被災地で得た経験を生かし、世界中の人たちを支援していきたい。--アンジェラ・オルティスさん Part2

My Eyes Tokyoハフィントンポスト版「311特集」。2011年3月11日の東日本大震災発生以来、宮城県南三陸町を拠点に震災復興支援活動を続ける"O.G.A. For AID"の運営理事、 アンジェラ・オルティスさんをご紹介しております。
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My Eyes Tokyoハフィントンポスト版「311特集」。2011年3月11日の東日本大震災発生以来、宮城県南三陸町を拠点に震災復興支援活動を続ける"O.G.A. For AID"の運営理事、 アンジェラ・オルティスさんをご紹介しております(アンジェラさんが東北復興支援を始めた経緯はこちらをご覧下さい)。

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パート2ではアンジェラさんや彼女と行動を共にするチームの、東北での長期支援活動についてお伝えします。

*インタビュー@シーサイド・センター(宮城県南三陸町)

*英語版はこちらから!

■ 農業で被災者を支援

震災発生の翌年の2012年6月、私たちのチームは一般社団法人設立登記を申請しました。私たちはそれまで単なるボランティアグループに過ぎませんでしたが、"O.G.A. For AID"として法人化しました。

被災地は復興だけでなく、再建や再生も必要です。そして次の世紀への成長、未来に向けての成長、そして次の世代のための成長に向けた被災地支援が必要です。そこで法人化して最初に手がけたのが「グリーン・ファーマーズ・アソシエーション」(GFA)です。これは農業の復興を目指すプロジェクトで、地元住民の方々が収益を得られるようにするものです。またこれは観光業にとってもプラスになります。なぜなら大勢のボランティアや観光客に、ここの農業の復興の進み具合を見に来ていただけるようになるからです。

農業は非常にお金がかかります。でもその一方で野菜の市場価格は非常に安い。それゆえに農地を棄てた人々もたくさんいましたし、放っておかれたままの農地もたくさんありました。中には20年も手つかずの農地までありました。木が生え、そこら中に石が転がる荒れ地を農地に再生することなど、誰もしようとはしませんでした。それは体力の問題もあるし、資金不足や農機不足の問題もありました(津波で農機が流されてしまった農家も多々ありました)。

そこでGFAでは、まず町の各地に点在する農地を私たちの農地としました。つまり、バラバラな農地をGFAの名の下に1つにまとめたのです。そして私たちが中心になって、荒れた農地に生える木を切り倒し、農家の方たちから農作物の栽培のノウハウを教えていただきました。

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下:キュウリ栽培用の農地(2012年5月)

今や私たちは、野菜の大量栽培や大量販売が可能なまでになりました。地元の人たちはGFAに参加することで収入を得ています。GFAはこれまで950世帯をサポートしてきました。そして今後3年から5年で、私たちは自給自足の生活ができるまでになるだろうと踏んでいます。

また私たちは農作物を福島県南相馬市の人たちにもお届けしています。南相馬はここから離れていますが、でも放射能危険区域のそばにあるため、農業は不可能です。

私たちはそのような南相馬に住む350家族に野菜を届けました。また南三陸の北にある気仙沼市の350家族にも同様に野菜を届けました。

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下:たくさん穫れました!(2012年8月)

■ 学びの機会の提供

私たちの2つ目のプロジェクトは、空きスペースを再生し、そのスペースを利用して能力開発プログラムを行うプロジェクト「コミュニティ・ラーニング・センター」です。

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例えば、ここにはたくさんのおばあちゃんたちがいらっしゃいますが、どなたもコンピューターに触ったことがありません。ですのでここに来て、コンピューターの使い方を習います。

タバコ屋さんを経営しているある参加者の方は、売り上げを紙と鉛筆の代わりにコンピューター上に記録しておくために習いたいとおっしゃいました。また、英語を習いたいという方もいらっしゃいました。

一方で、ここでゆったりとテレビを見る方もいます。友達に会いにここにいらっしゃる方もいます。なぜなら皆さんの住む仮設住宅は町内に散在し、人々が離ればなれに生活しているからです。私たちは皆さんが楽しい時間を過ごせるよう、いろいろなイベントやパーティーを、ここ「シーサイド・センター」で開いています。

南三陸町では、子どもたちは地震直後に避難所に避難しました。健康には問題なかったのですが、彼らは本来なら目にするべきでないものを目にしてきました。ある子は私に、津波に流されて陸に突進してきた船が、まるで破壊槌のように鉄橋を打ち壊した光景を見たと言いました。しかもその鉄橋には、人々がしがみついていたのこと・・・その彼らが、全て津波に押し流されてしまった。そんな光景を、小さな子どもが目にしたのです。震災で友達を亡くした子どもの中には、ここに来ることでトラウマから比較的早く立ち直った子もいます。たくさんの子たちが、生きる望みを失わずに生きていこうとしていました。

でもそのためには、辛いことを忘れることのできる時間が必要でした。そしてそれができる場所が必要でした。ここはそんな彼らのための場所でもあります。約15人の子どもたちがここで楽しく過ごしています。

