Phaさん的ニートと天才は紙一重。どう使うかは社会の責任。

知ってる「界隈」の人はみんな知っている、知らない「界隈」の人は誰も知らないネットの有名人。ご存知ですか。

知ってる「界隈」の人はみんな知っている、知らない「界隈」の人は誰も知らないネットの有名人にPhaさんという人がいるんですよ。

「日本一有名なニート」とか言うキャッチフレーズで、

・ブログやウェブサービスのアフィリエイトでそこそこに稼ぎながらほぼ無職状態でもう10年以上、今39歳

・ギークハウスというテックオタク系の人が集まるシェアハウスを主催

・しょっちゅう「働きたくない」とか「だるい」とかを露悪的に言いまくる

・彼を慕って相当個性的な人たちが集まっている

みたいな感じの人です。

っていうか最近はニートと言いつつウェブ連載もしてるし本ももう何冊も出てるし、ニートとは言えなくなってるんじゃないかという感じですが、ある種の

「今の社会のせせこましさからはじき出されてしまった人たちがどう生きるか」についての思想家みたいな感じのキャラクターとして受けとられている人

・・・ということになります。

彼は僕と同い年で、彼は大阪、僕は神戸という関西出身、ほぼおなじ時期におなじ京都大学にいて(学部は僕は経済、彼は総合人間学部)、実際に会ったことはないけどメールではちょっと話したことがあるんですが、やってることの志向性がちょっと似てる(現代社会のせせこましさを補完するような何らかの新しい視座を提供したい・・・といような)ので、向こうからこっちがどう見えてるかはわかりませんが僕からは結構気になる存在で。

で、先週と今週、彼と彼のまわりの「面白い人たち」を何年も密着取材したドキュメンタリーがフジテレビでやってて、先週も見たんですが今週のは凄い良くて、なんか最後の方になってジーンとなって泣けてきたんですけど(笑)

感動した思いを書き記したいので、

・このドキュメンタリーの何に感動したのか?

・Phaさんがやっていることの意味はなんだろうか?

から入って、最終的に

・Phaさん界隈にいる人を社会はどうやって包摂したり活かしたりすればいいのか?それは社会の側の責任ではないか?

という話をします。

●以下本文●

Phaさん以外の裏主役として出て来るのが小林銅蟲さんという今は漫画家としてプロになってる人なんですけど。

先週分では本当に社会不適合を絵に書いたような兄ちゃん(この人も僕とほぼ同い年らしい)で、行き場を失って困窮してるところに、ネットで書いてた漫画のファンになった女性に「ウチに来なよ」と言われて同棲を始めて、養われながら延々漫画を書き続けるみたいな感じだったんですが。

特に先週分の番組内で「我、いかに働くのが苦手か」みたいなことを滔々と語ってるところはなかなか迫力ありました。

「人に怒られるのがキライで、何かを注意されたりするともうそれで拒否反応みたいになっちゃって続けられない。だから自分は働けない」みたいなことを一切の悪びれ感もなく淡々と述べてる感じがなんか凄い逆に痛快で。(いやちょっとは申し訳なさそうに言おうぜそれ・・・とジョーシキ人のツッコミを入れそうになるが、しかし"いやいや、だって嫌だよねえ!"みたいな 笑)

ともあれ先週の番組ではそういう「明らかに社会でやっていけそうになかった」彼が、カナエさんという女性に助けられて同棲しつつ家事を担当しながら延々「読者のためでなく自分のための漫画を書き続け」、今週分の番組内ではその漫画を見たプロ漫画家さんが「メインアシスタント兼まかない食シェフ」として雇う・・・という縁で働き始め、その面白い経緯に着目した編集者の人に見出されて講談社の雑誌イブニングに連載持てるようになり、単行本を二冊出せて、経済的にも安定してきて、ついに、ずっと支えてきたカナエさんと結婚した、じゃあギークハウスでそのお祝いをしよう!・・・っていうストーリーとそのお祝い会のシーンがなんかほんと良かった。

っていうかこの小林銅蟲って人、やたら所作がカッコイイです。

特に漫画書く時の筆の動きとか、パソコン操る時の動きとかが顕著なんですが、それ以外にもヘンなメニューのまかない飯を作ってる時に色んな肉を喜々として裁いてる時とか、さすがに人生生まれてこのカタ他人に何か指示されたり怒られたりした瞬間に即座にすべて拒否反応みたいな感じで生きてきただけあって(笑)、自分の身体所作に対して迷いってもんがないというか、他人へのそれこそ「忖度」的な要素を精神の内部から排除して成立しているような動きというか。

