都議会選挙の結果と「中間共同体」のちから

「選挙結果がマスメディアの報道に流れる状況は不健全だ」しかし「テレビが視聴率を稼ごうとする(※多数派の心を動かそうとする)のは、悪いことではない」......では、民主主義の前提を取り戻して、健全化するにはどうすればいいだろう。そのヒントが、今回の選挙結果にあると思う。
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東京都議会選挙は、自民・公明の圧勝、民主党の第4党転落という結果に終わった。この結果については、まあ、おおむね想像通りだ。最近の日本の選挙では、テレビの応援している側が勝つ。だからテレビや新聞――マスメディアの報道にざっと目を通しておけば、選挙結果も予測できる。今回の選挙結果は、ある一点を除いて驚くに値しない。

現代日本の「テレビ政治」 ‐dongfang99の日記

1990年代初めくらいまでは、テレビで政治動向が理解できるということは基本的になかった。「利権政治家」と呼ばれてテレビで連日叩かれている人物が、いざ選挙になると圧勝で当選というのは、田中角栄に限ったことではなく、どの地域でも極めてありふれた光景であった。1989年の消費税導入を巡っては、テレビでは賛成派はほとんど「非国民」の扱いであった

「テレビの応援している側が勝つ」というのは、民主主義のあり方として健全ではない。

今回はたまたま自民党が勝ったが、マスメディアの気持ち次第で選挙結果が変わってしまう状況は、民主主義の前提を脅かす。勘違いされたくないのだが、私は自民党の勝利に疑義を抱いているわけではない。私たちの社会のあり方・政治のあり方を問うている。

論理的に考えて、「多数派であること=正義」とは言えない。

もしも多数派が正義だとしたら、多数派のプレイステーション派が正義であって、少数派のセガサターン派だった私は悪になってしまう。支持者が多いかどうかは、正義であるかどうかとは関係がない。ナチス政権下のドイツでは、ユダヤ人を迫害すべきという考え方が多数派だった。「子供」という概念が再発明される以前の中世ヨーロッパでは、子供に教育を施すべきだという考え方は少数派だった。正義のあり方は、時代によっても人によっても違う。いずれにしても、「正義かどうか」は数の過多とは関係がない。

しかし民主主義の社会では、多数派を正義として扱う。なぜなら、多数決よりも適切な正義の基準が無いからだ。「多数派だからといって正義だとは限らない」ことを認めつつ、次善の策として多数決を使っている。最大多数の最大幸福。ベンサム先生の出番だ。

だからこそ、マスメディアに多数派が流れる状況は不健全だ。

多数派の人間がテレビの言うとおりに行動するのなら、多数派が正義なのではなく、テレビが正義だということになってしまう。

ではマスメディアを悪者にすればいいかといえば、そうでもない。テレビはテレビで視聴率を競わないと健全な報道ができなくなる。視聴率の競争がなければ、誰も正しい報道をしようなんて思わなくなる。現在でさえ「誤報」や「飛ばし」が問題視されている。もしも視聴率の競争がなくなったら、そうした問題はいま以上に深刻化するだろう。視聴率を獲得するためにマスメディアがしのぎを削るのは、基本的には、報道を正確で健全なものにする。

だからテレビが「視聴率を稼ごう・多数派の心を動かそう」と努力するのは、悪いことではない。テレビを悪者にして叩いても、テレビは変わらない。何も解決しない。

「選挙結果がマスメディアの報道に流れる状況は不健全だ」しかし「テレビが視聴率を稼ごうとする(※多数派の心を動かそうとする)のは、悪いことではない」......では、民主主義の前提を取り戻して、健全化するにはどうすればいいだろう。

そのヒントが、今回の選挙結果にあると思う。

今回の選挙結果はある一点を除いて驚くに値しないと、私は書いた。

では逆に、驚いた一点とはなにか?:それは共産党の議席が倍増したことだ。

共産党といえば、ここ数年は選挙のたびに議席を減らし、影の薄い存在になっていたはずだ。ここにきて現有8議席から17議席に数を増やし、民主党を超えて第3党になるとは思わなかった。それだけ民主党が大敗を喫したとも言えるが、しかし「民主党が議席を減らした」からといって、共産党が議席を伸ばした理由にはならない。共産党以外にも政党はあるのだ。

とくに社民党の零落ぶりには驚かされる。党員たちは認めないだろうが、共産党と社民党は政治指針や政策がほとんど同じだった。にもかかわらず社民党の獲得議席はゼロで、共産党とは対照的だ。そもそも今回の都議会選に、社民党は公認1名・推薦1名の候補しか出していない。激戦区での選挙戦に敗れ、両名とも当選を果たせなかった。

