戦後の沖縄で、復帰運動など社会的な活動の主軸を担った沖縄県教職員組合(沖教組)。長年にわたる活動で蓄積された膨大な文書類や写真が同県読谷村に寄託され、村が電子化を進めている。米軍の航空機や演習の爆音にさらされる教育現場の苦悩などが記述され、アメリカの統治下に置かれた戦後社会の姿が浮かび上がる。電子化の一部については朝日新聞社が運営するクラウドファンディングサイト「A-port」で資金を募っている。村は公文書館の設置も構想しており、研究者にとって価値ある資料群になりそうだ。(朝日新聞記者 川端俊一)
歳月を経て色の変わった紙にペン書きの文字が記されている。
「射的演習用の砲弾 飛行機からの爆弾 一日五拾発......常に恐怖感におそわれ学習効果僅少」
「近くで爆発音と共に破片が運動場に数カ所飛んで来た 大きい破片で長さ十cm、中3cm位のもの、幸にして児童には被害なかった」
復帰前の1958年、沖縄教職員会(現在の沖教組)が各学校を対象に行った、米軍の演習や航空機騒音の被害に関する「爆音調査」への回答用紙だ。たびたび砲撃演習が行われていた海兵隊キャンプハンセンに近い本島北部の学校から寄せられた。
沖縄では昨年12月、学校の校庭に米軍ヘリコプターから窓が落下する事故が起きたばかりだが、かつてはさらにひどい状況だった。
米軍飛行場のある北部・伊江島近くの離島の学校は「騒音が多大で全く学習が不可能な時間がある。距離百米から五十米まで低空してくる」。米軍機の低空飛行に悩まされ、「学童をからかって終始低空で校舎の上空を飛来している低劣な飛行士もいる。基本的人権を守る問題から許さるべき行為ではない」と回答している。
今年1月、米軍の攻撃ヘリが不時着した渡名喜島の学校は「低空による爆音のため授業が出来ない時も多々ある。児童生徒は低空による爆音のため恐怖症になっている」と回答。当時から騒音被害を受けていたことがわかる。
基地に近いほかの学校の回答にも軍用機の爆音について「十一日間で六時間四十分も授業中止」「爆音に戦慄し教室をとび出す児もいる」といった深刻な被害がつづられている。
だが、学校現場の苦悩は騒音にとどまらなかった。
ある中学校の回答にはこう書かれている。
「演習部隊が来る際は演習部隊の後をおって物もらい、スクラップ拾い等したりする生徒がいて学校欠席する生徒がいた。この対策として学校は父兄と連絡をとり欠席生徒がないよう努めている」
当時は今以上に多くの米軍基地が島の各地に存在していた。人々の生活がさまざまな形で影響を受けざるを得なかったことが伝わってくる。
基地被害の資料以外にも貴重な文献がある。
「註文書」と題されたファイルもその一つだ。本や楽器、跳箱、マット、踏切板、グローブ――といった学用品のリストがとじられている。
激しい地上戦の砲火にさらされ、校舎の再建が急務だった50年代、教職員会の屋良朝苗会長(後の沖縄県知事)らが全国を行脚して募金を呼びかけ、数千万円が集まった。だが、校舎建設費には使えず、代わりに学校の備品購入に充てられた。
これらは全国の友愛がこもった「愛の教具」と呼ばれ、各校に配布された。リストはそのときのものだ。
また、米国統治下の沖縄では日の丸の掲揚が自由ではなかった。50年代、教職員会は学校での掲揚を求めて陳情したが、許可はされなかったという。53年元旦に掲揚が許可された際、復帰への機運を盛り上げようと教職員会が掲揚を呼びかけたことがある。
当時の資料によれば、各校宛てに屋良会長名で「祖国復帰への前進であり、愈々(いよいよ)祖国への親近感を深めるものがあり、皆様と共に感激に堪えません」との文書を送り、地域での掲揚を促している。
これらの資料は2013年に寄託された。沖教組の事務局がある那覇市の建物が老朽化し、管理も十分に行えずにいたところ、読谷村の村史編集係長だった泉川良彦さん(63)=現・村立図書館長=が重要性に気づき、村への寄託を申し入れた。
同村は、会長だった屋良氏の出身地でもあり、散逸しないよう県内での保存を望んでいた沖教組側と話がまとまった。
トラック数台分の資料は村史編集室で管理されている。文書類だけで6444冊。そのうち4割の約2600冊、約15万4千㌻をPDF化し、編集室で閲覧できる。一部はインターネットでも見られるが、予算の制約もあり、すべてを電子化できるかどうかは見通せないという。
泉川さんは「沖教組は復帰運動や教育、本土との格差の問題など戦後沖縄の社会問題で重要な取り組みを担っていた。多くの研究者がこの資料を研究してくれればありがたい」と語る。
データベース化に研究者が支援、資金はA-portで
読谷村に寄託された沖教組資料は、1940年代から現代にわたり、文書類のほか約9千枚の紙焼き写真や約1万6千コマのネガフィルム、音声テープ、ビデオ映像、書籍などがある。写真には、日本への復帰を求める集会の場面や、1970年に起きた米兵による女子高生刺傷事件への抗議集会の模様などが記録されている。
このうちネガフィルムのデータ化については朝日新聞社が運営するクラウドファンディングサイト「A-port」で資金を募っている。
プロジェクトを担当するのは、明治大学研究推進員の村岡敬明さん(31)。沖縄教職員会長だった屋良朝苗氏を中心とした復帰運動を博士論文のテーマとして研究していて沖教組資料に出会った。復帰運動のプロセスを知る上で価値ある内容と考え、個人としてデータ化の仕事を買って出たという。「写真によって当時の沖縄が視覚的に分かる。研究者が自由に閲覧できるようなデータベースにできたら」と村岡さんは語る。
クラウドファンディングの目標額は100万円。支援は4月23日までウェブ(https://a-port.asahi.com/projects/yomitan-history/)で受け付ける。問い合わせはA-port事務局(03・6869・9001)。
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沖縄県教職員組合(沖教組) 沖縄の教育関係の職員らにより、1947年に沖縄教育連合会として結成され、52年、沖縄教職員会となり、71年から沖教組に。米軍統治下の68年、屋良朝苗会長を初の公選による琉球政府行政主席として当選させるなど、組織として復帰運動の中心にあり、復帰後も基地撤去運動などを担ってきた。