【3.11】原発のない広野町が、収束の最前線になった 〜 原発作業員を支える元東電社員に聞く

原発がなかった福島県の広野町に、原発事故で大量の原発作業員がやってきた。この街で今起きていることは何か。原発作業員を支える元東電社員に聞いた。
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東日本大震災から3年。1日も休むことなく収束作業が続けられている福島第一原子力発電所。事故が発生する前の「日常」を取り戻すために、現場で働く原発作業員は、1日約3000〜3700人に上る。

現在も厳しい環境下で廃炉作業を続ける彼らの心身を支えるために、勤めていた東京電力を辞めたのが吉川彰浩さん(33)だ。福島第一原発、福島第二原発であわせて14年間、働いてきたが、2012年6月に退職。原発作業員を支える活動を始め、2013年11月1日には「アプリシエイト・フクシマ・ワーカーズ(AFW)」を立ち上げ、活動を本格化した。

吉川さんが今、懸念するのは、厳しい環境で熟練者が辞めていき、残った者も心身の疲労が積み重なっていること。「これまでは考えられなかった小さなミスが発生、大きな事故につながらないとは限らない」。さらに、原発作業員が抱えている問題が、労働環境を改善するだけでは解決できないとも指摘する。

今、原発事故収束の現場では、一体何が起こっているのか。原発事故収束の前線基地「Jヴィレッジ」のある広野町(福島県双葉郡)へ、吉川さんを訪ねた。

■原発のない町が、事故収束の最前線になった

原発事故発生直後から、放射性物質による影響を恐れ、福島第一原発から半径20km圏内は立ち入りが厳しく禁止された。東京電力や自衛隊は、福島第一原発からちょうど20km南に位置する「Jヴィレッジ」を前線基地に指定。同時に、広野町と楢葉町にまたがるJヴィレッジを経由しなければ福島第一原発に入れないように、道路を封鎖した。

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福島県の浜通り地区と福島第一原発の位置関係図

福島第一原発では大量の人材が必要とされていた。全国各地から、東電社員や協力会社の社員たちが、原発作業員として集められた。彼らは通勤に便利なJヴィレッジの南に位置する広野町に、生活の場を求めてやってきた。

しかし、広野町には原発作業員が暮らせる場所が圧倒的に不足していた。原発作業員の宿舎を確保するため、広野町の旅館や民宿は営業を再開。すぐにすべての宿泊施設が協力会社によって借り上げられた。ブティックホテルも同様で「満室」の看板が提げられた。

それでも全く、足りない。広野町のさらに南にある、いわき市のホテルや旅館も連日埋まった。いわき市から福島第一原発に通じる国道6号線は、毎日朝早くから原発作業員の車で渋滞。通勤まで片道2時間かかる人もザラにいる状態になった。

さらに、原発の過酷な労働環境が原発作業員に襲いかかる。原発内では暑くてもクーラーがつけられない。放射性物質による汚染を広げないためだ。紙のようなペラペラの防護服は、通気性が良くないため夏は汗の元になり、冬は寒さをしのぐ助けにはならない。

作業で疲れきっているのに、帰りの道も、また渋滞。ゆっくり休む時間が必要だ。民家やアパートは借りれないのか――。

ところが、賃貸の部屋を供給できない事情も、広野町にはあった。

広野町は、事故後すぐの2011年4月22日に屋内退避命令が解除され、日常生活ができるとされる「緊急時避難準備区域」に指定された。しかし、除染が行われない状態で安心して住民が住めないという声は大きかった。当時の山田基星町長は、2011年3月13日に出した町民避難指示を解除せず、国が緊急時避難準備区域の指定を解除した2011年9月30日以降も、住民は別の町での生活を余儀なくされた。

体育館などでの一次避難、旅館やホテルでの二次避難、そして、仮設住宅・借り上げ住宅での三次避難。刻々と変わる暮らしや、将来の見通しが立てられないことに町民も苛立ちを募らせる。避難先の住民との軋轢も生まれた。

町の避難指示が、いつ解除されるかわからない。そうなったときに、戻る自宅がないと困る。見ず知らずの原発作業員に、家を貸すのも怖い。そして、原発に対する怒りもあったという。

『原発のせいで私は自宅に戻れないのに、なんで原発作業員に自宅を貸せようか』

東電を辞めた直後、吉川さんは、原発作業員のために広野町にアパートが建てられないかと各地に出向いた。しかし、反応は芳しくない。原発に対する住民の反発が、原発作業員にも向いてしまったようだった。吉川さんは当時の様子を振り返り、こう分析する。

