「美味しんぼと"三国鼎立"」第4回です。
できましたら、私の立場・背景・考え方に目を通していただけるとありがたいです。
このシリーズのタイトルにずっと「三国鼎立」という言葉を使い続けてきましたが、過去3回の記事では、これが何を言わんとしているのか、触れてきませんでした。
今回は、美味しんぼの件にとどまらない、現在の困難な政治状況―「三国鼎立」について書いていきます。
はじめにお断りしておきますが、本記事では話をわかりやすくするために「戯画化」して書いています。
特定の個人や組織をレッテル貼りする意図は持っておりませんので、ご了承ください。
また、「引用」は著作権法で認められた正当な行為であるということを申し添えておきます。
■「美味しんぼ 福島の真実編」の「ゴール」は何か?
第2回に書いたことの復習です。
「美味しんぼ 福島の真実編」は明らかに政治的意図をもって描かれています。
であれば、表現はその政治的意図の達成に近づかなければ失敗であり、美味しんぼは事実性・妥当性の怪しさによって「オウンゴール」をやらかしてしまっている、ということを書きました。
では、雁屋哲氏は「福島の真実編」を通じて、どんな「ゴール」をめざしていたのでしょうか。
端的に示されているのは、最終第24回のこのコマでしょうか。
福島を出たいという「意志を持っている人たち」に対して、適切に協力するのは是でしょう。
ただし海原雄山は、井戸川克隆氏と荒木田岳氏の意見を踏まえつつ、「危ないところから逃げる勇気を持ってほしい」と語ります。
井戸川氏と荒木田氏は「今の福島に住んではいけない」「福島がもう取り返しのつかないまでに汚染された」と言っているのですから、これらを合わせて普通に理解すれば、山岡士郎と海原雄山は
「福島県全住民が逃げるべき。その全住民に対して住居・仕事・医療などすべての面で国が補償すべき」
と言っていると考えることができ、これが雁屋哲氏が提示するひとつの政治的「ゴール」であると理解できます。
福島県全土が危険だなどという主張に私が反対であることは第2回で述べましたが、とりあえずそれを置いておいて、ではこのゴールを達成するためにはどうすればいいのでしょうか。
福島県民200万人の避難とその全員の生活保障。こんなことができる可能性があるのは国しかありません。
しかし現在の安倍政権がこんなことをするはずはありませんし、仮に民主党政権が続いていたとしてもこれはやらないでしょう。福島県全土が危険だとは認識しないでしょうから。私もしてませんし。
では、どうやって国にそれをさせるのか。
作品中では「働きかける」と言っています。
この作品を書いたこと自体が「働きかけ」なのでしょう。
作品で提言されているアクションは「働きかける」ことだけであり、実行主体は、さんざん批判している「国」それ自体です。
だから結局、これをやろうと思ったら、「とにかく働きかけて、政権に言うことを聞いてもらう」か「そのゴールを掲げる人々が政権を奪取する」かの、どちらかしかないわけです。
こういう行動傾向を「反体制・革命志向」と呼ぶことにします。
■「体制」「反体制・革命志向」「現実志向」の"三国鼎立"
「反体制・革命志向」の問題点はいろいろありますが、代表的なのは上記に上げた「ゴールが遠すぎる」「結局国頼み」という点でしょう。
次の国政選挙は2年後、2016年の参院選です。しかもその1回では政権交代は無理ですから、福島県全県民避難というゴール達成までどんだけの時間かかるんだ、それまでなんにもやらんのか、という話になるわけです。
また、アクションが「働きかけ」中心になりますので、働きかけを強めるために「煽情的になりがち」という傾向もあります。そして煽情的に訴える目的のために「材料を選好する」ことがしばしば発生します。
美味しんぼが「事実に即して甲状腺がん対策を求める」ことよりも「鼻血という、可能性が非常に低いであろう事象で煽情的に表現する」ことを選んだことは、まさにこうした傾向を示しています。
「遠すぎるゴール」「結局国頼み」「煽情的な働きかけ」
こういう行動は、今現実に困難の中にある人々にとって、大して役に立たないのです。
「国の進むべき方向性をどうすべきか」という議論が広範に行われることは必要ですが、そればかりが行われていては、現実に困難にある人々にとっては助けになりません。
