ベビーシッターは凶悪犯だった。コロンビアの麻薬王の息子は今「和解」を求め世界を旅する

「私のベビーシッターはコロンビアで最も凶悪な犯罪者たちでした」
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1994年12月2日、パブロ・エスコバルの一周忌に、写真を担いでメデリンの通りを歩く男たち。

セバスチャン・マロキンは1977年、一家の長男として、コロンビアのメデリンで生まれた。彼の父親はパブロ・エミリオ・エスコバル・ガビリア。コロンビアの、そしておそらくは世界の歴史上もっとも有名な麻薬王だ。

エスコバルは1993年12月、コロンビア山岳部にあるアンティキア県の大都市メデリン市街で警察に追われ、死亡した。公式にはコロンビア軍が彼を射殺したことになっているが、敵対組織のメンバーが麻薬撲滅組織のエージェントと共謀して彼の殺害を企てたという説が根強く残っている。

ジャーナリストから父親の死を知らされたマロキンは、直後にテレビが生中継している中で「クズどもを皆殺しにしてやる。俺が自分の手で奴らを殺す」と口にし、全国民を前に報復の意思をあらわにした。

私のベビーシッターはコロンビアで最も凶悪な犯罪者たちでした。

父親が亡くなった時、マロキンは16歳だった。多くの人々が、彼は父親の跡を継ぐのだろうと予想し、実際に、当時の様子を目撃した人々が、マロキンはそのつもりだったと証言した。

報復の誓いを口にしたことで、彼とその家族はアルゼンチンでの亡命生活を余儀なくされ、新たな人生を受け入れなければならなかったという。彼は復讐を口にしたことを後悔しており、現在の自分は「平和を重んじる人間」だと述べている。マロキンは今でも父親としてエスコバルを慕っているものの、コロンビアと自らの家族に大きな害を与えた「悪人」だったと認識している。

現在はアルゼンチンで建築家として暮らしているマロキンは、世界中をまわりながら父親について講演しているが、講演をするのは「父を擁護するためではなく、彼の過ちから人々が学べるように」だとマロキンは言う。この点が、彼が Netflixのドラマ「ナルコス」に異議を唱える理由の一つだ。

エスコバルの死から23年がたった今、彼の伝説はマロキンに利益をもたらしている。彼はドキュメンタリー「私の父が犯した罪の数々(Sins of My Father)」(2009年)に出演、父親についての本「パブロ・エスコバル、我が父(Pablo Escobar. My Father)」を書き、洋服のブランドも立ち上げた。

「私の父は世界中で注目を浴びる人物となりました」とマロキンは言う。

マロキンはハフポスト・スペイン版の取材に応じ、今は亡き父親への思い、コロンビアの平和の実現と、悪名高い麻薬王の息子としての人生を語った。

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セバスチャン・マロキンは悪党に囲まれて育ったという。しかし彼は今、平和を重んじる男であり、世界を旅しながら講演している。

――あなたがパブロ・エスコバルの息子だということは皆が知っています。しかし、セバスチャン・マロキンとはどのような人物なのでしょう?

暴力に追われ、生命の安全と教育の機会を得るために自らのアイデンティティを変えざるを得なかった1人のコロンビア人です。500万人以上いるほかのコロンビア人とまったく同じですよ。私は建築家で企業家、平和を重んじる人間であり、父親です。セバスチャン・マロキンとはそういう人物です。

――名前を変えてセバスチャンとなったあなたの中に、昔の名前のフアン・パブロ・エスコバルはどれくらい含まれていますか?

100パーセントです。本質的な違いは何もありません。名前が変わっただけです。IDカードが変わったからといって、父との関係や、父に対して今も抱いている愛情がなくなるわけではありません。それはただ、私たちが生命の安全を確保するための手段に過ぎないんです。

北アメリカの人々は時々、銃ですべてが解決できると考えることがあります。しかし、麻薬取引は人間同士のドラマであり、武器の使用や、強力な麻薬取締局の設置では解決できません。

――あなたの母親や姉妹はメディアへの露出がほとんどありませんね。一方であなたは、自ら一族のスポークスマンの役割を担っています。その理由は?

