「沖縄時間」という言葉がある。「ウチナータイム」とも言われ、沖縄特有のゆったりとした時間感覚を表す言葉として使われる。
サンゴ礁の海でゆったりと過ごす良いイメージもあるが、仕事や食事など時間にルーズな人を茶化して「ほら、あいつは沖縄時間だから...」と使われることもある。
「沖縄時間」って、なんだろう?沖縄では本当に「別の時間」が流れているのだろうか。書店には「沖縄手帳コーナー」も存在するらしい。琉球王国以来の歴史をさかのぼり、「沖縄時間」の正体を調べてみた。
「沖縄時間って一体、何なのでしょうか」。首里城の学芸員で、琉球史や沖縄の文化などに詳しい「沖縄美ら島財団」の輝広志さんに聞いてみた。
すると、開口一番こう言われた。
《マスコミを含め、色々なところで「沖縄時間」「ウチナータイム」という言葉が使われますよね。でも、「沖縄時間」を学問的に分析した論文はないんです》
たしかに、沖縄に来る前に東京の国立国会図書館で調べても「沖縄時間」について詳しく説明した書物は見つからなかった。
その名を冠した書籍は数冊あったが、記されていたのは沖縄の人たちの朗らかな日常風景や、突き抜けるように真っ青な空、透き通るような海、黄金色の太陽に照らされた沖縄の自然風景の写真だった。
ただ、沖縄は「複数の時間のゆらぎの中で生きてきた」と輝さんが教えてくれた。どういうことだろうか。
琉球王国の頃、首里城には「時計」と言えるものが2つあった。1つは水時計。「漏刻門」という門に水槽を設けて、水槽から水が漏れる量で時間を計ったという。
決まった時刻になると、漏刻門では太鼓が叩かれ、それを聞いた物見台の役人がほぼ同時に鐘を打ち鳴らす。こうすることで城内外に時刻を知らせていたという。
もう一つは、漏刻門の正面に置かれた「日影台」。太陽の光を用いた日時計だ。
水時計の補助として用いられ、現代の私たちが使う時計と比べても30分程度のズレで機能していたという。
原始的な仕組みながら、思った以上に正確だ。時刻を示す文字盤は24区分されており、これは二十四節気に由来する。
現代と違って、ひとりひとりが腕時計を持っていない時代。目覚まし時計も、アラーム機能がついたスマホもない。「太陽」や「水」を参考に、役人たちは登城していたようだ。
城内の展示では、首里城に通勤していた当時の役人の一日も紹介されていた。
これは、「伊江親方日々記」という資料に基づいたものだ。
朝9〜10時ごろに出勤し、昼の2〜3時ごろには退勤。残業時には、国王の許可が必要だったという。これだけ聞くと「なんとホワイトな職場なのだろう」と羨ましい気持ちになる。
ただ、輝さんによると、ここで紹介されている役人は「三司官」と呼ばれた役人の中でもトップの人たち。今で言えば政府高官クラスにあたるという。
輝さんは、こう話す。
《「国王に残業の許可を得ていた」というのは、ちょっと驚きますよね(笑)。現代でも「残業の許可は社長からもらうこと」という決まりはなかなかないでしょう(笑)。でも、直属の上司に「課長、今日は少し残業しますね」とかは言いますよね。それと同じ感覚だったとしたら、当事者としてはそこまで不思議はないのかもしれません》
ただ、「伊江親方日々記」の中で「国王に残業の許可を得ていた」と解釈できる部分が登場するのは、尚穆(しょうぼく)王(1752即位~1794退位)の治世である1784(乾隆49)年の記事一つだけだという。
残業のたびに国王から許可を得ていたかは不明であるため、ケースのひとつと理解した方がよいそうだ。
首里城でどれだけの役人が仕事をしていたのか。どんな仕事をしていたのか。どんな勤務実態だったのか。わからないことは、まだまだ多いという。
独立国として、450年もの歴史を刻んだ琉球王国。その往時を知る手がかりが乏しいのには、沖縄が辿った悲しい歴史がある。
