すべての政治は失敗します。それが何か?

どうしてそんなに政治を特別な人間の活動だと決めつけるのか?
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Issei Kato / Reuters

<それぞれの選択と失敗>

 政治とは「選択」である。私欲を満たそうとするにしろ、逆に私心を捨て人々に尽くすにしろ、「自分の価値観レンズで世界を眺め、好ましい現実を選び人に伝えること」である。

 首相は解散を強行する「選択」をした。小池東京都知事は、新党で政権選択選挙の体を作ろうと「選択」した(はずだ)。前原民進党代表は、自党が静かに瓦解するのを見過ごせず希望の党への移行を「選択」した。

 リセット解散に出た首相は、改造内閣からたった一ヶ月で議会審議を封印させ、多くの批判を浴びた。小池知事は、民進党議員を部分的に「排除する」と発言し、再度国政の場に挑む決断を「しない」判断をしたことで、急速に人々の期待を冷却させてた。前原代表は、伸び悩む低い支持率を懸念し、座して死を待てないと突風に踏み込み、結果として虎の子の議席を液状化させ、野党を破壊した戦犯として怨嗟の的となっている。

 各々の選択は、結果とともにその失敗が言い渡される。首相の解散の判断ですら、選挙の結果がたとえ勝利であろうと、永遠の権力などない以上、いつか「あの時の選挙で強力な野党の再編の契機を与えてしまった。失敗だった」とされるかもしれない。

<すべての政治は失敗する>

 評価は事後的に現れる「だから言ったではないか!」と。しかし、これは政治の世界においてはルール違反の発言である。なぜならば、これは政治的判断の「後」に神の視点から世界を鳥瞰して逆算して過去を断罪しているからだ。そして、この断罪は政治に生きる人間の逃れることができない以下の条件を無視している。

 「政治におけるあらゆる判断と決断は、不完全情報の下で行われざるを得ない」

 「外部の世界のことは正確に理解できない」ことと、「自分が何を考え欲しているかについてすら確実な知識を持ち得ない」ことを条件に、人間は政治的判断をせざるを得ない。

 世論調査も見ても野党の復活の目はない。側近の報告もすべて自分に追い風だ。だから解散を判断した。しかし、議席を減らすかもしれない。

 都議会選挙で、長年権力を私物化してきた者達を一掃した。一週間で潮目を変えた。自分に逆らう分子は全部パージして新党を立ち上げた。しかし、「排除する」の一言で突然逆風となった。

 都知事は「党丸ごとで来てください」と言った(と思った)。党内論議をする時間はなかったから代表に一任を取り付けて決断した。しかし、踏み絵と選別が待っていた。長年の同志を窮地に追い詰めてしまった。

 これらすべては政治の失敗である。そして、その失敗は神の視点で批判される。

  しかし、不遜にも神の視点を持つ者達に言いたい。

 「すべての政治は失敗するのだ」と。

 現場で風圧を受け、落選や失脚によって失うものに怯え、それでも結果を求められる政治家が背負っているものは、インターネットで「いいね!」と「シェア」をして、仲間の言葉で現実をイメージし、ただの一滴も汗を書かず、一時の感情をこじらせる「いつの間にか神様になった有権者」とは立場が異なる。

 それは不可避的に失敗を招く選択をしなければならない人間と、自分たちがした選択(誰を支持したのか、どの政党を応援したのか)の落とし前を一切つけないで、政治劇場の傍観者でいられる人との違いである。失敗はあいつらがした。我々は正しいはずだと。

<職場では大人、政治家相手には子供になる人たち>

 不思議なことに、政治が無慈悲に突きつけてくる失敗は、このように自分とは無縁だと考えている人が少なからずいる。しかしそんなはずはない。なぜならば、こうした敗北と失敗はもはや普通の大人は自分でも、もう経験済みのはずだからだ。

 我々大人は、会社で、町会で、PTAで、幼稚園の保護者会で、すでに様々な政治的な「選択」をして、大量の敗北と失敗を繰り返しているはずなのである。

 次の部長は誰になるのか?強引に仕事を進めるが結果を出す武闘派の課長なのか?みんなの気持ちに添うように配慮と調整を欠かさない気配り派の課長補佐なのか?どちらの腹心となれば、この先の会社員生活が安定するのか?常に考え、柔軟に態度も変え、その場その場で嘘は嫌だが方便ならいいとばかりに「リアルな判断」を積み重ねているではないのか?そして失敗とともに。