「広野町には原発がありません。福島県の同じ浜通り地区であっても、原発が立地している双葉町や大熊町、富岡町、楢葉町とは、住民のみなさんの原発に対する認識や思いが、全く違うのです。

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浜通りの各市町村には発電所がある

双葉町や大熊町には、原発があり、震災前にも全国から原発作業員がやってきていましたから、住民のみなさんもある程度理解があると思います。町の祭りを、住民と原発で働く人が共に楽しんでいた状況もありました。

しかし、原発がない町では、住民のみなさんに理解を求めるのは時間がかかる。何もしないで、すぐに理解されるというわけではないんです」

広野町は火力発電所がある。同じ発電所といえども、原発と火力発電所とでは、関わる人や会社の数には大きく違いが見られる。どちらも原発のほうが、圧倒的に多いのだ。

■住民の心が分からないなら、原発作業員の支援なんて『ひとりよがり』

手弁当で奔走していた吉川さんだったが、原発作業員を支えたくても、なかなかうまく行かない状態が続く。そんななか、2013年12月1日、広野町の住民らが開催するワークショップに誘われた。そこには、広野町を将来どんな町にしたいか、そのためには何が必要かを、自ら考える住民たちがいた。

しかし、そこで吉川さんはあることに気づく。

『自身が考える原発作業員の為だけの支援は、町の人々には理解を得られず迷惑なものなのかもしれない』

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吉川彰浩さん

広野町は2012年3月31日、町の避難指示を解除。町の避難指示を解除。住民に早期帰還を促すことになった。しかし2014年3月現在、戻った住民は、震災前の人口約5500人に対し、2014年2月24日現在で1352人と、やっと4分の1という状況だ。

町民の帰還が進まないため、医療などの町の生活インフラも震災前と同じように整っているとはいえない。スーパーなども退避し、まだ再開していない。原発作業員の「住みにくさ」の解決のために、新たに商店を出せばいいという考え方もあるが、町の人が考えていることは違った。

「原発作業員のために、TSUTAYAといった娯楽の場だったり、居酒屋、飲食店を誘致できたらなと私は思っていた。ですが町の方々が望んでいたのは、単なる労働力提供だけの、雇用の場をつくることではなかったのです」

例えば、炭鉱が衰退したから、炭鉱を閉山して別の産業に転換するということは、自分たちで選ぶ道だ。そこには「自分が選択した」という納得感がある。しかし、原発事故は違う。それまで問題なく成り立っていた仕事を、一瞬で奪ったのだ。

「町の方たちは、決して、働きたくないと思っているわけではない。自分たちの仕事に誇りを持っている人たちです。これまで自分がやってきた仕事を、もう一度やりたいと思っています。

これまで普通に農業が成り立っていたのに、(原発事故で)大なたでザーッとダメにされた。そんなところに、『これ、できるでしょ?』なんて新しい仕事を持って行っても、心がついていかないじゃないですか。

工場とか、いくらでも話は来ていると思うけれど、それは、それまで自分が選んでやってきた仕事ではない。単に労働力を提供しろと、札束で頬を叩かれているにすぎません。被災して、弱っている人たちなのに。

儲かるから、お金になるから、というビジネスの面だけで雇用や産業を作ることは、一体誰のためなのか。個人の儲けを優先しているだけではないのか。町の人と話をしていると、そういったことに気付かされます」

町の人の心が復興しなくては、原発作業者の環境も良くならない。吉川さんは2014年1月、AFWの活動目的に被災地支援を加え「福島原発で働く方々と原発事故被災地を支援します」と改めた。

住民の希望がない町は、そのうち廃れる。みずほ総合研究所の岡田豊さんによると、かつて津波に襲われた奥尻島には被害総額を超える約724億円の復興費用が注ぎ込まれ、立派な建造物が次々と建てられたが、今、町は過疎化が進み、必要とされない施設のメンテナンスに悩んでいるという。

「住民の思いを聞かないで、上から、外から目線で押し付けるのは、ひとりよがりです」

自らの経験から、吉川さんは語った。

■「東京電力の復興支援活動は形骸化している」 住民と原発作業員の溝を埋めるには

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AFWでは、冬に寒い思いをする原発作業員のために、日本各地から募金を募り、ヒートテックなどの機能性インナー(防寒性下着)や、カイロを届ける活動を続けている。2014年3月現在、防寒性下着を5200着(うち女性用200着)、カイロ9万個を贈った

吉川さんは、原発作業員を支える活動を行う傍ら、住民と東電を含む原発作業員との溝を埋め、橋をかける活動も始めようとしている。住民と原発作業員の共生が必要なら、お互いが存在を認めあうことが一番早い。

