確率は、ある事象の起こりやすさを0から1の間の数字で表したものである。通常、確率は客観的に決まっており、誰が見てもその水準に異論はない。
例えば、歪みのない普通のコインを投げれば表も裏も1/2の確率で出る。正しいサイコロをふれば、どの目も1/6の確率で出る。このことに異論を挟む人はいないだろう。
もっと確率の小さい、めったに起こらないことではどうだろうか。例えば、月食や彗星などの天体現象の観測、巨大隕石の落下といった科学的な事象から、宇宙人の襲来といったSFの世界での出来事を考えてみよう。
いずれも確率は小さいながら、0ではない。これらの確率は算定が困難なこともあるが、仮に算定できた場合、主観確率と一致するだろうか。
ここで、主観確率というのは、ある人が、その事象が発生すると考える確率を指す。
即ち、コインの1/2や、サイコロの1/6のような、物理的に定まる確率を、客観確率と呼ぶのに対して、人が感覚として捉えた確率を、主観確率と呼ぶ。
一般に、非日常的な出来事が印象的であればあるほど、その非日常性は際立つ。そして、非日常的な出来事は、主観確率を、客観確率よりも大きくしたり、小さくしたりする。
例えば、日本では、皆既月食はめったに見ることができない。皆既月食は、日本では、2001年以降15年間に9回発生した。
2050年末までの50年間でも、30回であり、およそ2年に1回程度しか見られない。つまり日本で、ある日に星空を見上げた人が、偶然、皆既月食を目にする確率は、0.2%もない。
しかし、TVなどで、たまに天体関連のニュースを見ていると、皆既月食がもっと多く起きているという印象を持つのではないだろうか。このケースでは、主観確率が、客観確率よりも大きくなっている。
別の例で、学校のあるクラスの誕生日に関するケースを見てみよう。同じクラスで、同じ月日の誕生日をもつ生徒同士がいる確率は、どれくらいだろうか。
1年は365日もあるため、感覚的にはその確率はかなり小さいように思われるだろう。しかし、実際には、30人のクラスで誕生日が同じという生徒同士がいる確率は、70%以上もある。このケースでは、主観確率が、客観確率よりも小さくなっている。
主観確率を考える際に、問題となるのが偶然の一致だ。
例えば、ある会社員の夢枕に、ご先祖様が立って、「いつも仕事ばかりするのではなく、たまには会社を休んで、お墓参りに来るように。」と、お告げを授けたとする。
この会社員が、そのお告げに従って、会社を休んで、お墓参りをしていたところ、ちょうどそのときに、自宅に隕石が落下したとしよう。自宅は損壊してしまったものの、幸いケガを負うことはなく、この人は、身体の難を逃れることができた。
この人は、「ご先祖様が、自分の身を、隕石の落下から救おうとして、お墓参りに来るよう、夢で告げてくれた。正に奇跡的で、感動的なことだ。」などと、考えるかもしれない。
しかし、これは本当に奇跡的なこと、と言えるだろうか。
確かに、自宅に隕石が落ちるということは、ほとんどめったに起こらないことだろう。また、この人は、お墓参りには、あまり行っていなかった。
つまり、隕石の落下と、お墓参りが重複する確率は、極めて小さかったと言える。しかし、お墓参りに行く代わりに、いつものように会社に出勤していたとしても、隕石によるケガを負うことはなく、身体の被害は生じなかったであろう。
つまり、このケースでは、隕石の落下が起きる確率は問題ではなく、外出している確率がどのくらいであったかが、ポイントとなる。
この人は会社員で、通常は、日中、会社で仕事をしている。日中に、自宅に隕石が落下しても、身体の難を逃れる可能性は高かったと言える。隕石の落下という、印象的で、非日常的なことを経験し、その難を逃れたときに、外出理由が何であれ、そのことを奇跡的と考えてしまいがちになる。
このケースでは、隕石の落下によって身体の被害を受ける客観確率に比べて、主観確率が小さくなっている。
このように、偶然の一致が奇跡的と捉えられ、神秘や超自然といった装いを身にまとうことがある。古くから存在する迷信や、不合理な習わしには、このような主観確率が介在していることが多いものと思われる。
こうした迷信などに惑わされないためには、偶然の一致の正体を冷静に考え、何が日常で、何が非日常なのかを、見極めることが必要と思われるが、いかがだろうか。
関連レポート
(2016年1月12日「研究員の眼」より転載)
株式会社ニッセイ基礎研究所
保険研究部 主任研究員