1872(明治5)年、明治政府は琉球王国を強制的に廃し、沖縄県を設置した。この「琉球処分」が実施された当時、沖縄には「評定所文書」という行政文書が2000冊余あったという。
現存する貴重な資料群には「尚家文書」があるが、そこにはない内政関係の文書が「評定所文書」には含まれていた。
《廃藩置県の時、首里王府が持っていた資料の多くは明治政府に接収されてしまったのです。琉球処分は、内務省から派遣された松田道之という官僚の手によっておこなわれました》
戦前の内務省は「官庁の中の官庁」と言われるほど強大な権限をもつ役所だった。国内行政の大半を取り仕切り、警察も管轄していた。資料は内務省の倉庫で保管されていたという。
では、これらの資料はどうなったのか。
《実は、東京に持ってきた資料のほとんどは関東大震災(1923年)で燃えてしまったんです。一部の原本や写しが、警視庁の書庫や東大の法学部に残されただけでした》
太平洋戦争での沖縄戦も、琉球史に影を落としている。激しい地上戦によって、沖縄に残っていた貴重な史跡や文化財、歴史資料のかなりの部分が焼失、散逸した。
役人の勤務実態を詳細に知ることができる資料は今の沖縄にはまとまったかたちで残っていない。
「沖縄時間」について知るには、沖縄と「旧暦」の関係性を深さを知る必要がありそうだ。代表的なものが、旧暦との結び付きが強い年中行事だろう。
「旧暦」とは明治初期まで使われていた「太陽太陰暦」のこと。月(太陰)の満ち欠けを基に作られたカレンダーだ。作物の種まきや収穫のタイミングはもちろん、年中行事も旧暦に基いている。
沖縄の書店には「沖縄手帳コーナー」がある。これらの手帳のカレンダーには、旧暦や年中行事などが細かく記されている。
輝さんは、沖縄と旧暦の関係をこう語る。
《沖縄では今も旧暦を大事にしています。旧暦というのは、いわば農業暦や漁業暦でもあるんです。農業や漁業に従事する人たちは、月の満ち欠けや潮の満ち引きなど、かつての暦で動く世界がいまも残っています》
沖縄には、有名な墓参り行事「清明祭」がある。旧暦に基づく行事で、沖縄の人々にとっては大事な祭祀だ。
この時期にスーパーに行くと、お供え物のセットなどが売られている。本州などの「お盆」に近い感覚だろうか。しかしまた、沖縄のお盆は「旧盆」であり、こちらもかなり盛大のようだ。
近年は観光イベントとして知られる「ハーリー」(伝統的な漁船を使った競漕)も、もともとは航海の安全や豊漁を祈る旧暦の行事だった。
沖縄で現在も旧暦で行われる行事は、すべて死者や神(自然神)と関わるものだ。沖縄で「祖先崇拝」や「自然崇拝」が盛んだというのは、そういうことなのだろう。
ある意味では、現世のための時間=新暦、他界(あの世)のための時間=旧暦ということもできるかもしれない。
こうして21世紀になっても、「琉球」の文化は脈々と受け継がれている。
もちろん、沖縄では公的な場では1年を365日とする太陽暦(グレゴリオ暦)が使用されている。
明治政府は1871年(明治4年)、全国的に廃藩置県をおこなった。だが、このときの沖縄はまだ、独立国「琉球王国」だった。
1873年(明治6年)、明治政府は旧暦を廃止し、西洋と同じ太陽暦(グレゴリオ暦)を導入した。このとき沖縄は「琉球藩」となっていた。
琉球王国が滅亡し「琉球藩」が「沖縄県」になったのが、1879(明治12)年だ。沖縄で太陽暦が本格的に普及していくのは、この「琉球処分」以降だとされている。
廃藩置県も太陽暦の導入も、沖縄県は他の県と比べて6年のタイムラグがあったことになる。
輝さんは、こう語る。
《琉球王国がなくなり、「今日から沖縄県です。時間のシステムも変わります」といきなり言われても、そう簡単には変えられないですよね。少しずつ、少しずつ、変わっていったのだと思います》
