私は怖いんです。… がんの治療を受けると、あっという間に100万ドル(約1億1千万円)の請求が来るってご存知ですか?
――メリーアン・ハンマーズさん、カリフォルニア州サウザンド・オークス
ハンマーズさんが非常にありがたいと思っているのは、トランプ大統領などオバマケアに批判的な人たちですら支持している、「既往症に対する保障」だけではない。オバマケアでは保険会社に保険の適用範囲で幅広いサービスと治療法を提供するよう規定されている。ハンマーズさんの場合、白血球を増やすための薬「ニューラスタ」の注射を何度も受ける必要がある。ニューラスタは、血液中の白血球の量を増やす薬で1回投与するごとに、通常数千ドルの費用がかかる。またオバマケアでは、年間または生涯で治療給付金の上限を設けることを禁止している。長期間がん治療を受けるハンマーズさんは、オバマケアが廃止となれば、すぐに上限に達してしまうだろう。
これほど保障の手厚い保険に加入するためには、必然的に年間何千ドルもの費用がかかってしまう。ハンマーズさんは、特に病気の治療で働ける時間が減ったこともあって、自力では支払えない。しかし、オバマケアによる大幅な税額控除のおかげで保険料支払い額が減り、自己負担も軽くなっている。ハンマーズさんは「オバマケアがなかったら、自分がどうなっていたか正直分かりません」と語った。
それでもハンマーズさんが現在受けている保険の適用範囲は、以前会社勤めをしていたときに雇用主経由で受けていたものには及ばない。しかし、がんの診断を受ける直前の数年間に自分で契約していた保険よりは良い。後者の契約では保険適用範囲が狭く、検診を受けるのをためらうほどに自己負担額が高かった。しかしオバマケアで予防検診が無料になり、ずっと先延ばしにしてきた大腸内視鏡検査を受けることができた。大腸内視鏡検査にあたって通常行う予備検査の段階で、医師はハンマーズさんの腹部にしこりがあるのを見つけた。
ハンマーズさんは、もっと定期的に医者に診てもらっていれば、もう少し早くがんが見つかったのではないかと考えることもある。「でも私には多額の医療費を払う余裕はありませんでした。それに自分は健康面で全く問題ないと思っていたんです」
最近、ハンマーズさんが自分の病気のことよりはるかに心配しているのは、トランプ大統領や共和党が多数を占める議会が、十分な代替案を作らないままオバマケアを廃止する可能性があるということだ。
「私は怖いんです。その理由がおかしくないですか?」とハンマーズさんは語った。「今抱えているストレスの一番の原因は、治療の困難ながんではないんです。私の保険がなくなってしまう可能性が高いということなのです」
アメリカの医療、かつての姿
ハンマーズさんのような人々の話の意味を理解し、オバマケアに対する彼らの意見を理解するには、オバマケアが発効する前ハンマーズさんのような人たちが、どういった状況に置かれていたかを思い起こしてみるとよい。バラク・オバマ氏が大統領に就任した2009年までに、アメリカ人の約6人に1人は健康保険に未加入となり、被保険者でも莫大な医療費を払わされる可能性もあった。あの時代、私は健康保険について報じた記者として、こういった人たちに取材していた。現在でもこういった話はよく耳にする。というのは冷淡で、気まぐれで、最悪だった過去の制度のせいで今でも苦しんでいる人がいるからだ。
アップステート・ニューヨーク(ニューヨーク北部)の防衛関連企業で品質検査技師として働くゲイリー・ロツラーさんは、1990年代初めに失業し、家族の健康保険も失った。それから2年間ロツラーさんは無保険だったが、独立業者として何とか職にありつけていた。妻のベッツィさんは奇妙な痛みを感じ始めていたが、医者にかからずにいた。検診を受けるた時には既に、進行性の乳がんにかかっていた。必死の治療の甲斐もなく、ベッツィさんは亡くなった。3人の子供の父親であるゲイリーさんは未払い医療費のために、自己破産を余儀なくされた。
