2年ぶりに沖縄を訪れました。7月1日から3日にかけて、雨模様の東京を離れて、梅雨の明けた沖縄を歩きました。沖縄とのつながりは古く、初めて訪れたのは1978年春のことでした。1972年の本土復帰にともなって、アメリカ統治下の車両の右側走行を本土と同じ左側に切り替える「7.30交通方法変更」の少し前でした。
以来、沖縄に通うこと約100回、滞在した期間はあわせて半年を超えています。沖縄に知人、友人も多くいます。ただし、この4年間は首長の仕事がらで日程調整が難しく、2回ほど訪問したのみです。とりわけこの2年間は、辺野古新基地問題をめぐって激しく揺れてきた沖縄に関心を寄せながら、機会をつくることが出来ませんでした。
今回ようやく沖縄を訪れたのは、旧知の友人に普天間、嘉手納、辺野古と案内してもらい、沖縄の現実(いま)をしっかり直視し、また空気を肌で感じたいと願ってのことでした。ハフィントンポスト編集部も同行しました。到着してすぐに大田昌秀元沖縄県知事のお話を伺い、その晩には、沖縄のジャーナリストを中心に話を聞きました。
基地の案内をお願いしたのは、建築家の真喜志好一(まきし・よしかず)さんです。最初にお会いしたのは1980年前後なので、ずいぶん長いおつきあいです。沖縄大学や沖縄キリスト教短期大学等の校舎等を手がけてきた真喜志さんですが、最近は本業の建築よりも基地問題で奔走しています。ご本人いわく「世界平和の設計で忙しい」とのこと。
※動画の音量にご注意ください。
まず、普天間基地を一望できる嘉数高台公園に向かいました。空は晴れ渡り、夏の陽差しが刺すように大地に注いでいます。高台に向かう階段の両側で、沖縄でサンサナーと呼ばれるセミがホルトの木に大量にとまっていて、これまでに聞いたこともない音量で周囲の空気を震わしていています。ここは、70年前の沖縄戦の激戦地です。
「読谷村の海岸から上陸した米軍と日本軍との最初の戦闘が行なわれたのが、ここなんです」と米軍上陸地点を指さして、真喜志さんは説明してくれます。
沖縄戦当時に日本軍が分厚いコンクリートでつくったトーチカが公園内に残されています。高さ92メートルのこの高台をめぐって、15日間の激戦が続いたといいます。高台には、大きなサンゴ岩礁があります。ということは、昔は海だったということでしょうか。
「ここは隆起珊瑚礁で出来た台地です。目の前に見える普天間飛行場も、隆起珊瑚礁で出来ているので、「昔は田んぼだった」という発言はありえない話です。真喜志さんは、10数枚の写真やチャートを紙芝居のように取り出して、眼下の普天間飛行場を見ながら、「自民党勉強会」で飛び出した根拠なき風説に「事実」を重ね合わせます。
百田氏発言「普天間飛行場、元は田んぼ」「地主年収、何千万円」を検証する
百田尚樹氏が「田んぼで、何もなかった」とする米軍普天間飛行場が建設された場所は沖縄戦の前、宜野湾村の集落があった。宜野湾市史によると、1925年は現在の飛行場に10の字があり、9077人が住んでいた。宜野湾や神山、新城は住居が集まった集落がほぼ飛行場内にあり、大山などは飛行場敷地に隣接する形で住宅があった。 (沖縄タイムス・2015年6月27日)
沖縄戦前に撮影された写真には道路や集落が写っています。
沖縄戦の最中、無人の集落を米軍のブルドーザーで整地し、普天間飛行場が建設されました。
建設された普天間飛行場。(1)と重ね合わせれば、「誰も住んでいなかった」とは、事実でないことがわかります。
嘉数高台とは反対側の滑走路にMV22オスプレイが駐機しています。近づいて機体を見たいと思い移動しました。やがて、低い振動音が鳴り響き、オスプレイが離陸する場面を見ることが出来ました。住宅密集地の真ん中にある普天間を飛び立ったオスプレイは、垂直飛行から水平飛行に切り替えて東海岸の方へ飛び立っていきます。