東日本大震災の後、行政まかせにせず、自分たちが今できることをやろう、直接住民の力になろうと行動した人々が大勢いました。
そういう人々にとって、体制か反体制かなどという問題は重要ではありません。住民の生活を支えることができれば、困っている人を助けることができれば、使えるものはなんだって使います。
こういう行動傾向を「現実志向」と呼ぶことにします。
「反体制・革命志向」から見ると、「現実志向」は、体制とも協力してしまうので、「そんなことをしていたら社会を変えられない」と考えます。
「現実志向」から見ると、「反体制・革命志向」の遠すぎるゴールは現実的ではないし、煽情的な働きかけはウソくさく感じます。
「反体制・革命志向」は「現実志向」に対して「敵を間違えるな」と言います。
しかし「現実志向」にとってはそもそも敵・味方などという発想がどうでもいいので、「反体制・革命志向」に対して「誰のための行動かを間違えるな」と思っています。
ただ「現実志向」は具体的な行動を志向するので、脱原発という遠いゴールに対しては、賛同していたとしても反応が鈍いという傾向があります。
「反体制・革命志向」と「現実志向」は一見同じ方向性のように思われますが、ゴールが異なるが故に、相容れない隔たりがあります。
この隔たりは結局「体制」に対して漁夫の利を与えてしまっているのですが、それでもいかんともしがたいほど、大きな隔たりが両者にはあるのです。
この政治状況―「三国鼎立状態」が、特に原発をめぐる諸問題においては、ずっと続いているのです。
■固定観念を置き、声なき声に耳を傾けよ
「反体制・革命志向」と「現実志向」の隔たりは大きく、「脱原発勢力の一大結集」などという絵面は、それ自体が「遠いゴール」に思えます。
政治勢力として脱原発勢力をどうやって作っていくかという議論を続けていくことも必要ですが、今重要なのは、具体的に被災者救済を進め、原発のいらない社会に少しでも近づくためにはどのようなアクションをすべきか、という考え方です。
「体制」サイドは、本当に全員が全員「原発ガンガン推進!」という考えの持ち主なのでしょうか。
「美味しんぼ 福島の真実編」では「福島」「福島」「福島」と連呼しているのと同様、「国」「国」「国」「東電」「東電」「東電」と連呼しています。
「国」というのは誰のことで、「東電」というのは誰のことなのでしょうか。
例えば、事故時に決死の覚悟で収束作業を指揮し、最悪の事態を回避した故・吉田昌郎所長も「東電」です。
同じようなマインドを持った人は東電にはもう一人もいないと、決めつけてよいものでしょうか。
自民党の中にもいろいろな考え方の人がいます。
公然と脱原発を標榜する自民党議員もいますし、公言はしないけど実は脱原発である人も私は知っています。
私は板橋区議会の一般質問で、坂本健・板橋区長に対して、脱原発都市宣言と脱原発首長会議への参加を求めたことがありましたが、これは断られました。
しかし、板橋区は住宅用太陽光発電システムや「HEMS(家庭用エネルギー管理システム)」に補助金を出しており、太陽光発電事業者への公共施設の「屋根貸し」に取り組んでいます。
ささやかとはいえ、こうした取り組みは「原発のない社会」に近づくものです。
人間の心や組織の中にある微妙な「ひだ」を固定観念でぶち壊しにしては、脱原発という困難なプロセスは進められません。
「見て見ぬ振りも味方のうち」くらいに考えて、わずかずつでも歩みを進めることが重要です。
あるところには、原発で働きながら、または政権与党で働きながら疑問を持っている人がいます。
あるところには、健康不安を感じながらも「放射脳」と言われることが怖くて言い出せない人がいます。
あるところには、「会津地方は大丈夫なのに」と歯噛みしている人がいます。
主役は、表立って見えないところにいる「声なき声」です。
固定観念をいったん置いておいて、地に足をつけて踏ん張っている人々の「声なき声」に虚心坦懐に耳を傾けていくことこそが、遠回りなようで最も確かな、被災者救済と脱原発への道なのではないかと私は思っています。
次回、「美味しんぼと"三国鼎立"」最終回です!
(2014年5月25日「中妻じょうたブログ」より転載)