8月6日だけを「特別な日」にしてはいけない。広島の24歳が伝えたいこと

節目はもちろん大切にしなければなりませんが、その日、その年だけでなく72年前から継続して起きている問題です。
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もうすぐ72年目の8月6日がやってきます。

いや、72年目の8月6日がやってくるのではなく、自分たちが72年前の8月6日に起きたことを置き去りにして72年目の8月6日に向かっていっているのかもしれません。

一昨年は「被爆70周年」、去年はオバマ大統領の訪問があった「歴史的な一年」。 今年は「被爆から72年」。なにか今年が1番しっくりきます。特別ではない年月の積み重ねを感じるからです。自分は胎内被爆者の三登浩成さん(8月6日の夜8時5分からのNHKラジオ第1で50分の特集があります。)の元でガイドを始めて3年になります。ガイドをしていく中で原爆や現在の核兵器についてもっと多くの人が日常的に考えていく必要性を感じています。

節目はもちろん大切にしなければなりませんが、その日、その年だけでなく72年前から継続して起きている問題です。

原爆を経験していない自分たちは被爆70周年と言われた2年前の8月6日から、歴史的な1日と言われた1年前の5月27日から、どれだけ原爆について、戦争について、核兵器について、平和について考えてこれたでしょうか。

平和記念公園でボランティアガイドをしていて感じるのは日本人より海外の人の方が圧倒的に熱心な人が多いということです。(数の問題で、もちろん日本人にも熱心な人はいるし、海外の人でそうではない人も中にはいます。)海外の人がここでなにが起きたか知ること、考えることを目的に平和公園来るのに対して、日本の人は平和公園に来ること自体が目的になっている場合が多いと思います。

だから原爆ドーム前でも説明板を含め、海外の人の方が熱心に時間をかけて見つめているのに対して、日本の人は写真を撮ったらはい、次、資料館!という人が多いです。

海外の人が涙している横で日本人の若い世代がジャンプしたり変顔したりして写真を撮っている姿も何度も見ました。

昨年の7月にはポケモンGOでモンスターボールを原爆ドームに向かって投げている人も多く見かけました。

なぜ、そんなことが起きるのでしょうか?

それは原爆ドームがどのような意味を持つのか、平和公園がどのような場所なのか知っているようで深く知らないからだと思います。また、原爆を昔話だと思っているからだと思います。被爆者はまだ生きているし、原爆は核兵器と名前を変え、現在でも世界に15,000発近く未だ存在しています。今、起きている問題です。

海外の人は平和記念公園を訪れる前に本を読んだりニュースを見たりして、予習してくる人が多いのでこのような差が出てくるのだと思います。

しかし、自分もガイドを始めるまでは深く考えることはありませんでした。

その時点で知らないことは仕方がありませんが、広島に来るからにはまずは起きたことを知って、考えて帰ってもらいたいと思います。

だから、ふざけている人をただ怒るのではなくそれを丁寧に伝えていくのがボランティアガイドの役割だと思っています。

ほとんどの人は丁寧に説明するとしっかりと理解してくれます。

平和記念公園についてですが、原爆ドーム前で時々聞くのが

「平和公園向こう側かー!」

「なにがあるん?」

「資料館があるよ。」

「他は?」

「他はただの公園じゃない??」

という会話です。

現在平和公園を訪れるほとんどの人にとって平和公園は、〝原爆ドームと資料館(と、慰霊碑)がある場所〟であり、〝ただの公園〟に変わってきています。(若いお母さんに「遊具はどこにありますか?」と聞かれたこともあります。)被爆前も公園だったと思っている人も多くいます。

しかし、今でこそ平和記念公園と呼ばれていますが、原爆投下までは、広島有数の繁華街として栄えており一般市民約4400人が亡くなった場所です。

8月6日24:55〜放送のNNNドキュメント4400人が暮らした町~吉川晃司の原点・ヒロシマ平和公園~では、当時のここにあった旅館をルーツに持つ被爆2世の吉川晃司さんが、失われた町の記憶を求め平和公園のいまと過去をたどります。ぜひ、多くの人に見てもらいたいです。

また、当時のこの地区の街並みは映画「この世界の片隅に」の中でも入念に再現されています。こちらも多くの人に見てもらいたいです。

綺麗な街並み、多くの命が奪われた場所が今平和記念公園となっているのです。

ただ、原爆投下の後すぐに公園が出来たわけではありません。その時家にいなかった元々のこの地区の住民や家をなくした多くの人が木材を拾い集め焼け野原の上にバラックを建てて暮らし始めました。

その後広島平和記念都市建設法が施行され平和公園が整備されることとなったのですが、 バラックは撤去され、その上を盛り土して整備されたのが平和公園です。

だから今でも平和公園の地面の下には焼け野原になった地層が残っています。

昨年10月、広島市・(公財)広島市文化財団主催による平和記念資料館発掘調査現地説明会がありました。

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そこにあったのは地面の下に今も残る焼け野原でした。

百聞は一見にしかずと言いますが本当にその通りで、実際に自分は焼け野原の上に立っていたんだというのを実感し、言葉では表せない気持ちになりました。

地面の下からは真っ黒になった三輪車やドロドロに溶けたビン、割れた茶碗、3000度から4000度の熱線により表面が泡立った瓦など多くのものが回収され展示してありました。

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切り取った地層の一部や出土品の焦げたしゃもじは現在、資料館の地下でオバマ大統領の折り鶴と一緒に展示されています。ぜひ訪れて見てください。