吉川さんは、まずは自らが住民の中に飛び込んで、一緒にボランティアを始めてみた。町の人の話を聞き、また、作業員の思いも伝える。そして、町の人と一緒に活動してみた。

元東電社員と身分を明かすと「何だお前」という目で睨まれることもあったが、何度も通ううちに、心をひらいてもらえた。町民らが作るボランティア団体とAFWとが、協力して活動を進めることができるようになった。3月29日に日本財団(東京都港区)で町民ボランティアの活動を知らせるイベントを共催することも決めた。ボランティアへの支援や、共に活動する人募集する。このイベントでAFWは、アポ取りや集客、当日のワークショップなど、広野町のボランティアの人を手伝えることになったという。

「東電社員というだけで、町の人からは白い目で見られ、原発作業員というだけで、差別されるかもしれない。住民が知らない人を怖がるように、東電社員や協力会社の方たちは、住民に対して怖いという思いがあると思う。

だけど、私だって受け入れてもらえました。町のボランティアと知り合って、まだたった3カ月しかたってないけれど、足繁く通うと、受け入れてもらえるんです。『俺ができたんだから』って、東京電力の人たちにも伝えたい。

住民のみなさんも、原発の収束や除染に関わる人たちも、目的は同じです。廃炉を成し遂げて、原発事故を収束させる。そして、町を復興させる。早く終わった方がいい。でも、今は、大きい溝があります。」

復興は、住民と同じ目線に立って初めてできることだと、吉川さんは話す。そんな思いから、東京電力が社員を自治体に派遣して実施している、除雪や草むしり、家の掃除などの住民への無償支援『復興推進活動』は、仕事としてやるべきではないと指摘する。

「はっきり言って、復興推進活動は形骸化しています。東京電力が自治体からは労働力としか取られない。自治体に頼まれたから、行うではなく、自らが声を拾い上げ必要なことをやるべきです。

地域の人もこれは違うと思っています。そういった事よりも廃炉作業をきちんとやって欲しいと言っています。社員に仕事として活動をやらせてお金を遣うのだったら、その分を不満足な賠償にあててもらいたいと。

もちろん、原発の収束・廃炉作業は、知識や経験のある専門家でないとできません。それができない社員が、復興推進活動で家の掃除などをやるわけです。制服を着て。

社員たちには、事故を防げなかったという反省があると思います。でも、それは仕事で取り返せばいい。福島の復興考えるなら、休みの日にボランティアで来ればいいことです。制服を脱いで。

制服は『鎧』です。それが社員を守っているとも言えます。でも、鎧は脱がないと、コミュニケーションはしにくいですよね。地元のボランティアにも復興推進活動で東電社員がやってきていますけれど、住民とのコミュニケーションは取れていない、その場限りの付き合いになっています。仕事としてやっているという事は伝わってしまいます。それでは溝は埋まりませんし、信頼も取り戻せません」

住民と原発作業員が並んで前を向き、復興を加速させる。吉川さんは、その架け橋役になりたいという。立場は違っても、良好な関係を築けるというのを見せたい。しかし、今は事故の原因である東電の目線と、住民の目線が揃っていない状態だ。

「住民の方と向き合うことが重要なんです。痛みも。そして、喜びも。

東電の社員たちは、うつむいています。贖罪の意識がある。社会から許されたいという思いがあると思う。でも、今のやり方は、社会から許されていると感じることができるものでしょうか。

制服を脱いで、ただ来ればいいんです。それだけです。

ですがそれがどれだけ勇気がいる事かは元東電社員として痛いほど分かります。勇気が出ない、怖いといった思いで二の足を踏んでいるなら、AFWに声をかけて欲しいと思います。一緒にやります。

東京電力は電気を作ってきた。電気を守ってきた。それは誇りを持っていいと思います。電気を作る、守る仕事は、今後も仕事としてしっかりやって欲しい。廃炉作業、収束作業もしっかりやって欲しい。

ボランティアがしたいなら、相手の目線にたって個人事でやるべきです。仕事の時間は自分の仕事をして欲しいです。大切な仕事なんですから。

もし勇気を出して住民の方とボランティアを行うときに色眼鏡で見られたら、私が守ります。胸を張って来て欲しいです」

吉川さんは東京電力の社員時代に会社から教わったことを続けているだけだと話す。

「町との共存、作業員さんとの共存、我々はチームなんだ。相手の目線で考える。そういう人間でありなさい。そう習いました。私はそれを忠実にやっているだけなんです。それが福島第一原発の本当の収束と原発事故被災地の復興に繋がります。私にとってそれが事故を起こした当事者側であった元東電社員として行う贖罪だと思っています」