私がそうすることを選んだからです。違う道を選ぶこともできました。完全に沈黙するとか、あるいは「新しいパブロ・エスコバル」として父の後釜になるとか。しかし私は建築を、平和を、父が生前に争ったすべての人々と和解し、許しを得ることを選びました。そのために近年の自分の人生をささげてきたんです。

――父親から得た最良のアドバイスはどんなことですか?

「手を出さない者こそが勇敢だ」。麻薬について、父はそう教えてくれました。父は自分が売りさばいているものにどれほど恐ろしい害があるかを分かっていました。だからこそ、自分の息子である私には麻薬を使わせたくなかったのです。

――カルテル組織の中で育ったことが、ご自身にどのような影響を与えたと考えていますか?

私はやくざ者たちに囲まれて育ちました。コロンビアで最も凶悪な犯罪者たちがベビーシッターだったんです。今、私は平和を大切にしています。彼らのすぐそばにいたことで、悪事を働いた人間がどうなるか、そのことで自分自身や周囲の人々、たくさんのコロンビア人をどんなに苦しめることになるか、よく分かったのだと思います。私が育った環境というのは、こんな人間になるべきではないという人物像を映す鏡のようなものでした。

コロンビア人の辞書に「和解」という言葉はありません。私たちにはない文化なのです。

――あなたと麻薬の関係はどのようなものですか?

注意深く注視しています。麻薬はコロンビア、そしてラテンアメリカ全体に深刻なダメージを与えました。麻薬を禁止する一方で、その成分については規制しなかったことで、紛争や汚職、人権侵害がもたらされました。麻薬取引の市場や、権力に対する欲望も、問題を助長したと思います。この状態は父が亡くなって20年たった今でも変わっていません。何もかもそのまま、まったく同様に、麻薬ビジネスはスムーズに運んでいます。密売人が殺されようが捕まろうがお構いなしです。

北アメリカの人たちは時に、銃ですべてが解決できると考えます。しかし麻薬取引は人間同士のドラマであって、強大な麻薬取締局や武器では解決できません。そうやって対処したところで、問題はさらに大きくなるだけです。

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パブロ・エスコバルの本拠地だったコロンビアのメデリンでは、彼の写真が今でも街の至る所にみられる

――2000年、あなたは麻薬関連の資金洗浄の容いで、母親と一緒にアルゼンチンで逮捕されました。その後、無罪判決が言い渡されましたが、あなたの母親は2年近くのあいだ刑務所に収監されました。父親の死後、この時期が最もつらかったのでは?

そのような扱いにはすでに慣れていたというのが実際のところですが、それでもこの時期はつらかったです。なぜなら、私たちは5年もの間、コロンビアを離れ、私は学業を終えて職を得ていたからです。パブロ・エスコバルの息子としての人生とは違う、過去と距離を置いた生活を送っていたのです。それがいきなり警察に取り囲まれ、メディアの注目を浴びることになってしまいました。こういう事態に直面すると、人は思うんです。「どうせ刑務所に入れられるなら、おとなしくしている意味なんてあるんだろうか」ってね。よい行いと引き換えに収監されるようなものですから、いろいろなことに疑問を感じてしまうんです。

――あなたの父親は一大財産を築きあげ、たくさんの不動産を購入しましたが、それらは彼の死後、コロンビア政府に引き取られました。建物の多くは廃墟となっていますが、現在テーマパークになっているHacienda Napoles のように、民間企業によって活用されているものもあります。父親の資産はどのようなことに使われるべきと考えていますか?