もちろん資料館の下の地面だけでなく平和公園全体が盛り土されているので、どこを掘っても同じように被爆地層が出てきます。

中には回収しきれていない小さな遺骨もたくさん含まれていると言われています。

そういう意味では「平和公園は大きなお墓」と言う被爆者の方が多くいます。

平和公園は〝ただの公園〟ではないのです。

そんな平和記念公園の中に本当のお墓があります。

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原爆供養塔

地下室には身元不明の遺骨約7万柱がが納められています。

原爆の放射線、熱線、爆風により一瞬で亡くなっていった人、爆風により倒された建物の下敷きになり、その後の火災により生きたまま焼かれていった人。皮膚を濡れ雑巾のようにぶら下げおばけのような状態で郊外に逃げていく途中で力尽きた人。水を求めて、火災から逃れるために雁木(石の階段)を下って川に逃げて行き、しかし結局力尽き川の中で亡くなった人。死体が川を埋め尽くしたところもあったそうです。そのような遺体はその後広島市内至る所でまとめて焼かれていきました。焼いては埋めて焼いては埋めて、そのような作業が数週間にわたって続けられたそうです。戦後、埋められた遺骨が至る所から出てきましたが、誰の遺骨か分かりません。そのような遺骨がここに納められています。

このうち815柱は名前が分かっていながら引き取り手がない遺骨です。一家全滅などで引き取り手がないと言われています。

平和公園内にあるこの大事なお墓。ほとんどの人が知らずに訪れずに帰ってしまいます。実際に原爆ドーム前に100、200人の人がいる時でも対岸の原爆供養塔に目を向けて見ると誰もいない時がほとんどです。

原爆ドーム前から見るとここにあります。

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原爆の子の像の奥の方にあるのですが、この写真を撮った時も供養塔の前には1人もいませんでした。

とても大切な場所です。

平和記念公園を訪れる方は必ず訪れて欲しいです。

そして戦争の中では死者を数字で判断しがちですが、一人一人の命がそこにあったということを改めて考えてもらいたいです。

近くには韓国人原爆犠牲者慰霊碑や被爆墓跡もあります。その他にも大切な場所がたくさん平和記念公園内、周辺にはあります。

平和記念公園を訪れる方は来て満足するのではなく、原爆ドームと慰霊碑と資料館だけではなくじっくりと時間をかけて回ってほしいです。出来ればガイドさんの話を聞いて知識や考えを深めていってください。

もう少しで8月6日。

数万人の人が当日平和記念公園を訪れます。

ただ、この日が原爆記念日になってはいけません。

お祭りではなく、死者を追悼し、起きたことを学び、核兵器なき世界に向けて一人一人が本気で真剣に考える日でなければならないと思います。そして、8月6日が過ぎたら来年までまた忘れてしまうのではなく、この日をきっかけに、継続して原爆、核兵器について学ぶ人が増えていけばいいなと思います。

安倍総理は今年も式典で核兵器なき世界を語るでしょう。

ただ、総理の口からこの言葉を聞くのは毎年8月6日と9日だけです。

昨年はオバマ大統領の訪問時にも慰霊碑の前でスピーチをしましたが、その後採択された核兵器禁止条約に対して日本は現実的ではないと反対の立場を取っています。核兵器廃絶に向けて核保有国と非保有国を分断させてはならないと言っていますが、アメリカの核の傘の下での発言には説得力がありません。

もちろん簡単ではない事は分かっていますが、被爆国としてもっと役割を担っていってもらいたいです。

ヒロシマはどこにあるのでしょうか。

一昨年と昨年、式典での湯崎広島県知事のあいさつには勇気をもらいました。

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 「核兵器は永遠に廃絶されなくてはなりません。

 核兵器があれば安全が守られる,というのは,頭の中で作った「理論」に過ぎません。

 一方,広島と長崎が示しているのは,核兵器使用の結末という「現実」であります。

 人類の叡智は,「相互確証破壊(Mutually Assured Destruction)」など,核兵器を保有したうえでそれをいかに使わないか,といった文字通り「狂った(MAD)」ことにではなく,核兵器をいかに地球上からなくしていくのか,そのためにこそ使われなければなりません。」(2015年)

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全文はこちら

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「安全保障の分野では,核兵器を必要とする論者を現実主義者,廃絶を目指す論者を理想主義者と言います。しかし,本当は逆ではないでしょうか。廃絶を求めるのは,核兵器使用の凄惨な現実を直視しているからであります。核抑止論等はあくまでも観念論に過ぎません。

核抑止論は核が二度と使われないことを保証するものではありません。それを保証できるのは,廃絶の他ないのです。」(2016年)

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全文はこちら

日本の核兵器禁止条約への反対。また、北朝鮮の核実験や、アメリカのトランプ大統領やロシアのプーチン大統領による核兵器の近代化、世界各地でのテロなど世界が混沌としています。また、戦争はダメ、核兵器を無くそうというと、そんな簡単じゃないよ、現実的じゃないよ、と嘲笑われるような空気も少しずつ日本の中で広がってきています。そんな時だからこそ、湯崎知事には一昨年、昨年のように核兵器廃絶に向けた指針を示していってもらいたいです。

自分たちは核兵器廃絶に向けてなにが出来るでしょうか。

まずは起きたことを知ること。今起きていることを知ることだと思います。

平和記念公園を訪れることは、ゴールではなく、スタートです。

より多くの人が継続して学び、考えていくことで、核兵器廃絶に少しでも近付いていくと信じています。

72年経つ今だからこそ学ぼう。

そして伝えていこう。

ブログ「24歳が原爆を伝えるガイド日記」

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