5月17日にはハワイのオアフ島で着陸に失敗したMV22オスプレイが墜落・炎上し、米海兵隊員2名が死亡する事故があったばかりです。
海兵隊仕様のMV22は、すでに米軍普天間飛行場に24機配備されており、陸上自衛隊も同機種のオスプレイを2018年度までに米側から計17機購入することを決め、佐賀空港への配備を検討している。このほか、米国防総省は今月11日、米空軍仕様で特殊部隊などの輸送に使用するオスプレイCV22を計10機、横田基地(東京都福生市など)に配備すると発表している。(朝日新聞2015年5月18日)
事故原因が調査され究明されることを待つことなく、ハワイで墜落・炎上したMV22オスプレイと普天間の同型機は、翌日から何事もなかったかのように飛び立っています。(沖縄タイムス5月20日)
真喜志さんは、ふたたび紙芝居のチャートを広げます。(真喜志チャート クリアゾーン)
普天間飛行場のある宜野湾市で、2007年12月に入手した資料(「米海兵隊航空基地普天間飛行場マスタープラン」)によると、普天間飛行場には土地利用禁止区域(クリアゾーン)が指定されているにもかかわらず、その区域内に小学校や保育所、病院、公共施設等18施設、住宅や民間施設が800棟あり、約3600人が居住していることが明らかになりました。(参照→http://www.city.ginowan.okinawa.jp/DAT/LIB/WEB/1/06_07_.pdf) ハワイでは、厳格にクリアゾーンは守られ、区域内に公共施設や住宅が存在することなどありえないことだと言います。
「だから、普天間飛行場は危険で、辺野古に移設する必要があるというのが、日米両政府の言い分です。ところが、1966年、ベトナム戦争の頃につくられた海兵隊の基地プランがありました。そのプランはずばり辺野古に軍港をつくり、弾薬庫を設け、2本の滑走路を持つ基地構想でした」
あたかも1996年のSACO(沖縄に関する特別行動委員会)合意に基づいて「普天間返還」が正式決定して、代替施設として「辺野古」が浮上してきたかのように、私たちは聞いてきました。
「普天間基地には、弾薬庫はありません。陸上ですから港もありません。辺野古の海は深くて軍港としての条件もそなえています。つまり、基地の縮小どころか拡大と充実になり、ベトナム戦争当時から温めてきたプランだったのです」(真喜志さん)
ベトナム戦争当時の沖縄は、米軍の統治下にありました。基地建設は米軍の負担で行なうしかなく、構想はあっても計画は進むことはありませんでした。けれども、それから50年が経過した現在は、「普天間の危険性除去のための移設」という名目で、日本政府の費用負担で基地建設を進めることができます。2006年の「報道ステーション」(テレビ朝日)が特集を放送、次のようにふれています。
沖縄県公文書館に保管されている「海軍施設マスタープラン」は、1966年、海軍の依頼を受け米設計会社が作った計画書。「エンタープライズ級の空母が停泊可能」「陸海空作戦の中心となる複合施設」など、米軍が目論んでいた一大複合軍事基地の姿が浮かび上がってくる。http://www.tv-asahi.co.jp/hst/contents/sp_2006/special/060412.html
大田昌秀元沖縄県知事も、辺野古基地のルーツは1966年の計画にあると見ています。
「当時、アメリカはベトナム戦争で軍事費を使ってしまって金がなくて、基地の建設費も全部自前だったために計画は放置された。ところが、半世紀ぶりにこの計画がよみがえり、移設から建設費、そして維持費も日本政府の『思いやり予算』で日本の税金でまかなわれていく」
