原子力行政を担当していた大熊町職員が語る、避難指示の難しさ

「原発は安全が前提ではない。機械は万能ではない」という冷静な認識、覚悟が必要だと感じています。

元大熊町職員 企画調整課長(当時)秋本圭吾さんの証言

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2011年3月12日、町役場駐車場に現れた避難用の茨城交通バス

企画調整課は原子力行政を担当していました。原子力発電所の安全対策としては「止める」「冷やす」「閉じ込める」。

その3原則は分かっていたのですが、自分の中で「止める」が大事で、止まれば6、7割大丈夫。後は順に冷やし、閉じ込められるのだろうと思い込んでいました。

震災直後もまず「原発が止まるかどうか」が私にとっては一番のカギで、災害対策本部が地震、津波対応に追われる中、私は自分の机に座って、余震で引き出しが開くのを閉め、また開くのを閉め、ということをしながら、福島第一原発と第二原発の直通電話の前で待機していました。第二原発を通じて第一原発も止まったという情報を得た時に、「これで大丈夫だ」と思ってしまいました。

その後も情報は来るのですが、ファクスはしばらく途切れたと思えばいきなりまとまった量を受電したり、データそのものも水位が低いと伝えた次のファクスでは水位が高くなっていたり。

どの情報が正しいのか、また、一つ一つの事象がどう繋がって、どのような事態に発展するのか見通せませんでした。テレビの報道でも政府高官が「念のため」と繰り返していました。

11日夜、国土交通省から避難用のバスについて電話を受けた時、今思えば「何のためのバスなんだ」と突っ込めたはずです。

でもその夜は「今頃3km圏内避難のバスを手配しても遅い」と思いました。また、3km圏内避難と同時に10km屋内待避が出ていましたが、職員は庁舎外で炊き出し準備をしたり、物資の調達をしたりしていたのです。

翌朝からは被害調査も進める予定でした。屋内待避を検討するよりも、目の前の災害対応に意識が集中していたということです。

 全町避難になった時ですら冷静に受け止めました。10km避難といっても念のためで、収まることが前提だというとらえ方をしてしまった。

もっと早く避難できたのではないかと思う一方、町独自で避難を決断したとしても受け入れ先の問題があります。

11日夜、停電で余震もあり、道路も破損している状況で、町民が行き先も分からず自家用車で逃げることを想像すると、その方がぞっとします。その点は、私の中で今も反省点、答えが出ない問題点として残っています。

私は原発の安全性について、専門家の説明を鵜呑みにするのではなく、住民の目線で問い続けなければならない立場にありました。あのような自然災害に直面した時、私はその役割を果たせなかった。そのことに強く責任を感じています。

原子力防災訓練は必要だとは思いますが、事故の規模をどう設定するか、さらに避難範囲を3km、10km、それとも50kmにするか、その想定は難しいと思います。

原発の近くに住む人たちには、国のエネルギー政策や原発が地域経済にもたらす影響などを考慮した上で、「原発は安全が前提ではない。機械は万能ではない」という冷静な認識、覚悟が必要だと感じています。

原発再稼働について意見を聞かれることがありますが、自分の町で事故を起こし、何も言える立場にはないと思っています。ただ、今、事故の影響下にある町がどういう目にあっているのか、今も帰れない状況にあることをよく見て、その上で判断して欲しいと考えています。

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避難所に届けられた菓子パンなどの支援物資

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震災当時、企画調整課長だった秋本さんの机には、町に立地する福島第一原発、隣町にある福島第二原発との緊急電話がそれぞれ置かれていました。しかし震災直後、第一原発との直通電話は不通になり、秋本さんは第二原発を通じて第一原発の緊急停止を確認。その後も原発関係の窓口として情報収集にあたりました。

2011年3月11日、福島第一原発は午後3時42分に原発の緊急事態を知らせる通報をしています。事態はさらに悪化し、午後4時36分には通報の重大さのレベルが上がり、原子炉を冷やす装置が正常に動かなくなっていることを通告しました。

しかし、いずれの通報も地震による電話、ファクスなどの通信網の不通により、町への伝達が遅れました。

また、同日午後9時23分には、東電の通報を受けて国が原発の半径3キロ圏内に避難指示を出すのですが、こちらは国から町への直接の連絡はなく、テレビ報道で確認したということです。

原発に関する情報は、遅れや漏れはあったとはいえ全く入っていなかったわけではありません。しかし、秋本さんも渡辺町長も町を離れるその時ですら「数日の避難」だと思っていたのです。

11~12日にかけて避難所対応などで町内を走り回っていた別の職員は「原発は安全でないと困るんだ」と言いました。「安全だと思い込んでいなければ、落ち着いて住民対応なんてできない」ということです。

町幹部の1人は自戒を込めて「正常性バイアス」と表現しました。

12日午前5時44分には、避難指示の範囲は3キロから10キロに拡大され、町のほとんどが含まれることになります。

町は国が前夜のうちに手配していたバス約50台を利用して町民の避難を開始し、12日の午後2時半ごろにはほとんどの町民が町を離れました。第一原発の1号機が水素爆発したのは、それから約1時間後。午後3時36分のことでした。

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(震災記録誌は町民以外にも配布している。ウェブ版はこちら(http://www.town.okuma.fukushima.jp/fukkou/kirokushi)。冊子版の取り寄せ依頼は、大熊町役場企画調整課 kikakuchosei@town.okuma.fukushima.jp まで。

(記録誌をまとめた福島県大熊町企画調整課・喜浦遊)