ペリリュー島で何があったのか? 天皇、皇后両陛下が訪問する「忘れられた戦場」

天皇、皇后両陛下が4月9日、パラオ共和国のペリリュー島を初めて公式訪問する。戦後70年を迎えて戦没者を慰霊するのが目的だ。太平洋戦争の激戦地となり、旧日本軍の守備隊約1万人がほぼ全滅したこの島で何が起きたのかをまとめた。
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Marines moving along the beach cautiously while an amphibious tank covers them, Peleliu, Palau, September 1944. (Photo by PhotoQuest/Getty Images)
PhotoQuest via Getty Images

天皇、皇后両陛下が4月9日、パラオ共和国のペリリュー島を初めて公式訪問する。戦後70年を迎えて戦没者を慰霊するのが目的だ。太平洋戦争の激戦地となり、旧日本軍の守備隊約1万人が、ほぼ全滅したこの島で何が起きたのかをまとめた。

ペリリュー島は、南北約9km、東西約3kmの小さい島だ。パラオ諸島には唯一の大型飛行機が着陸できる「東洋一」と言われた飛行場があった。日本はこの島を死守するために、歩兵第2連隊を含むおよそ1万人の部隊を派遣。島じゅうに洞くつ陣地を張り巡らせていた。1944年9月15日に上陸した3万人近いアメリカ軍との間で、壮絶な激戦となった。

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日本軍の陣地とアメリカ軍の侵攻図

■禁じられた玉砕

旧日本軍はペリリュー島での無謀な突撃を禁じた。兵士らは洞窟に身を潜めて持久戦に徹したという。産経ニュースは次のように書いている。

米軍は昭和19年9月、この島に上陸し、迎え撃った日本軍は洞窟などを拠点に2カ月以上にわたって組織的に戦った。ここで日本軍は「アッツ島の戦い」(18年5月)以後続けてきた組織的な「玉砕」を初めて禁止。持久戦に持ち込む戦法は日本軍の戦術上の転換点となり、約3カ月後の「硫黄島の戦い」にも引き継がれた。

【ZOOM】忘れられた戦争「ペリリュー島の戦い」に焦点 - 産経ニュース 2014/08/05)

アメリカ軍は火炎放射器や水陸両用戦車などの最新兵器を投入したが、苦戦した。当初「3日以内で終わる」と予想した戦闘は、2カ月半に及んだ。NHKによると、アメリカ海兵隊の最精鋭部隊と言われる第1海兵師団第1連隊の死傷率は、史上最も高い約60%。そのあまりの犠牲者の多さと過酷さから、ほとんど語られてこなかったため、「忘れられた戦場」と呼ばれているという。

■死体を食べようとした兵士も

3月29日朝刊の中日新聞によると、旧日本軍の将兵約1万人はほぼ全滅した。生存者はわずか200人程度だったという。アメリカ軍の死者も1600人に上る死闘だった。生き残った日本兵34人は終戦を知らずに1947年4月まで、密林に潜んでゲリラ戦を戦った。

乏しい食料の中、死体を食べようとして撃ち殺された日本兵もいた凄惨な戦場だった。生存者の一人で、歩兵第2連隊に所属していた富安博さんは、NHKのインタビューに次のように答えている。

なにしろ戦ったあとっちゅうのはもう、見られたもんじゃねえから。戦ったあとは、もう、第一線というとこは死骸ばかりだから、アメさんと日本人で。いやあ、すごい。それが、大体20日ぐらい過ぎると、もうだんだんだん肉がとけてきちゃうね、スコールがあたるし。

だから、夜、歩くときにゃ、あばら骨踏んで歩っているようだよ「バリッバリッ」ってね。大体、あの島で死んだのが2万幾らだから。日本人は7000人ぐれえ、かな。すごいよ。で、まだ、死んだ人間、食べるっていう人もいんだよ、中には。腹が減っちゃって。それを食べにいったんだ、っていうんだが撃たれちゃった、敵にね、見つかって。

富安 博さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

■今なお残る遺骨

ペリリュー島には、まだ数多くの遺骨が島内の洞窟や塹壕に残されている。時事ドットコムによると、これまで7633柱の遺骨を収容したが、約2600柱の遺骨が島内に埋もれているとみられる。

天皇、皇后両陛下は両陛下は4月8日、日本からパラオに民間チャーター機で到着し、レメンゲサウ大統領夫妻らとの歓迎行事に臨む。翌9日にパラオ本島からヘリコプターでペリリュー島に移動。島南部に日本政府が建てた西太平洋戦没者の碑と、アメリカ軍上陸地点付近にあるアメリカ陸軍の慰霊碑にそれぞれ供花する予定だ

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