由利公正の現代的意味

私は、常に「万機公論に決すべし」と言っており、これが私の政治手法であることは周知の通りである。情報を公開し、皆で合意を形成していくことの重要性をいつも説いている。

由利公正(三岡石五郎、後に八郎)は、1829年(文政12年)11月、福井城下に生まれ、幕末明治維新の激動の時代に活躍する。東京都との関連で言えば、1871年(明治4年)7月に、第四代東京府知事に就任し、東京の不燃化を図り、銀座を近代的な街にしたし、また庁内の大規模な人員整理を行った。

私は、常に「万機公論に決すべし」と言っており、これが私の政治手法であることは周知の通りである。情報を公開し、皆で合意を形成していくことの重要性をいつも説いている。新国立競技場や五輪エンブレムの失策は、その主張の正しさを裏付けている。

言うまでもなく、1868年(慶応4年)3月14日に公布された「五箇条のご誓文」には、その第一項に、「広く会議を興し万機公論に決すべし」と記されている。この草案を最初に書いたのが、由利公正であり、それが「議事之体大意」である(同年1月10日頃書いたとされる)。その第五項に、「万機公論に決し私に論するなかれ」とある。この考え方は、師である橫井小楠、そして盟友、坂本龍馬と同様な思想である。龍馬は、「船中八策」(慶応3年6月15日)、「新政府綱領八策」(同年11月)で、そのような考えを述べている。 

公正の草案は、福岡孝弟や木戸孝允によって、様々な政治的配慮から手を加えられ、「五箇条のご誓文」に落ち着いた。しかし、彼の言う「私に論するなかれ」という言葉ほど、今日の日本にとって必要な警告はないのではあるまいか。とくに、政治指導者にとっては、熟読玩味すべき名言である。

由利はまた、財政のプロとして、福井藩の危機を救い、明治維新を成功に導いた。民を富ませることを第一に考えた彼の思想こそ、現代の財務当局が学習すべきものである。

(2015年9月27日「舛添要一オフィシャルブログ」より転載)