2011年3月11日の東日本大震災で発生した津波により、74人の児童と10人の教師が犠牲となった宮城県石巻市立大川小学校。死亡・行方不明の児童23人の19家族が3月10日、石巻市と宮城県に対して、児童1人当たり1億円、計23億円の損害賠償を求めて仙台地方裁判所に提訴した。
大川小の事故を取材し続けているフォトジャーナリスト加藤順子さんが、今回の提訴に至った経緯をリポートする。
東日本大震災からちょうど3年となる2014年3月11日午後2時46分。津波で児童・教職員84人が亡くなった、石巻市釜谷の旧大川小学校の校庭には、同小の遺族や地域の人たちが集まり、黙祷を捧げた。
慰霊法要が続くなか、ある亡くなった児童の父親が、腕で涙をぬぐいながらたまりかねた様子でその場を離れていった。
「朝からずっと涙が止まらない。この3年間何もできなかったことを考えると、もう……。検証委員会とか、無駄にした時間も多かった」
当時小学6年の次女みずほさんを大川小で失った佐藤かつらさんは、この3年間をそう振り返った。
石巻市は2012年12月に事故検証委員会を立ち上げたが、まとまった検証報告書に新しい事実はほぼなく、そのあり方についても遺族は懐疑的なままだったのだ。
当時学校にいた児童76人と教職員11人のうち、助かったのは4人の児童と男性の教務主任の1人だけ。大川小の児童遺族の数は、54家族にのぼる。このうち、佐藤さんをはじめとする遺族たちは、真相究明を求めて自ら事故について調べてきた。当時の状況を少しでも知っている人がいると聞けば会いに行き、話を聞かせてもらう。
市教委にも情報開示請求をして、大量の資料を読み込む。そうした努力を今でも続けている。だからこそ、学校側や石巻市教育委員会が行った調査やその説明、国と県の主導で招集された事故検証委員会による検証結果には、大きな不満を感じている。
大川小にある時計の針は、あの日から、午後3時37分頃を指した状態で止まったままだ。追波湾に注ぎ込む新北上川沿いの河口から4キロほどの川沿いに建つ大川小は、あの日、川を越流してきた津波と陸を遡上してきた津波に襲われた。
地震発生後、児童は、5分ほどで校庭に避難。学校が津波に襲われるまでの約45分間、そのまま校庭待機を続けた。保護者や地域住民たちの証言から、その後、学校としてもう一度移動を始めたのは、津波に飲み込まれるわずか1分ほど前であったことがわかっている。避難開始から移動を始めるまでの「空白の50分」の間に何が起きたのか、未だに明らかになっていない。
■ 進まない真相究明
あの日、あの場所で何が起きていたのか。逃げるための時間も十分ありながら、大津波警報が出ていることや危機が迫っていることを防災行政無線やラジオ、保護者などから複数の手段で得ていながら、教師たちが児童を校庭に待機させたまま過ごした背景には、どんな事情や状況があったのか。また、学校の裏山には、低学年でも楽に登れるスロープや、下校する子どもたちを迎えに来たスクールバスという避難の手段もあったのに、その手段を利用しなかった理由は何だったのか。
佐藤さんら遺族は、より詳細な真相の究明を求めて、これまで市教委と9回の説明会・話し合いを持った。調査の過程で、当時の大川小では津波時の避難マニュアルが実用性のある形で整備されていなかったり、避難訓練の実施について市教委に虚偽の説明をしていたり、保護者へ緊急時の児童引き取りのルールが存在することすら知らせていないなど、ずさんな安全管理の実態についても明らかになった。
当時の柏葉照幸校長(2012年度で早期退職)による学校経営の実態についても、説明も求めたが、柏葉前校長は「覚えていません」を繰り返している。2011年に在校児童や保護者、地域住民等から聞き取り調査を行った市教委の説明も、当時を再現するには核心部分の情報が足りなかったり、調査や証言に矛盾点が残されたりしたままだ。
特に、大きな矛盾があるとされるのは、生存した男性教諭の証言の部分。この男性教諭が語った津波襲来後のストーリーと、その後に助けを求めた事業所の従業員の証言とが食い違っていることが判明し、証言についての市教委側の説明が、二転三転した。男性教諭は、2011年4月9日の初回の説明会以降遺族の前に姿を現しておらず、病気療養中とされているため、遺族たちは真相を確かめることができずにいる。
また、市教委が2011年6月に発表した調査記録には、「校庭で(津波が)渦を巻いていた」という目撃証言がある。こうした重要証言が、誰のものかもわからないままとなっている。
■ 精神的に追い詰められる遺族
大川小学校の問題が大きく取り上げられるようになったことの一つに、被災規模そのものの他に、「事後対応」の問題もある。
柏葉校長が、被災した学校現場を訪れたのは発災から7日目。それも、取材に入った雑誌記者に説得されてのことだった。捜索に立ち会ったことは一度もなかったという。また、学校や市教委には、学校で子どもを亡くした家族に対し、「何があったのか」を調査し詳しく説明する必要がある。しかし、2011年6月4日に行われた説明会では、遺族からの質問が終わらぬうちに、あらかじめ通告した1時間が過ぎると、遺族たちの戸惑いをよそに、説明会は切り上げとなった。学校、市教委、亀山紘市長ら関係者が一斉に部屋を出て行く姿に、もはや立ち上がれなくなった遺族たちも多かった。また、説明会開催も何度か引き延ばしに遭っている。
こうした出来事が続くなか、2012年6月、市教委は突然第三者による検証委員会の予算を計上したことで、市教委と遺族との対立は決定的なものとなった。
結局、文科省が主導で検証委員会を立ち上げたが、2013年2月からの1年間の検証では新しい事実はほとんどなく、生存者からの聴き取りも一部のみという、中途半端なものだった。また、遺族が要望していた学校経営や教員組織の背景の調査については、ほとんど手つかずのままに終わった。
震災から3年を目前にした2014年3月10日。市教委や学校側の説明、検証委員会の検証報告に納得がいかない遺族19家族が、市と県に対し、児童一人当たり1億円の損害賠償を求めて仙台地裁に提訴した。
遺族たちはこの3年、真相を求めて、市教委や学校と対峙し、検証委員の専門家らと対峙してきた。慣れないことの連続は精神的な負荷も大きく、筆者は、遺族たちの沈みがちな表情も何度も見てきた。「調子、悪そうですね」と声をかけることも、最近は多くなった。それでも、ある父親が毅然と言った言葉が、忘れられない。
「これも子育てだからね」
(文・写真 加藤順子/フォトジャーナリスト)
市教委との説明会を中心としたやり取りや、検証委員会についての動きは、「大津波の惨事「大川小学校」~揺らぐ“真実”~」 (ジャーナリスト池上正樹との共同連載)で紹介している。
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