つまり確信を持って「ズバッズバッ」と動く(それと普段のヌボーとした動きとの対照的な対比がなかなかイカス感じです)。

こういうのって1つの「才能」で、

自分の精神のモジュールが独立して存在していて、その内部での独自の精緻な判断・行動メカニズムみたいなのが確立しているので、他人との上っ面のコミュニケーションが逆に苦手になるみたいなタイプ

なんですよね。

だから、その「モジュール」のインターフェイスが噛み合わない場所で無理やり働かせようとしたって全然「部品として機能しない」反面、そこのインターフェイスをちゃんと尊重して居場所を作ってくれる、プロ漫画家さんのアシスタント(兼まかない飯シェフ)は凄いフィットしたし、実際に漫画家としても非常にオリジナルな作品を生み出し続けることができている。

で、そういう「固定的なモジュールが精神の中にある人」が、一度社会からはじき出されてしまった時に、ちゃんと「そこですぐ死んじゃわずにそこそこ生きていながら、だんだん自分の生き方を模索できる余地」っていうのが社会には凄い必要なわけですが、そういう場を社会の中に作ろうとする運動の"思想的旗印"みたいになってるのがPhaさんって感じなんですよね。

その「界隈の気分」が横溢する結婚祝いの会は、「いわゆる社会的にキチッとした結婚式」とは全然違うというかそういうのは徹底して茶化してしまわずにはいられないモードでありつつ、でも二人の人格や生き様をちゃんと肯定して祝福する気持ちにあふれていて、ほんといいなあ・・・と思って、しょっちゅうこういうとこで泣いちゃうタイプの僕はウルウルしてたんですが。

でも、(まあ別にそんなの見なけりゃいいじゃんという話ではあるけど)ネットでの評判(特に普段彼らと接しない"界隈"の人たち)は凄い悪かったっぽい。phaさん本人がリツイートしてたコレ→http://sharetube.jp/article/5973/はよくぞここまで悪く言えるなというぐらいで、精神的な丈夫さに自信がない人は見に行かなたいほうがいいかもというレベルで。

でもね。

「こいつらは結局ちゃんと働いている人が社会を回しているから、そこに寄生しているだけなんだ」という批判はある意味正しいようで、人間社会トータルに見ると間違ってるんだよね。

というのは、「普通の働き方に向いてる人とそうでない人」っていうのがそもそもいて、あるレベル以上は個人の努力の問題じゃないわけだから。

で、社会の中に100人いたら、普通の働き方でやっていきやすい人から順番に90人ぐらいは「定職」につけるけど、残りの10人ぐらいはとにかく「普通の人にとっての当たり前のことができない」っていう現状がまずあるわけですよ。

まず「そういう構造が先にある」状況の中で、じゃあそのあぶれた10人ぶんをほうっておいたら、自殺するか、あるいは社会不安に繋がるような暴発をしてしまうことになるか・・・ってなっちゃうわけで。

「そういう暴発や死をふせぎ、とりあえず滞留できる場所を作る」

っていうのは物凄い大きな「社会的貢献」なんですよねまず。

「もしそれがなかったら暴発して生まれる色んな問題」を未然に防いで、しかも新しい可能性が生まれる(かも?)ぐらいの揺りかごになってる時点で「物凄く"働いてる"」感じになっている。

まあ、露悪的に「だるい」とか「働きたくない(実際には凄い"働き"をしてたりするわけだし)」とか言いまくる態度が他人をイラツカせるってのは避けられないかもしれないので、誰もがその価値をみとめられる社会になるべき・・・とまでは思いませんが、でもどこの誰がどんだけヒドイことを言ってこようと彼らの価値は疑いなくあるってこと自体はもう本当に確実なことなわけです。

で、ですね。

とはいえ、上記のようなことは、別に僕が言わずとも「Phaさん界隈」の人はみんな言ってることって感じなんですが、僕としてはもう一歩進んで、

"「いわゆるコミュ力」的にハンデを抱えているんだけど脳内に確立した独特の回路を持っている人"を活かすスキルを、日本社会はもっと意図的に磨いていかないといけない時代なんだ

っていうことを声を大にして主張したいんですよね。そういう方向で進展していけば、ギークハウス界隈にいる人が普通に活躍できる"確率"も随分あがっていくはずだし、日本経済全体で見ても大きなイノベーション推進効果があるはず。