南フロリダに暮らす未亡人のジャクリーン・ルエスさんは、保険に加入しているから大丈夫と思っていた。しかし、医師からがんの疑いがあると聞き、高額な検査を受ける必要に迫られた。結果は陰性だったが、以前短期間ちょっとした婦人科系の症状で治療を受けていたため、保険会社から既往症とみなされ医療費の支払いを拒否された。
エルサルバドルからの移民でロサンゼルスに暮らすトニー・モンテネグロさんは、保険に入らず、警備員として働いていた。しかし糖尿病の治療をできずにいた結果、弱視になってしまった。
シカゴに暮らす貧しい元修道士マリジョン・バインダーさんは医療費が払えず、カトリック系の病院から訴訟を起こされた。
デンバー近郊に暮らす学校教師のラス・ドレンさんは、しっかりした保険に入っているから大丈夫と信じていた。ところが妻が精神科に入院すると治療費が保障給付金の上限に達してしまい、まだ退院できる状態ではなかったが病院から退院させられた。数日後、妻は自殺した。
2010年に成立したオバマケアは、このような問題に対処するための取り組みとして、ハリー・トルーマン元大統領が約60年前に提唱した国民皆保険制度の実現を目指したものだった。しかしトルーマン元大統領などの先人たちが失敗したのと同じ政策で成功を収めようというオバマ政権の決意が固かったからこそ、次々と妥協を余儀なくされ、必然的に法律が当初目指していた内容からすると不十分なものとなった。
まったく新しい政府主導のプログラムを開始するのではなく、オバマ政権はメディケイド(低所得者向けの公的な医療保険制度)の枠を拡大したり民間の保険会社に規制をかけることしかできなかった。また製薬会社、病院など医療業界からの圧力により、医療費の引き下げ要求を取り下げることとなった。そして、保守色の強い民主党員からの反発を恐れて、プログラム全体に厳しい予算制限をかけることに合意した。こうした決定により、最終的に健康保険は前よりも高額になり、新しい補助制度はあまり手厚い支援となることはなかった。
それでも計画案では、この制度が何百万人に適用され、議会が徐々に医療費を削減することができる手段を講じることができるようになっていた。2009年12月に上院で関連法案が通過した時、当時のトム・ハーキン上院議員(民主党、アイオワ州選出)はこのプログラムが強固な基盤を持ち、スペースを拡張するゆとりのある「スターター・ホーム(初めて購入するマイホーム)」だと述べた。
オバマケアの失敗と成功
7年後、トランプ大統領とオバマケアを批判する人たちは、オバマケアの「スターター・ホーム」は効率が悪く、取り壊しが必要な制度だと主張している。反対の声のなかには冷静な意見もあれば、この制度によって「死の判定団」(終末医療患者の延命措置中止を判断する機関)が設置されるといった、根深い偏見に基づく根拠のない意見もある。しかしこの制度が実際にもたらした結果に焦点を当てている批判の声もある。
中でも、以前より保険料と自己負担費用が高額になった人がいることが問題となっている。既往症の保障などが追加された新しいルールによって保険契約は以前よりも高額になり、オバマケアによる補助金ではその増加分を相殺できないことが多い。2013年秋に突然「為替レート・ショック」が襲ったとき、保険会社は新たなプランを発表し、古いプランの多くは廃止された。これにより、「契約中のプランに満足していれば、そのプランを継続できる」というオバマ大統領の言葉を覚えていた顧客たちは怒り、オバマ大統領や民主党の取り組みに共感していた国民からもそっぽを向かれることとなった。
私はそういった人々もたくさん取材した。数週間前、私はノースカロライナ州ブローイング・ロックに住む不動産業者フェスリー・シューラーさんに話を聞いた。フェスリーさんと飲食企業で働く夫は、まずまずな内容で手ごろな保険を見つけるのに苦労していたので、オバマケアに期待していた。フェスリーさんによると、夫婦は税込で年間約6万ドル(約660万円)の収入があり、2人の子供がいて、近い将来大学の学費を払うことになるという。