 休日の時間を奪うPTAの活動に鬱陶しさを感じながら「やめます」と宣言するコストは高く、それゆえ全国何百万というパパとママは「どうしたら一番負担の少ない役職で済ませ、かつそこそこ熱心にやっているというイメージを維持できるか?」に心血を注ぎ、舌を巻くほど狡猾な立ち振る舞いと巧妙なる「分担配分システム」を考案して、実に成熟した大人の政治「選択」をしているではないか?常に失敗とともに。

 大人は、どこかで「すべての政治は失敗する」ということをもうわかっているのである。

 大人は、もうすでに政治という「選択」を成熟させているはずなのである。

 イェス!ウィー・キャンだ。

 それなのに、どうして多くの者達が政治家という「選択をする人たち」に向かい合った瞬間に、子供じみた、清純な、ピューリタンへと豹変するのであろうか?

 どうして「自分が同じ立場にあったなら、あの人と同じことができただろうか?」と考えずに、「あんな古狸にどうして騙されたんだ!」と非難し、「あんなイカガワシイ団体の人たちと関係があるならもう支持しない!」と汚れなき自分を人間の基準にするのか?

 どうしてそんなに政治を特別な人間の活動だと決めつけるのか?

 特別ではない我々大人は、もうすでに毎日適当に汚れた政治をやっているのに!

<「大人=擦り切れた人間」ではない>

 心の師である、今は鬼籍にある政治学者が、政治をわからぬ自分に30年前に宿題を与えてくれた。それは「政治に進歩はありうるのか?」という巨大な問いである。

 筆者はここで、人は政治をやって「手練れの大人」になるのだという人間修行の俗話をしているのではない。人間修行が「運命を受け入れる」ことを指すならば、政治は、ひたすら現実に従属する、暴風に身を晒す落葉のような人間ではなく、「運命に逆らってでも立ちつくし世界を選び取る」という主体的作為である。どうして運命に逆らえるのか?それは純度を保った思想的格闘が基礎にあるからだ。二者択一ではない。

 これは「政治と思想は峻別されながら守られねばならない」という意味である。

 軍事力を放棄し、平和に共生するための条件とは何かを考え抜くという思想的鍛錬は継続させねばならない。だが世界指折りの軍事組織が駆け付け警護に行くのに、軍の規律を守る軍法もない現実(憲法9条はそれを放置する)にどう対応するかという政治は、思想と同じ次元にはない。

 そして「海兵隊の背後に利益集団がいて、かつ外務省が完全降参だから沖縄の基地を移す政治的ハードルが高い」のなら、思想の宣明ではなく政治判断をすべき政党が「沖縄からの基地の撤去」と選挙公約に書くのは誤りである。「当面は日米地位協定の改善に尽力」と書くのが政治である(それでもまだリアルまでもう一歩だ)。

 こう言うと「お前はそうやって既成事実に屈服し、手を汚し、70歳になった頃には"日本も核武装を"と言うんだよ」と返されるだろう。しかし、そういう政治と思想の区別がわからない白髪が生えた子供にはこう言い返すしかない。

 「武器なき世界を構想するという思想的練磨をすることで、簡単には屈服しない政治的リアリズムを人々と共有できるはずです」と。

 政治は政治である。思想は思想である。そして、思想を磨き続けることが賢明な、リアルな「よりマシな地獄」と「まだマシな失敗」と「明日につながる敗北」を選択する政治の基盤となる。政治か思想かではない。どちらも同時にやるのが大人だということだ。

 だから大人になるとは、理想を忘れることではない。キラキラとした思想を育む最中、同時に突きつけられる政治的判断を「失敗することを前提に」なしうる、そしてその帰結を逃げることなく受け止め、かつ千万の言葉で説明し、それを持って責任を取る人間になるということだ。

 意味不明な解散会見も、慇懃無礼な笑顔の排除発言も、焦土を前にした想定内発言も、その政治的失敗「ゆえに」非難されるべきなのではない。誤解してはならない。

 彼らの言葉が、ちゃんとした説明となっていない、豊かな言葉を残さない、ゆえに続く者がそこから何も学べない「から」批判されるべきなのである。

 このように考えた時、まっとうな大人は「こんな選挙はくだらない。棄権することでそういう意志を可視化しよう」などという子供の理屈など、瞬時に無視すればいいのである。

 子供は政治に口を出してはいけない。