なんでかっていうと、個人的な意見では黄金時代の日本経済の「一番強い部分」は、その「ザツに標準化されたレベルのコミュニケーションと齟齬を持ってしまう」ほどに、個人の内部にモノ自体と直結した確実な回路を持っている人たちによって担われていたはずだからです。

私のコンサル業のクライアントの経営者には二種類あって、「凄いまともな知性とバランス感覚がある(から倉本圭造の言ってることの価値がわかる 笑)」っていう人と、もう1つの類型は明らかにこの「小林銅蟲型」というか、「自分の脳内モジュールの演算形式が独自すぎて普通の人には理解できないが、本人にだけ見えるリアリティとの接合感覚がある(ので、"普通のアタマいいコンサル"との会話が成立しないぐらい本能的に生きている)」っていう人たちです。

後者の人たちは徹底的に形式を嫌うから、例えば無駄な資料とかも大嫌いで、いわゆる「PDCAサイクル」にあたるようなものは本質的にはその人の中でメチャクチャ常に高速回転してるんだけど、いちいちそのプロセスを「"万人に"(一応、本質をわきまえてる"少数の他人"なら理解できる程度ではあることは多いが)説明可能な形式にまとめてプレゼンして共有して、はいようござんすかお集まりのミナミナさま!ただいまわれわれは一回ここでいわゆるPDCAをまわしましたね!?・・・と一々やるような茶番」は徹底的に排除しようとする。

「そういう"問題そのもの"に粘りつくような精神」こそが日本社会が「優秀性」を発揮する時のコアにあるものなんですよね。これは「凄い異能」な人だけじゃなくて、ある種の土着的な日本の集団の良い部分として常にあるから、「知的でマトモなリーダー」なら「自分がそういう異能でなくても、そういう存在の価値をいかに引き出せるか」について考える必要がある。

そういう突出した天才だけですべてを運営できる時代ではないから、日本の会社が本当に本来の強みを発揮するには、社会のあちこちでそういう「異能者」をいかに「マトモな知性とコミュニケーションの仕組み」と協業させて価値を還流させていくかについて、真剣に対処を考える事が必要な時代になっている。

しかし今はどんどん嘘くさく一般化された抽象論にホイホイついていけるタイプだけに権力を渡しすぎて、ちゃんと「モノ自体」のリアリティに深い実感を持って動ける存在の力をうまく還流できなくなってしまっている。

それは要するに「無駄な形式」から「本当の実質」を救い出していくプロセス・・・ってことになるわけですが、まあもう既に相当長文になってしまっているので、興味をお持ちの方はこちら↓をお読みください。

既にある程度「わかってる」人の間では共通課題みたいになりつつあるとは思いますけどね。「コミュ力」が得意な人だけで構成された組織ってのはどんどん薄っぺらくなっていってしまうので、だからこそそういう「コミュ力の世界」と「何らかの実質に対する粘りつくような感覚を持つ人間」とをいかに繋ぎ、協業させ、シナジーし、価値を還流させていくか・・・について我々は社会的・経営的スキルとして徹底的に吟味を重ねなくてはいけません。

それこそが「ダイバシティ」ってヤツだと、私は本当にヒシヒシと思うんですよね。

男か女か、何人か・・・みたいなバックグラウンドがいかに多様でも、アメリカのMBAに集まる人なんて「MBAに集まるタイプの人」っていう非常に「同質性の高い」人たちでしかない。見た感じの国籍や民族がいくら多様でも、本質的にはむしろあんなにダイバシティがない集団も珍しいってぐらいのものです。

でもPhaさんの界隈にいるような、小林銅蟲氏のような奇人変人が、「普通のスーツ着てる世界」との間に適切な連携が生まれた時、それは本当に「ダイバシティ」という名に値する何かなんじゃないでしょうか。

関連して、「嘘くさい一般論」をひっぺがした先にあるリアリティをいかに還流させるか、という問題と、「結婚という制度」について・・・っていう正月に書いた「逃げ恥」関連のブログも良かったらどうぞ↓。

最後に全般的に振り返ってみて、たしかに「普通の人」にとってはあまり愉快でないというか、ちょっとイラッと来るところも多いですけど、価値観を揺さぶってくれる、考えさせられる・・・という意味では結構いいドキュメンタリーでした。