まずは沖縄で共通語を教えられる教員の育成を目指し、1880(明治13)年に「会話伝習所」という学校が那覇につくられた。これはのちに沖縄小学師範学校(のちの沖縄県師範学校)となる。
1886(明治19)年には、那覇より首里城のふもとにある池「龍潭」のほとりに移転した。ここはかつて琉球王国の最高学府「国学」があった場所だった。
《やがて教育制度の改編が進み、沖縄県立の小学校・中学校もつくられました。学校では科目が分野ごとに分けられ、時間割がつくられ、決められた時間の中で授業がおこなわれた。時間割に基づいて、カリキュラムをこなしていくわけです》
《時間感覚を育てるうえで、時間割の影響は大きかったとおもいます。学校生活のなかで「時間をまもりなさい」という考えもでてくる。近代的な時間感覚を育成する上で、学校の影響は無視できないと思います》
おそらく学校教育を受けた世代や個人と、そうでない人々の間にも、時間感覚のギャップがあったのかもしれない。近代学校教育の普及や就学率の高まりなど、時代とともに時間感覚の差は縮まっていったのではないだろうか。
こうして旧暦で暮らしてきた人々に、太陽暦や1分1秒を刻む時間感覚がもたらされた。ただ、学校教育があるからといって、地域に根付いた時間感覚が全てリセットされるわけではない。
例えば、九州・宮崎県には「日向時間」という言葉がある。「沖縄時間」と同様、時間にルーズということを意味する。
宮崎公立大の永松敦教授(日本民俗学)は、宮崎県が農業が盛んなことを理由に挙げつつ、「人間相手の商売で飯を食う仕事ではなく、自然や動物相手の仕事なので時計はいらない」と指摘。また地理的に日が長いので「なおさら時間を気にしないでいい」と分析している(朝日新聞デジタル2017年8月28日)。
沖縄もかつては農耕社会だったし、その根っこには旧暦がある。もっと言えば、沖縄には鉄道がなく、車社会だ。こうしたインフラ環境も、ゆったりとした時間感覚の背景にあるのかもしれない。
450年続いた琉球王国で用いられた旧暦と、明治維新で導入された太陽暦。沖縄には、いまも2つの時間軸が流れる。そのゆらぎの中で「沖縄時間」は生まれたのだろうか。
旧暦では、1年間は24の季節に区切られた。「二十四節気」の中で、いにしえの人々は、豊穣を祈り、自然の恵みに感謝し、季節の移り変わりを感じとっていた。
近世琉球の様子を伝える行政文書に「規模帳」があり、たとえば首里王府が宮古・八重山の年中祭祀に制限や禁止を命じた記事が確認できるという。「磯神祭」や「いも初祭」など、村々のさまざまな祭りが禁止されたり、ぜいたくも制限されたりした。
首里王府は、民衆に貢租を残らず納めさせるため、時間や労費を生産にふりむけさせようとしていたという。
輝さんは、琉球時代の民衆の暮らしをこう語る。
《「やるな」ということは、逆を言えば「やっていた」ということ。沖縄は日照りだったり、天候が悪かったりで、作物が育ちにくいことも多い。そんな中「働け、働け」という空気ばかりだと、つらいと思うんです》
《季節のお祭りは庶民にとってみれば大事な息抜きでもありました》
月の満ち欠けや潮の満ち引き。太陽や水。スマホや腕時計などの「時間」に囲まれていると、そんな風に、世界には様々な"時の刻み方"があるのを忘れてしまう。
時間の多様性に改めて気づかされるのが「沖縄時間」なのかもしれない。
歴史を知ることは、「アタラシイ時間」を生み出すヒントになるかも。
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人生を豊かにするため、仕事やそのほかの時間をどう使っていくかーー。ハフポスト日本版は「アタラシイ時間」というシリーズでみなさんと一緒に考えていきたいと思います。「 #アタラシイ時間 」でみなさんのアイデアも聞かせてください。