「アメリカ人は原爆投下について多様な教育をしている」米国の専門家に聞いた【オバマ大統領 広島訪問】

日本の皆さんに想像して欲しいのは、オバマ大統領が相当苦しんだのではないか、ということです。
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AFP時事

アメリカのオバマ大統領が27日、現職として初めて被爆地の広島を訪問する。アメリカでは、広島と長崎への原爆投下が戦争を早く終わらせた「必要な手段だった」と考える意見も強い。小さいころに日本に住み、記者として滞在経験もあるスタンフォード大学アジア太平洋研究所(APARC)のダニエル・スナイダー研究副主幹は、「それでもオバマ大統領は決断した」と語る。アメリカの複雑な思いを聞いた。

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■アメリカで「原爆」を疑うことは、むずかしい

−−アメリカでは、原爆によって太平洋戦争が終わり、多くの人の命が救われたという意見が聞かれます。そう思うのはなぜですか。残虐な戦争犯罪だったという意見はありますか。普通のアメリカ人はどう思っているのですか。

1945年にアメリカが原爆を広島と長崎に落とした時の、当時のアメリカ国内の状況を考える必要があります。戦争が始まって約4年がたち、国内に残された家族たちは「早くお父さんや子供たち、兄弟が帰ってきてほしい」と願っていました。私の父親も沖縄戦で戦いましたが、「硫黄島の戦い」を始め、大変困難な戦闘が続いて疲れ果て、「早く戦争が終わってほしい」と考えていたのは確かです。また、アメリカ軍は九州や本州に侵攻する作戦も立てていました。

原爆によって、もちろんそれ以外にも複雑で多様な要因はありますが、日本に降伏を早く決断させて戦争を終わらせた、アメリカ軍の日本の本土侵攻を防いだと考える人が根強いのではないでしょうか。

「戦争犯罪だったのではないか」という声は少ないです。アメリカでも、多くの市民を死に至らしめたという点では、道義的には議論がありますが、「戦争犯罪」とまで言えない意識が強く、原爆投下を決めた当時のトルーマン大統領の判断の正当性を疑う声は主流派にはなり得ません。

−−トルーマン大統領の評価は。

トルーマンはもともとは副大統領でしたが、大統領だったルーズベルトの死で、突然就任しました。「威厳もない小物が大統領になった」とする声もありましたが、太平洋戦争や朝鮮戦争など歴史が動く中で、(賛否はあっても)重大な決断に向き合った大統領という評価が今ではあります。彼の執務室には「the buck stops here(意訳:「ココが最後の決定の場だ」)という言葉を書いた置物があったのは有名な逸話です。

その「決定」の最たるものが原爆投下です。誰も、そのような決断をしたかったわけではない−−そういう思いがアメリカ人にあります。悲劇的な出来事だったが、必要な決断だったのではないか、と考える背景です。

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■二つ目の原爆への疑問

−−アメリカ人と話すと、たとえ原爆を正当化する人でも、複雑な感情があるのがわかります。他にはどのような議論があるのでしょうか。

戦争を終わらせるため日本に原爆を落としたことを正当化するアメリカ人に対して、たった3日後に長崎にまで二つ目の原爆を落とす必要があったのか、と問えば、「そこはおかしい」と思う人はいます。

10年ちょっと前でしょうか。私の息子が中学校の社会科の授業で、原爆について調べて、投下が正しかったのか「ポジションを取れ(賛成か反対かを明らかにしろ)」という課題がありました。私の息子は「たとえ原爆によって戦争を終わらせたことが正しかったとしても、二つ落とすのは間違っていた」という立場を取りました。

私は日米の教育の違いを調べたことがありますが、アメリカの教科書は、広島や長崎でどのような悲劇があったのかを日本以上に詳しく伝えているところもあります。アメリカでもデリケートなテーマにかかわらず、原爆投下の正当性を疑う意見も授業で紹介されます。

