photo by Gitte Herden
たとえば、有名なスケート選手が「スケートが大好きです」と言う。あるいは有名な歌手が「歌うのが大好きでここまで来れました」と言う。あるいは、有名な料理人が「料理が好きで人生を捧げました」と言う。
それを聞いて、僕たちは、「自分も彼らのように、『好きなもの(パッション)』を見つけて、たゆまない努力を続けて、彼らのようになりたい」と思う。
しかし、自分が『好きなもの(パッション)』ってどこにあるのか、それだったら誰よりも努力できるものってどこかにあるんだろうか、それがいつも大問題になる。
どうやら、そのときの「もの」というのが曲者で、「もの」を探している限り、いつまでたっても、人はそれを見つけられないし、幸せにもなれないのではないかと思う。
そもそも「スケートが好き」と言う選手は、「スケートが好き」という「パッション」をカラダの中に宿してこの世に生まれてきたのだろうか。
そんなはずはない。
もしそうだとしたら、彼女がフィジーの漁師の家に生まれたら、その生来の「パッション」は発見されないままに一生を終えることになっただろう。彼女はなにかほか「もの」に自分の運動の才能をみつけたかもしれないし、それすらみつけないままだったかもしれない。
彼女がスケートがそれほど好きになった理由は、親がなにかの理由か偶然で幼少の彼女にスケート教室に通わせたこと。そこで、彼女が周囲より上手くやれそうなことに気がついたこと。上手くやれるので、スケートが好きになり、ほかの人よりより練習も熱心にできるようになったために、さらに上手くなりさらにスケートが好きになった。おおむね、そういう経緯を辿ったのではないかと思う。
もし、そうだとしたら、「好きなこと(パッション)」を探すのではなく、さまざまなことをとにかくやってみて、「上手にできそうなこと」を探すことが、与えられた人生をもっとも楽しく生きるコツになるのではないかと思う。
それはシンプルな真理に思えるが、見失いがちな真理でもある。
たとえば、僕は、若いころ、読んだり書いたりすることが人一倍「好きなこと」だと思っていた。
が、勢い込んで仕上げた長編小説がある賞の一次選考にも残らなかった。また、会社でレポートを書いた時、同僚のレポートと読み比べて、自分の書いたものの圧倒的な貧弱さに打ちのめされた。
そして、僕は、自分が自分が思っているほど上手く書けはしないことに気がつき、書くことが嫌になり、自分の中の「好きなこと(パッション)」のリストから取り除くことにした。
その後、いろいろとあって、小さな会社を運営するかたわら、こうやってブログを書いている。
そろそろ人生も終盤に差し掛かって、もう一度、かつて放り出した「好きなこと(パッション)」リストから「書くこと」を拾い上げて書き始めた。
ブログの更新を毎日1年以上続けても何も起こらず、やはり多くの人の役に立つようなことは書けない、いよいよ、「好きなこと(パッション)」リストから「書くこと」を外そうかと思いかけた矢先、まるで交通事故にあったかのように、いくつかの記事が思いのほか多くの人に読まれた。
僕はリストからそれを外すのをやめた。その記事がそれほど読んでいただけるのであれば、あるいは、上手くやれるのかもしれないと思うと、また「書くこと」は「好きなこと(パッション)」リストの上位に浮上してきた。
そして、恥ずかしくも、「書くことが好きだ」などと公言するようになった。
冷静に考えてみると、それは、何十年という長い時間をかけて、自分の内にあった「好きな書くこと(書くというパッション)」を再発見したという話ではない。自分の生まれ持ったものや経験の蓄積・組み合わせが、ひょっとしたらほかの人の役にたつことを自然と形作り、それをたまたま、他の人がみつけてくださったのだ。
他の人がみつけてくださって、それを僕におっしゃってくださったので、僕は、また、「書くこと」が好きになったに過ぎない。
さらにリアルに言うと、55才の僕にあるのは、じつは、すでに、「好きなこと(パッション)」リストではない。
そこあるのは、「残りの人生を使って、より多くの人に良いものを残せる可能性のあるもの」のリストだ。
それは、今の商売をもうちょっと大きくして持続可能性のあるものにするとか、Kimono Archiveのこととか、このブログや、ある方が出してくださるとおっしゃってくださっている本のことなどだ。
もちろん、それは「好き」なことではあるけれど、あくまで、僕が上手くできそうなことのリストにしかすぎない。
僕は若いひとに、「好きなこと(パッション)」を探せというのは、ある意味、酷なことだと思う。それが見つからないなら、はっきりとしないなら、無理に探せとは言わず、「なんでもやってみて、上手くできそうなことを探してみなよ」っていってあげるべきだと思う。
ひとつだけ圧倒的に上手くできる才能がみつからなくても、復数の相対的に上手くやれることがみつかれば、それがその人独特の「上手なこと」になる場合も多い。
そいうえば、さらに恥ずかしいことを思い出した。
僕は高校の時、進路に悩み、水産学科を選んだのだが、その理由は、無理に自分に言い聞かせたり、当時の彼女に言ったその理由は、「海が好きだから」であった。
「好きなこと(パッション)」をみつけなければならないと、まだ若い子供たちに迫ったら、「海が好きだから」などという詩的な理由を、僕のように将来の進路の羅針盤にしかねないので、重々、注意していただきたい。
(2014年11月24日「ICHIROYAのブログ」より転載)