにすることだ。そうすれば、我々は自身の生活をより良い知識とともに素早く変化させることが出来る。

しかし彼は、昔から移り気の多い青年であったことは多くの人が認めている。ジーンズ職人やファッションデザイナー、そしてある時にはニューヨーク市長にも憧れていた男が、マッサージセラピーのライセンスを持っていることはよく知られている。

そんな彼が、140字の言葉であっても、商取引であっても、「人間同士のコミュニケーション」という共通の問題に興味を引かれているというのは、あまりにも出来すぎた物語のように思える。彼の性格は自らこのように語っている。

私は、一度もエンジニアになりたいと思ったことはない。プログラマーにも、そして起業家にも。私は、自らがつくりたいとおもったものをつくるために必要なツールがそれだったために、何事もはじめるんだ。※23

おそらく、彼が自らの内部にあるアーティスト的な性格と、経営者としての要件を調和させるために、こうしたストーリーを後から意図的に生み出しているのは事実だろう。しかし、それは当初から備わっていた彼の才能を見事に自制させることによって成り立った離れ業なのだ。

加えて言うならば、彼はその才能によって自らの首を締める可能性も十分にあった。そのことをドーシーは認めないだろうが、彼はあまりにも多くのヨガやスカート作りをおこなっていたためにTwitterのCEOを解雇されたと考える人々もいる。実際にビルトンは、「あなたはドレスデザイナーか、TwitterのCEOのどちらかになれる、両方ではない」とウィリアムズがドーシーに伝えたことを描いている。※24

もちろんこれが解雇の全ての理由ではないだろうが、それでも彼がストーリーテラーとしての立ち位置を見つけ、ジーンズやファッション、そしてわびさびを語ることで、自らの神秘性を高める武器とするまでには多くの時間を要したことは事実なのだ。

しかし、彼はそれに成功した。

■ジャック・ドーシーというプロダクト

これまで見てきたように、ジャック・ドーシーは確かに神秘的な、一種独特のカリスマ性を身にまとった起業家かもしれない。しかし、これまでのストーリーを見ることで、そのユニークなスタイルは、元来彼が備えてきた才能ばかりではなかったことに気づくだろう。

ダウンタウンのパンク青年であった彼は、たしかに内省的な青年であった。彼のTwitterを生み出した神話が、真実であるか否かは別として、彼がアーティスト気質の人間であることは確かだろう。

しかし一方で、彼はTwitterの経営を任され、そこを追い出され、そして復活を遂げたことで、そのアーティスト性すらも見方につけるようなカリスマ的な起業家というポジションを確立しつつある。彼が希代のストーリーテラーであることは疑いないが、それを十分に計算し尽くされた戦略として発揮できるようになったことで、彼は本当の「経営者」になりつつあるのだ。

「ジャック・ドーシがつくりだした最も偉大なプロダクトは、ジャック・ドーシだ」

彼をナルシストだと見なすビルトンの強烈な皮肉には、賛否がわかれるところだろうが、それはある側面を的確に表していると言える。

1つは、インテルの3番目の写真として知られるアンドリュー・グローブの言葉「シリコンバレーではパラノイアだけが生き残れる」が真実であるとすれば、ドーシーもまたパラノイアであり、彼が自らとその製品に偏執することはなんら不思議ではないという事実だ。

そして、もう1つはジャック・ドーシーが生み出した人物は、偉大な、そして新しいタイプの起業家になる可能性を秘めているという事実だ。文字通り、多くの希有な経験によって生み出されたジャック・ドーシは、これまでのパンクで内省的な青年であるだけではなかった。彼は、そこから典型的な経営者に変貌するどころか、それは自らが元来有していたアーティスト性や神秘性を強烈なブランドとして付与することで、新しい起業家像を生み出しつつある。

彼の新しいスタイルは、成功するのだろうか?それは分からない。Twitterの上場は今のところ上手くいったようだが、それが未来永劫続くものかは誰も知る由がない。また、Squareが本当に2014年の上場を成功させることができるのかも、まだ先の話しだ。

そもそも、2社の成功とドーシーをそのまま重ね合わせることはできるのだろうか?

私たちは、これらの答えを未だに知らない。しかし、確かに言えることはジャック・ドーシというプロダクトはあまりにも魅力的であるということだ。彼が、Twitterで時折不思議なツイートをすることも、有名人に脈絡無く不可解なリプライを飛ばすことも、彼の魅力だ。むしろ、そんなところに他の名だたる起業家とは異なるドーシーの特殊なキャラクターが垣間見える。

その意味で、彼が今後自ら会社をどのような方向へ持っていくとしても、彼が変化し続け、そして私たちを楽しませてくれることは変わらないだろう。それは何よりも興味深い"プロダクト"なのだから。

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