決して、一方的に原爆の考え方を押し付けているのではなく、多様な意見を示す。歴史とは「事実」だけを追い求めるというより、(指導者や国民が)歴史的な判断をした時の「当時の背景」や「時代の文脈」を学ぶ場だからです。

−−あなた自身はどうですか。

私は父親がアメリカ大使館に勤めていた関係で、1954年に、まだ小さかったうちから日本にきていました。今の沖縄と同じで、東京の中でもアメリカ軍が身近で、戦争の影が残っていました。その後、何度か広島や長崎に行きました。1960年代以降の世界的な反戦ムードの高まりもあって、私は若い頃は、原爆の正当性を疑うこともありました。しかし今は、もちろん複雑で多様な側面があるとはいえ、戦争を終わらせた側面はある、というのは説得力ある議論だと思います。

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■安倍首相は真珠湾に行くのか

−−オバマ大統領が広島を訪問することが発表され、アメリカ人はどのようなリアクションを取ったのでしょうか。

右派からも左派からも批判がありました。右派の人は、たとえオバマ大統領が直接的に謝罪の言葉を述べないとしても、広島に行くことは「謝るのと同じことだ」と考えます。戦争で戦った兵士たちの名誉を傷付けることになる。日本が被害者である部分だけが強調され、戦争責任を薄めてしまうのではないかという心配もあります。

広島の原爆投下を伝える展示を見て、不快に感じるアメリカ人は今もいます。アメリカによる原爆投下の酷さを伝えることに大部分が割かれていると感じるためで、「ちょっと待て。当時の時代的背景はなんだったのだ。そもそも(真珠湾で)米国を攻撃したのは誰だ?」と思うからです。

左派からは、オバマは広島で「核の恐ろしさ」を訴えたとしても、実際は世界の核軍縮交渉は行き詰まり、アメリカは軍備を強化している面もあるので、「偽善ではないか」と言う疑問の声も上がっています。

−−日本にはどのような影響がありますか。

大統領の広島訪問によって、「原爆」や「太平洋戦争」がアメリカ人の議論のトピックに再浮上しました。次は、「では、安倍首相はいつ(日本が攻撃した)真珠湾に行くんだ」「極端な話をすれば、南京や韓国には行くのか」という議論が起こり得ます。今回の大統領訪問によって、日本の政治的リーダー層自身も、大変デリケートで難しい歴史問題に向き合わないといけない、というプレッシャーがかかることになります。

もし安倍首相が真珠湾を訪問するとしたら、「日本が戦争を仕掛けた」と言うアメリカなど戦勝国側の歴史観と向き合わざるを得ない。大統領にとって難しかったのと同様に、とても難しい判断を迫られる可能性もあります。

今回の訪問でオバマ大統領は謝罪の言葉をおそらく言わないでしょうし、「広島を単に訪問するだけ」と思われるかもしれませんが、日本の皆さんに想像して欲しいのは、オバマ大統領が相当苦しんだのではないか、ということです。アメリカの現職の大統領が今まで、できなかったことなのですから。少しでも原爆投下の正当性に疑問を持っていると思われたら政治的に大きなダメージを受ける決断だったのです。

オバマ大統領は、2009年にチェコの首都プラハで演説し、「核兵器を使ったことのある唯一の核保有国として、行動する道義的責任がある」と演説しました。ルース駐日大使(当時)が広島と長崎を訪ねました(その後、ケネディ駐日大使やケリー国務長官も被爆地訪問)。ずっと頭の中にありながら、決断が遅れた。険しい坂道に向かって石を押し続けるようなタフな決断だったのではないでしょうか。同じように、安倍首相にとっても歴史と向き合うことは大変なことになります。

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−−オバマ大統領はなぜ今になって広島訪問を決断したのでしょうか