父の遺産は政治家ではなく被害者の手に渡るべきです。政治家が私の父から取り上げた資産がどうなったのか、誰かが調査すべきだと思います。これは断言できますが、パブロ・エスコバルの被害者の中に、コロンビア政府が押収した金で金銭的な補償を受けた人は一人もいません。政治家たちが横領したのです。

結局はそれが、国の対応を無力化させることにつながってしまいました。皆、多くの富を自分のものにしようと必死になって、ギャングの抗争じみた争いが起きたのです。勝った側が負けた側の金をすべて取り上げてしまい、争いの犠牲者のために父の遺産が使われることはありませんでした。

――コロンビアの人々はあなたに対して、未だに複雑な感情を抱いているようですね。

当然のことだと思います。父が亡くなったとき、私は復讐を口にし、国を恐怖に陥れるという大きな間違いを犯したのですから。私について人々が覚えているのは、父親の死を知らされて苦しみと絶望にかられた行動をとったということで、その10分後に約束したことについては覚えていないのです。自分が教育を受け、そして家族の教育とこの国の平和に貢献することを、私は誓いました。これが、私が何年にもわたって取り組んできたことです。しかし、20年以上前に口にした脅しの言葉だけを覚えている人たちもいます。これまでずっと問題を起こさずにやってきた事実も、彼らにとっては評価に値しないのです。

――復讐を実行した可能性はあったでしょうか?

はい。それは疑いありません。だからこそ皆、私は父の行いではなく、自分自身の行いに対して責任を取り、報いを受けるのだということ気づき始めたのだと思います。人々からの複雑な思いをこの身に受けてきた今、私は不確かなことは口にしません。事実に基づいて発言するようにしています。父の行いに対して私が責任を負ってきたのは、人々との和解を目指すという意味においてです。私は父が犯した犯罪の倫理的責任を引き継いでいます。それを負う人は私の他にいないし、そうするのが私の責任だと思うからです。私は平和を重んじる、穏やかな人間です。これは確かなことだと思います。もしそうでなければ、私は命を落としていたでしょう。

――「和解するという文化はコロンビアにはない」とおっしゃいましたね。ご自身の著書には、「自分が生きていられるのは、母親とともにほかのカルテル組織との和平を結んだおかげだ」と書かれています。コロンビアでは最近、反政府ゲリラ組織「コロンビア革命軍」(FARC)が政府との和平協定に署名し、内戦終結が実現しました。ご自身の経験から、この動きをどのようにとらえていますか?

今回の和平合意については、自分自身で行った和解交渉と違って内実をよく知らないので、具体的に話すことはできません。しかし、私と母がコロンビア中の麻薬カルテルと取り付けた和平についてなら話すことができます。その経験から、コロンビア人にも平和を成し遂げることができると信じています。どんなに非情な人々も、暴力と抗争にはうんざりするものです。

私たちはとても不平等で、完全に不利な条件のもとで和平交渉を行いましたが、そのような不利な状況にあっても、私たちは平和の実現を重視しました。合意内容はまったくでたらめに思えるようなものでしたが、決してそうではありません。どれだけの代償を払おうと、平和にはそれだけの価値があるのです。

コロンビア人が理解できていないのはこのことです。平和の中で暮らし、発展していけるということに、どれだけ大きく多面的な意味があるのか、国が成長するとはどういうことなのかが分かっていません。私たちコロンビア人は50年間、あるいはそれ以上にわたって殺しあってきました。和解という言葉はコロンビア人の辞書にはなく、和解するという文化を、私たちは持っていないのです。平和を築く過程では、それを阻む論争が山ほど起きるでしょう。平和を実現するのは簡単ではありません。争いは臆病者のすること、平和は勇敢な人々のためのものです。

――あなたの父親にはたくさんの伝説的な噂話がありますね。人々は、こっそりため込んだお金や埋蔵金があるのでは、とか、彼の死にまつわること、どんな突拍子もない買い物をしたか、といったことを語っています。あなたが気に入っているエピソードを教えてください。

父に関する話はさんざん聞きました。とてもありそうにない、かなり飛躍したこじつけ話をね。しかし中には本当の話もあるんですよ。私が一番気に入っているのは、彼は今でも生きているというものです。もしそうならきっとエルビス・プレスリーと一緒にいて、「ちょっと歌でも歌ってくれよ、一曲聴かせてくれ」なんて言っているに違いありません。