ただ「イライラする人」の気持ちも多少は僕もわかって、例えば僕個人も、正直ギークハウスの人たちの日常会話の、ニヤ〜っとした空気感はかなり苦手です。

一人ひとりとサシで会話をするのは全然OKだと思うんですが、あの「ギークハウスの空気」は僕が一番苦手な何かって感じで、彼らは「自分には社会性がない」みたいなことをよく言うけど、ある意味で「ギークハウスでやっていける特有の社会性」ってのは凄いある人達なんだと思います。

Phaさんは僕と同じ時期に同じ大学で、熊野寮っていう有名な寮に入ってて、本人もよく言ってるようになんかずっとその延長としての「場」を模索しているような感じなんですが、学生時代から僕は「そういう場」でのコミュニケーションがほんと苦手で、だから動画見るの結構シンドい箇所もありました。大学のクラスとかもほんといつも何話していいかわからない感じだったし。

一方で僕は一人で住んでいるといつの間にか女の子が住み着いて同棲しはじめてしまうビョーキで、大学時代もそうだったし、社会人になってからもずっとそんな感じで、なんかその延長でずっと来てしまっているところがあるなあ・・・とphaさんと自分を比べていて思いました。(そういう意味で小林銅蟲氏に妙にシンパシーやあこがれを持つ部分があるのかも)

ってこれはモテるモテナイの話ではなくて、そういうことなら寮グループでももっとモテる人はいると思うんだけど、例えば女の子とサシで住んでいると定期的に修羅場みたいなのはあるというか、その子の奥から出てくる感情の爆発と向き合って苦労するみたいなことは必要になるけど個人的に自分はそれはまあなんとかやれるタイプの人間だけど、ギークハウス的に男三人が微温的にずーっと一緒にいる感じ・・・っていうのは、たとえ個室があったにしたって僕は3日も持たないと思うっていうような話なんだよね。もうメチャクチャ苦手なタイプの人間関係だと感じる。

「コチラ側」にいる人間からすれば、一緒に住んでる女の子とは徹底的にパーソナルに対応すればいいからなんとかやれるけど、男3人が微温的にずっと一緒にいたらそれこそ「めっちゃソーシャル」な難しさがあるんじゃないかって気がする。一方で、彼らは多分想像するに、1対1のパーソナルな関係を暑苦しく真剣に長期間やる・・・みたいなのは凄くシンドいタイプなんだろうと思う。それはどっちが良い悪い、どっちが「社会性がある」とかじゃなく2つの大きな志向の違いとしてある。

彼も僕ももうすぐ40なんですが、「40にして惑わず」とか言いますが、大学時代からそれぞれ明らかに違っていた性向があって、それを延々二十年続けてくるとそれがさらに濃密に結晶化したり、それに共鳴して集まってきた人たちとの関係があってコミュニティになっていたりで、その相互作用ゆえに「もう絶対後戻りできない1つの形」ってのができあがりつつある時期ってのがあるなあと思ったりしています。

大学時代から続く彼のスタイルが結晶化していって本などのまとまった思想性が確立し、それを頼りに動く色んなギークハウスのような仕組みやそこで生きる人たちがいて、彼らがPhaさんを頼りにしている構造が既に確立しているので、もう彼はその道をさらに推し進めて生きるしかない状況におかれている・・・みたいな感じですかね。ポジティブな意味でも、ひょっとするとネガティブな意味でも。

それは僕も同じで、大学時代からずっと続く自分のスタイルや志向性が結晶化していって本などのまとまった思想性に結実し、それを読んで面白いと思ってくれて、実際に連絡くれて関係ができるクライアントや遠巻きに見ててくれる読者さんたちとの義理の連鎖が既にあるから、もう人生ポジティブな意味でもネガティブな意味でも?このまま進むしかなくなっていく・・・って感じで。

選択肢が狭まっていくことは今の時代徹底的に良くないこと扱いされているけど、でもそうやって形成されていく「一本のレール」みたいなものを人生の後半に進める幸せ・・・ってのもやはりあるように思います。人生の前半にあっちこっち迷走しまくりつつも何らかの一本化を目指して生きていた人にだけ与えられる人生後半の役得・・・みたいなとこ、あるかも?

それでは、また次回お会いしましょう。ブログ更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。

ちなみに、私のツイッターに話しかけていただくか、私のウェブサイトのコンタクト欄などから、ブログ記事や著書などの感想等いただければ幸いです。今のところ見逃してなければだいたい直接お返事しています。

倉本圭造

経済思想家・経営コンサルタント