ルース元駐日大使とも直接話しましたが、常に関心があったようです。オバマ大統領は、人種問題やキューバとの国交樹立など政治的にデリケートな問題を議論をして、そこに向き合うときに並々ならぬ情熱を燃やします。ただ、先ほども申し上げたように、アメリカで原爆のことを話すことは大きな政治的なリスクがあります。「なぜ終わったことを蒸し返すのか」と言う声も上がるでしょう。デメリットも大きいことに、周囲が止めようとしたのは簡単に想像がつきます。

オバマ大統領といえども、任期の最後の方でしか訪問が実現できなかったのは確かでしょう。もちろん「レガシー(歴史に残る偉業)」を作りたいという思惑もあるはずです。

今回はオバマ大統領の言葉が大事なのではありません。広島で(安倍首相と)二人で並び、写真に取られる。その構図が大きなインパクトを世界に与えます。

■戦争って誰が悪いの?

−−広島や長崎など原爆について日本人自身が語るのはとても難しいです。

日本人の太平洋戦争の「語り方」は基本的に三つに分けられると思います。

一つは、戦争はアジア諸国を解放するためにやったと言う語り方。欧米の国がどんどん強くなり、そうした帝国主義的な動きから日本を守るためにやったという理屈です。

二つ目は、軍部が勝手に暴走して、日本国民は無謀な戦いに巻き込まれたのだという考え。

三つ目は、あえて主語を曖昧にして、「戦争そのものが悪かった、間違っていた、もう二度としない」と言う語り方です。

どれも違う立場の人たちがよく口にする言葉ですが、「受け身」であることに変わりありません。欧米諸国の帝国主義や植民地主義に対抗するため「仕方なくやった」と考えるにせよ、軍の責任だと規定するにせよ、戦争そのものがダメでだという考えにせよ、明確な主体がありません。「私たちは被害者です」という出発点からの語り口になってしまいます。

−−乱暴な文化論にするつもりはありませんが、日本人の「主体性のなさ」が戦争をめぐる言論でも現れているのでしょうか。

というより、戦争を語るときに被害者の視点に重みが置かれることは各地でみられることです。ヨーロッパ諸国も、実際はナチスに協力した面もあったにせよ、ナチスの台頭に巻き込まれた被害者として戦争を語ります。時代ごとに国民世論に変化はあるにせよ、韓国や中国なども一緒です。戦争の責任を曖昧にするため、「自分たちは被害者だった。悪い人たちに巻き込まれたんだ」とするのは、戦争の記憶を語るときに共通してみられる現象です。

アメリカ人にも私は言うんです。あなたたちは、「なぜ日本、韓国、中国は常にもめているのだ。過去は忘れて前に進めばいいのに」と揶揄するが、アメリカだって南北戦争やベトナム戦争のことを未だに引きずっている、と。州ごとの対立はありますし、南北戦争の論点の一つだった人種問題も解決しているとは言えません。イラクやアフガニスタンの戦争でも過去を引きずっているから様々な問題が起こる。

戦争は、長い時間がたっても、今を生きる人々のアイデンティティを作ります。自分たちの国や外国のイメージは、戦争体験を元に形作られます。日本もそうでしょう。終戦直後から、日本人は戦争を語り続けてきました。たくさんの本や映画やテレビ番組で戦争について議論を重ねてきました。

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−−戦争の記憶をめぐる争いはなくならないのでしょうか。

なくならないですし、いたずらに記憶をなくしてはいけないと思います。記憶し続けることが肝要です。そうしないと同じ過ちを繰り返します。

−−たとえ憎しみの記憶でも?

戦争の「解毒剤」は綺麗さっぱり忘れることではありません。常に会話を続け、記憶し続けることです。ドナルド・トランプ氏のような人は、人の無知や忘却につけ込みます。何度もなんども過去を思い出し、記憶し続けないといけません。そういう意味でオバマ大統領がリスクを取り、もう一度戦争の記憶を蘇らせたことは貴重なことなのです。