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また、私たちはここで地元住民と他の地域から来た人をつなげたり、時には外国から来た人たちをもつなげています。ここは人が人と出会う場所。「多文化交流の中心」としても機能しているのです。

この「シーサイド・センター」のスペースは、ホテル観洋さんよりご提供いただいています。ホテルからこのスペースをお借りし、また多くの企業から製品をご提供いただいています。日本マイクロソフトさんからはラップトップコンピューターを、そして他の企業さんからも家具や機器をご提供いただきました。

南三陸町への支援活動は、これからも続きます。今の南三陸を支援することは、南三陸に生まれる将来の世代を支援することにつながります。震災から立ち上がった子どもたちは、将来の日本において重要な役割を担っていくでしょう。彼らは街の復興だけでなく、彼らの親たちが自分たちの生活を立て直すために一生懸命闘う姿を目にするでしょう。つまりそうすることで、生きることに対する姿勢が変わってくると思います。そんな彼らがもし支援を受けなければ、それは彼らにとってとても辛い。やがて教育の機会を求めて、彼らは仙台や石巻といった都市に出て行ってしまうかもしれません。

■ 多文化教育を被災地の子どもたちに

人々が最初に必要とするのは仕事です。でも今の私たちが、町の人たち全てに仕事を提供するのは限界があります。被災地の復興はどのくらい進んでいるか?政府は何をやっているのか?他の大きなNPOはどのエリアで活動しているのか・・・ 確かに気になるところです。

でも重要なのは、地元住民が心から望んでいることがあるということ。それが何かを理解するためには、彼らの文化や歴史を理解する必要があります。一朝一夕にはできません。

「コミュニティ・ラーニング・センター」を例に挙げましょう。このプロジェクトが始まったのは2012年1月ですが、最初は延べわずか5人から15人の子どもたちしか来ませんでした。しかしそれから3ヶ月後、毎日3つから5つのクラスに分けなければならないくらいに子どもたちが来るようになりました。彼らはここの環境に徐々に馴れていったのです。そしてこの場所に対する愛情のようなものが芽生えたのです。最初は「ふーん、こんな場所があるんだ」くらいにしか思っていなかった子どもたちが、やがて「ここ良いじゃん!これから僕も来ようっと!」とまで思うようになる。そしてひとたびここで英単語をいくつか覚えたら「英語が話せるようになったよ!大きくなったらアメリカに行くんだ!」って言ってくれるまでになる。徐々にではありますが、そのように物事は良い方向に向かっていったのです。

コミュニティ・ラーニング・センターは長期にわたる教育プログラムですが、これこそが私が東北で始めたかったことでした。ランゲージ・エクスチェンジやカルチャー・エクスチェンジを促し、アメリカと日本の若者たちのつながりをさらに強くする取り組みを、私はこの東北の地で始めてみたかったのです。

私は長年、東京で幼児教育の現場に携わってきました。そして私の家族が青森市内で運営する「O.G.A.(オルティス・グローバル・アカデミー)」は、インターナショナルの幼稚園です。子どもたちはメキシコの祝日について学んだり、ヨーロッパの食べ物について学んだり、アフリカで着るものを学んだりします。私がインターナショナルな教育で好きなのは、人と人の違いを肯定し、それをポジティブなものとして教えているところです。

たとえ違うものを好きでも、それがもとで仲良くなれないということはないですよね。人々の違い、文化の違い、そして人種の違いが、やがて素晴らしいものを生み出していく。そういうことをここで教えられたらいいなと思います。

■ プロジェクトは世界へ

「グリーン・ファーマーズ・アソシエーション」も「コミュニティ・ラーニング・センター」も、あらゆる自治体で応用可能です。汎用性があることが私たちの活動の強みです。

私がここに根を下ろして仕事をするのは、長くてもあと10年と考えています。O.G.A. For AIDは南三陸町だけでの活動には留まりません。日本中、そして世界中のあらゆる地域の支援に携わりたいと考えています。 私たちのコミュニティ・ラーニング・センターのアイデアは、タイやインドネシア、アフリカなどどこででも実践できると思いますから。

農業プロジェクトも教育プロジェクトも、南三陸町の復興に大きく貢献できるものと思います。本当の挑戦はこれからです。もっとたくさんの人たちに、ここに来て状況を見ていただけたらと考えています。

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アンジェラさんにとって、日本って何ですか?

家族のような存在ですね。

私は日本で誇りに思えるものがたくさんあります。でもその一方で、ちょっと嫌だな〜と思うこともある。それってまるで家族ですよね。

そして日本は故郷です。私が生まれ故郷のカリフォルニアに帰ると「故郷だな」と感じるんですけど、でもやはり好きになれない部分が同じようにあります。

でも私は、アメリカと日本のいずれともつながっていられることに、すごくありがたみを感じます。そしていずれの国も、私という人間の一部なのです。

私は日本を故郷と思い、一方でアメリカも故郷だと感じます。そして私がコロンビア人や南アメリカの人たちに会ったときも、同じようにつながりを感じるのです。

【アンジェラさん関連リンク】

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(2012年8月17日「My Eyes Tokyo」に掲載された記事を加筆修正の上で転載)