7月28日の米上院本議会にて、医療保険制度改革法(Affordable Care Act:ACA、通称オバマケア)の一部撤廃法案が、与党である共和党から3人の議員の反対票が投じられ、賛成49反対51の僅差で否決されました。
この瞬間、共和党の7年以上にわたるオバマケア撤廃の公約は、完全に失敗に終わったように思われました。
ところが、そんな喜びはつかの間でした。実は、議会で撤廃案が成立しなくても、現実にオバマケアの崩壊は始まっていたのです。
「加入させない」3つの取り組み
7月19日付の『ニューヨーク・タイムズ(NYT)』によると、議会の承認なしで、トランプ大統領はオバマケアを崩壊させるべくすでに3つのことを取り組んでいます。
1つ目は、トランプ大統領は保険加入の義務付けを廃止できませんが、オバマケアで定められている未保険者への罰金制度を緩和させることができます。具体的には、大統領として米内国歳入庁に対し、納税の際に無保険かどうかを確認しなくてもよいとか、税務上の罰則を回避しやすくするための多くの例外を認めるなどと指示することです。未加入による罰金制度がなければ、未保険者は増えるでしょう。
2つ目は、トランプ大統領はメディケイド(低所得者用の公的医療保険制度)を取得する条件として低所得者にさらに仕事を課すこと、あるいはメディケイドの保険料を増やすことを、各州で決めることが許可できます。これでは、貧しい人たちはメディケイドを利用しにくくなります。
たとえば、2児の母である私の友人は、メディケイドを利用しています。しかし、新たに条件として仕事を義務付けられると、働くために子供をデイケアに預けなければなりませんが、1カ月で1人分が約1500ドル、計3000ドルもかかります。
彼女は仕事に復帰したくても3000ドルの給与は得られないため、結果、自宅で子育てをすることに決めました。今後、メディケイドを利用するために仕事を再開しても、とてもこれだけ高額のデイケアの費用は払えません。つまり、メディケイドを諦めざるを得ないのです。
そして3つ目は、オバマケアは毎年、申し込みの期間が定められていて、今年も秋から始まりますが、その申し込み期間中、保険加入を奨励する宣伝をやめることです。
保険の仕組みなどについて告知宣伝しなければ、加入者は減るでしょう。しかも、全体の加入者が減れば保険料が高くなる傾向があるため、より加入しづらくなるのです。
これら3つの取り組みからは、議会で敗れたトランプ政権と共和党が何としても現実の場でオバマケアを崩壊に追い込みたいという狙いしか見えてきません。
申し込み期限も半分に短縮
そんな中、民主党の上下両院指導部は8月18日、保健福祉省のトム・プライス長官と、医療保険制度を管轄する「メディケア・メディケイド・サービスセンター」のシーマ・ベルマ所長に対し、以下の問題について詳細な回答と情報開示を要求しました。
(1)ウェブサイトの管理について:政府のウェブサイト『HealthCare.gov』は、健康保険を理解し加入するため重要なガイドラインです。ところが現在、誰がどれだけの費用を使ってウェブサイトを維持しているのか不透明です。
例えば、2018年のオバマケア加入申し込みは11月1日から受付が始まりますが、そんな重要な情報ですら、今のサイトからは非常にわかりにくくなっています。
(2)申し込み期間について:保険の加入申し込み受付期間が、従来の90日間から45日間に変更されています。なぜ半分に短縮されなければならなかったのでしょう。
(3)電話相談について: オバマケアについての問い合わせ窓口であるコールセンターで、800人の雇用が削減されました。まさに問い合わせが増えるこの時期に、なぜ一挙に減らすのでしょう。窓口が混乱し、きちんとした問い合わせ対応ができなくなることは目に見えています。
(4)直接相談について:米19都市には、オバマケアに加入する手続きなどについて直接相談できる「in-person assistance」と呼ばれる専門の担当者が配置されていますが、このプログラムも終了することになります。未加入の米国民はいったい誰に相談すればいいのでしょう。
(5)地域コミュニティへの働きかけについて:従来、米国では、マイノリティや女性、若者などへのヘルスケア対策はあまり行われていませんでした。
そこでオバマ政権は、それらを代表する団体や教会など地域コミュニティを通じて、保険の加入を促進する施策を行ってきました。ところが、トランプ政権では、そのような働きかけはまったく行われないようになってしまったのです。
富裕層「減税」のため
今後、オバマケアが崩壊すれば、数千万人もの米国人が無保険状態のままで健康が守られず、日常が混乱し、生活が破綻すると予測されます。特に、高齢者や貧しい人や女性、あるいはすでに病気にかかっている人など、誰よりも保険の必要な人が保険に入りにくくなります。
トランプ政権や多くの共和党議員は、なぜこんな苦しんでいる人をさらに苦しめるような政策を推進するのでしょうか。
多くの専門家は、政府の支出のうち、最大で急速に増え続ける医療費を削減することで、富裕層や企業の大幅な減税を実現するためなのだろうと指摘しています。
経済学者・宇沢弘文先生のラスト・メッセージである『人間の経済』という著書に、「人間は心があってはじめて存在するし、心があるから社会が動いていきます。ところが経済学においては、人間の心は考えてはいけないとされてきました」とあります。
トランプ政権や共和党による政策は、オバマケア改廃案やこれから取り組むであろう税制関連法案も含めて、経済的に苦しんでいる人には全く関心がないかのような内容です。
私には、崩壊に向かうオバマケアを見ながら、ますます米国社会における貧富の格差の拡大が懸念されて仕方がありません。
大西睦子 内科医師、米国マサチューセッツ州ケンブリッジ在住、医学博士。1970年、愛知県生まれ。東京女子医科大学卒業後、同血液内科入局。国立がんセンター、東京大学医学部附属病院血液・腫瘍内科にて造血幹細胞移植の臨床研究に従事。2007年4月からボストンのダナ・ファーバー癌研究所に留学し、ライフスタイルや食生活と病気の発生を疫学的に研究。2008年4月から2013年12月末まで、ハーバード大学で、肥満や老化などに関する研究に従事。ハーバード大学学部長賞を2度受賞。現在、星槎グループ医療・教育未来創生研究所ボストン支部の研究員として、日米共同研究を進めている。著書に『カロリーゼロにだまされるな――本当は怖い人工甘味料の裏側』(ダイヤモンド社)。『「カロリーゼロ」はかえって太る!』(講談社+α新書)。『健康でいたければ「それ」は食べるな』(朝日新聞出版)などがある。
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(2017年9月1日フォーサイトより転載)