6月12日に92歳で亡くなった 元沖縄県知事・大田昌秀さんは、ハフポスト日本版に対し平和を訴えるメッセージを遺していた。
大田さんは、戦時中に少年兵部隊「鉄血勤皇隊」に動員された。多数の学友が戦死するのを目前にした。終戦間際の1945年6月、首里から撤退した守備軍司令部と主力部隊は南部へ後退、摩文仁のある喜屋武半島は米軍の激しい攻撃を受けた。そのときの模様を次のように語っていた。
「私は至近弾で右足の裏がえぐりとられて歩けなくなり、腹ばいで移動していまた。そうしたら、戦車がいっぱい押しかけてきて、住民と将兵が摩文仁の狭い海岸に追い詰められたわけです。(米軍の)戦車がすごい音を立ててきますから、海に飛びこんだんです。意識を失って、気がついたときには胸まで潮に使って海岸で倒れていた。それでやっと生き延びましたが、多くの人が亡くなりました」
戦時中の悲惨な体験を元に、大田さんは終生、平和と基地問題の解決を訴え続けた。
この動画は2015年7月、保坂展人・世田谷区長とハフポスト日本版のインタビューに大田昌秀さんが答えたときのものの抜粋だ。
「軍隊は決して民間人の命を守らない」として、若者たちに戦争について学び、その悲惨さを追体験するように訴えた。
——戦争を体験した太田先生から、若者たちや女性たち、すべての平和を作っていこうという人たちへのメッセージをお願いします。
沖縄が誇るべきものは何か、いつも考えるんです。すぐに気づくのは、沖縄の人は平和に対する思いがとても強いということですね。いろんな形の平和行事が絶えず起きてるわけなんです。「平和力」という、格別に平和を大事にしていく思いが強い。これは琉球王国時代から、一切の武器を携帯させなかったわけですよ。
沖縄から空手が発達したのもそれが原因だと言われています。1609年に薩摩の琉球侵略がありましてね。琉球人が反乱を起こすのを恐れて、武器の携帯どころか武器の輸入も全部禁止しました。その後100年間、琉球の人たちは武器を一切持たなかったんですね。
——ということは戦争もしなかった?
そうそう。ですから、そういう背景があって、ことのほか平和に対する思いが強い。私は、沖縄の平和力は誇りにしていいと思っています。今、平和について報道された沖縄の新聞記事を切り抜いているんですが膨大な量になって、いずれ本にまとめようと思っています。
若い人たちに申し上げたいことは、軍隊は決して民間人、女性や子供たちの命を守ろうとしない。戦争のときに旧日本軍が出した戦場の規則があるんです。同僚の兵隊が負傷しても構うなと。下を見ないで敵に向かっていけと。敵が戦車に女性たちを括り付けていても、日本の人たちを殺しても敵に向かえと、書かれているんです。
若い人たちがいざ戦争に巻き込まれてしまうと、どんなに大変なことになるのか。戦後70年たって、沖縄の人たちは「二度と沖縄を戦場にしたくない」という思いです。(作家の)司馬遼太郎さんが『沖縄・先島への道』という本の中で「軍隊は、軍隊という組織を守る存在であって、決して非戦闘員の生命財産を守る存在ではない」と言ってるんですね。
司馬さんが戦時中に戦車隊にいて、敵を迎え撃つために待っていると、民間の人が荷物を持って道路を埋めて逃げてくると。どうしたらいいか?大本営のえらい人が言うには「構わずにひき殺して行け」ということで、ショックを受けた。よくよく考えたら「軍隊が非戦闘員の生命財産を守る存在ではない」と分かったというんです。
細川護貞という近衛文麿首相の秘書官が、沖縄戦が終わっていよいよ本土決戦となったときに、大阪の軍司令官が「食料が不足してきたから女性や子供たちを殺せ」という命令を出したと書いているわけです。戦争がいかに大変なものであるかというのを本を読んで追体験していただき、平和というものを大事にしていただきたいと思います。
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