社民党がここまで力を失ってしまったのはなぜだろう。

また、共産党がかろうじて力を維持し、議席数を増やしたのはなぜだろう。

ここから先は完全に先入観とイメージに基づいた話になる。詳しい実情をご存じの方がいたら、ぜひコメント欄で指摘してほしい。

これは完全にイメージでしかないが、共産党は山谷や西成みたいなドヤ街にも平気で入り込んで、食うや食わずやの生活をしている人をサポートしている印象がある。障碍者施設や福祉施設、病院にも入り込んでるイメージだ。ためしに「共産党」「相談」などで検索してみると、労働問題などの相談窓口を全国に設けているのが分かる。今まさに困窮している人に、直接、援助の手をさしのべているようだ。

一方の社民党は、もう少しインテリ向けなリベラル左派というイメージがある。貧困層向けの援助をやっていないはずはないだろうが、しかし共産党ほど組織的で大規模なものではなさそうだ。

もしもこのイメージが正しいのなら、議席の差はそういうサポートや支援の差から生まれたのではないだろうか。「あのとき世話になったから」という感情は票に直結する。地方の農業従事者が自民党を支持しているのも、同じように「世話になったから」という感情だろう。「あの先生はこの村に高速道路を引いて、都会からお金を落としてくれた」だから「世話になった」......そういう感情が、支持基盤を作るのだろう。

2013年東京都議選の簡単なデータ分析 ‐ 菅原琢/ハフィントンポスト

(共産党は)得票数、絶対得票率は低下しているが、投票率の下落のおかげで相対的にポジションを上げ、議席を倍増させることに成功している。ネット選挙運動解禁を前にして皮肉なことだが、昔から根を張った組織選挙が有効だったという結果である。

いわゆる「どぶ板選挙」が効果を発揮するのも、同じ理由からだ。公職選挙法では個別訪問が禁じられているが、家の外にいる人に声をかけるのは違法にならない。だから候補者たちは住宅街を練り歩き、有権者と握手して回る。「私と握手してくれた」という感覚。「あの先生の顔を私はよく知っている」という感覚。そういう感覚が票に結びつくから、「どぶ板選挙」はなくならない。

2012年末衆議院選挙雑感 ‐ 極東ブログ

どぶ板が直面しているのは、もっと具体的な困窮であり、カネ回してくれよ、仕事流してくれよ、ということである。庶民の現実の生活は、けっこう苦しいということが、国のレベルで理想を語る政治家さんや市民運動家さんはわかっておらんのです。

「あのとき世話になったという感情が政治を動かす」という話は、公明党が票を集める理由にも通じているだろう。公明党の支持母体は某宗教団体だが、信者間の相互扶助がかなりすごい。困ってる人がいたら絶対に放っておかない。宮台真司先生の言う「中間共同体としての宗教」そのものだ。

今回の都議会選挙で共産党が議席数を伸ばしたのは、組織的な援助・サポートによって「中間共同体的な何か」を作ることができていたからではないだろうか。反面、惨敗を喫した他の党は、そういう「何か」を構築できていなかった。「あのとき世話になったから」という感覚を有権者に持たせることができず、集票できなかったのだろう。

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都議会選挙で共産党が第3党になった理由は、ほかにもたくさん考えられる。

たとえば民主党は投票率が上がらないと議席も伸びない。一方、共産党や社民党のような零細野党は、投票率が下がると議席が伸びて、投票率が上がると議席が減る傾向にある。今回の都議選は投票率がとても低かったので、その部分では共産党に追い風だったのかもしれない。しかし、それだけでは共産と社民の差を説明できない。

また地方では「左派だけど共産党は遠慮したい」という人が一定数いるのに対して、東京はリベラルな人が多く、そういった嫌悪感・忌避感も少ない......のかもしれない。さらに選挙の直前になってみんなの党や維新の会がゴタついたことも、共産党にとっては追い風だった。

繰り返しになるが、各党の活動内容や支持基盤については、あくまでもイメージにすぎない。実情を詳しく知っている人に、ぜひ教えてもらいたい。

とはいえ、各党の活動内容がイメージにすぎないとしても、「マスメディアの報道に選挙結果が左右されている」「しかしマスメディアが大衆の気持ちを掴もうとするのは悪いことではない」という議論は変わらない。さらに「あのとき世話になった」という感覚が集票に結びつくことも、たぶん、まあ、事実だろう。

以上の話をまとめれば、「テレビの応援している党が勝つ」という状況から脱するために必要なのは、「中間共同体を構築できるかどうか」なのかもしれない。ここまでの議論を前提として共有できて始めて、「では、どうやって中間共同体を作るか?」という論点に移れる。

「新しい中間共同体の形とは?」

たぶん、現代を生きる私たちは1000回ぐらい自問自答したほうがいい。