2013年後半、夫婦は医療保険に加入しようと詳しく調べてみたところ、税額控除後の保険料が月に360ドル(約4万円)かかることが分かった。シューラーさんはこう考えた。「本当にきついけど、保障内容がいいなら他で節約して何とかしましょう」。しかしその後、家族の医療ニーズによっては、自己負担額が年間1万3000ドル(約143万円)まで達する可能性があると知った。「言葉を失うくらい失望しました」
シューラーさん一家は結局保険に加入しないことに決めた。この一家が特別なわけではなく、そのためオバマケアのシステム全体が弱体化することとなった。 保険に加入しないのは比較的健康な人が多い。健康な人ほど無保険のリスクをいとわないからだ。これは、健康な人々から徴収する保険料で、深刻な病気を抱える人々の医療費をまかなう役割を担う保険会社にとっては、大問題となった。
多くの保険会社は、保険料を上げたり、いくつかの地域からは完全に撤退した。ノースカロライナ州などの一部の州では採算が合わなかったからだ。すでに提供サービスを縮小していたアメリカの医療保険大手「ヒューマナ」は2月14日、オバマケアによる保険取引市場からの全面撤退を発表した。少なくとも現時点では、2018年にはテネシー州の16の郡で、健康保険を扱う会社が全く存在しなくなる状況だ。
トランプ大統領、ライアン下院議長ら共和党員はヒューマナのニュースに飛びつき、「制度的欠陥」の証拠だとしてオバアケア撤廃の必要を訴えた。オバマケアに関する政治家の議論はここ7年間この調子だ。失敗ばかりが注目され、うまくいった部分に注目が行くことはほとんどない。
それでもうまくいったことはたくさんある。
- カリフォルニアやミシガンなどの州では、保険会社が十分にサービスを提供していない過疎地を除き、新たに規制がかかった保険取引市場が制度の立案者側が意図したとおりに機能しているとみられる。これらの州に住む中流階級の人々には、比較的しっかりした保障内容で、手ごろな価格のプランが利用できる。
- 自社の商品がどう機能するか、どうすれば上手く競争に勝てるかを理解する保険会社は増えてきているようだ。保険会社が当初予想していたよりも、顧客は価格に敏感なことが分かった。苦戦しているのはたいてい、雇用主を通さずに直接消費者に販売する経験が乏しい、全国規模の大手企業だ。
- 2016年の大幅な保険料の値上げは、2年間平均保険料収入が予想をはるかに下回ったことを受けたもので、保険会社が設定した最初の価格が低すぎただけだ。今でも保険料は平均して、同等の雇用主保険と同じか若干安いこともある。しかもそれは税額控除を受ける前の額だ。
- 「コモンウェルス・ファンド」と「ヘンリー・J・カイザー・ファミリー財団」が個別に実施した調査によると、自分で保険を購入する人やメディケイドを通じて医療保障を受ける人の大半は、現状に満足しているという。新しい保障内容に対する満足度は、未だに勤務先経由で保険に加入している人に比べて低い。さらに満足度は徐々に下がってきている。しかし、明らかに好意的な反応と言える範囲内だ。
また政府や民間の調査によると、保険の未加入者数がこれまでの記録上最も少なくなったという結果が出ている。 オバマケアにより保険に加入できるようになった人たちのことについて尋ねられると、共和党員がよく返すセリフは、「こういった人たちを混乱から救い出さねばならない」といったものだ。さらに「オバマケアによって保険に加入した人ですら生活が苦しくなり、暮らし向きは全く向上していない」と主張する。この主張はメリーアン・ハンマーズさんたちの体験したことと完全に食い違っている。さらに重要なのは、最も信頼性の高い調査結果とまったく一致していないことだ。