1990年代の後半、辺野古への「移設計画」は「海上ヘリ基地」と呼ばれていました。当時、国会で私が受けた説明でも、海に浮かべる方式や海底に杭で固定する方式を検討中と言われたのをよく覚えています。大田元知事は、それはまったく違うと指摘します。
「1995年のSACOでのアメリカ側の文書を見ると、MV22オスプレイを24機配備し、この演習期間も含めて建設期間は12年、建設費用1兆円、運用年数40年、耐用年数200年と書いてあります」
辺野古の海を見渡せる丘に、5年ぶりに立ちました。大浦湾の海はさめざめと青く、よく晴れた太陽の光をきらきらと受けて、生命の源泉を見るような感動を覚えます。ただ、以前と大きく違うのは海上保安庁の船が停泊し、海上での抗議行動を封じるためのフロートが大きく阻止線を描いていることです。
目の前の海が、計画ではどのように変貌するのかを真喜志さんに教えてもらいました。その範囲は広大で、大浦湾の海に半世紀前から米海兵隊が待ち望んでいた基地が出来るというのです。辺野古の基地建設が加速し、資材搬入などが始まることに抗議する米海兵隊・キャンプシュワーブのゲート前には、多くの人が座り込んでいました。
「最初は数十人で始まった抗議行動は、だんだんと規模が大きくなりました。今は那覇市から毎日バスが出ているし、他の町からも週に1度など定期的に集まっています。まもなく、この座り込みが始まってから1年になります」(真喜志さん)
7月6日で「365日」を経過しています。
また、海を見渡す浜辺には以前からあったテントもありました。大浦湾全体を見渡せる灯台跡に登りました。基地建設の準備が進む現場を囲うようにオレンジ色のフロートが大きく海面を区切っています。この日は風が強く、抗議船は出ていませんでした。台風が近づいているとのことで、台船等は一部撤収しているとのことでした。
この2年間で、沖縄の世論は「辺野古新基地建設反対」へと大きく変わりました。最近は全国の世論調査でも、以前よりも賛成が減少して、反対が増えていることは見逃せません。名護市長選挙、沖縄県知事選挙、衆議院選挙と沖縄の民意は、はっきりと「辺野古NO」を示しています。沖縄は日本全体の国土のわずか0.6%であるにもかかわらず、米軍基地の74%が置かれています。
※動画の音量にご注意ください。
真喜志さんの案内で、極東最大の嘉手納空軍基地に向かいました。嘉手納には3700メートルの滑走路が2本あり、東京ドーム420個分(19.95キロ平方メートル)と羽田空港の約2倍もあり、さらに広大な敷地にある嘉手納弾薬庫を入れると嘉手納町の実に83%が基地として使われています。
嘉手納弾薬庫は、27.2キロ平方メートルあり、世田谷区の面積58キロ平方メートルと比べると半分近い広さとなります。あまりもの広さにため息が出ます。
「道の駅かでな」は屋上で基地全体を見渡せるようになっていて、建物の中には平和学習室もあります。6月下旬からは新たな外来機が飛来してきていて、テレビカメラで撮影するメディア関係者や見学者が相当いました。私たちがいた短い時間でも、次々と軍用機が離陸していき、空中空輸機が飛び立つのも見ました。沖縄にもうこれ以上、新たな基地はいらないという声が席巻しているのは、戦後70年にわたって重い基地負担が継続していることは忘れられません。
沖縄を離れる前に、沖縄地元2紙のひとつ琉球新報の富田詢一社長にもお会いしました。「現在の問題の源流は、明治の『琉球処分』にある」と振り返り、琉球新報に連載した記事をまとめた『沖縄の自己決定権--その歴史的根拠と近未来の展望』(2015年6月刊・琉球新報社・新垣毅著) を手渡してくれました。読み終えて、独立した海洋国家であった沖縄が、軍事力を持たず卓越した外交交渉で米欧列強とわたりあってきた歴史に目をひらかされました。